菊の花

餅雅

第1話

 小菊は憐れな娘だった。といってもこの時代、小菊の様な娘は珍しいものではなかった。歳の離れた兄と父は戦に駆り出され、母は流行病で死んでしまった。身寄りの無くなった小菊を花街に売ってしまおうと考えた悪い男がいたが、まだ幼い上に骨と皮ばかりになっていた小菊を欲しいという店など無かった。

「どうしたもんやら」

 男は溜息を零しながら売れ残った小菊を見やった。ボロを着て地面に座り込んでいる小菊はもう、一人で立って歩けもしない、息をしているだけで死人と変わらない顔をしていた。だから下働きに……と言う訳にもいかなかった。男はなんとかしてこれをお金に替えたかった。

「なあ、どっかに羽振りのいい奴は居ねぇかな?」

 同じ人買い仲間に愚痴ったが、死にかけた小菊を一瞥して首を横に振った。

「やめとけって。それこそあんなの誰も買いはしないよ。このご時世だ何処でだって人は死ぬ。その辺に捨てておけば畜生が食い散らかしてくれるさ」

「それじゃあ、拾った俺の懐が寂しいじゃないか」

 男は少しでもいい暮らしがしたかった。その為に他の誰かがどうなろうと知ったことでは無かった。ただ、一円にもならないゴミを拾って買い手を探すためにカンカン照りの中、四方八方走り回ったと考えると、苛立たしく思った。

「あーあ、無駄骨もいいとこだ」

 男が落胆すると、愚痴を聞いていた同業者が思い付いた様に言った。

「ああ、そういえばあそこに持って行ったら金に化けるかもしれないな」

「何処だいそりゃあ?」

 同業者は目を丸くして男を見つめ返すと、徐に南に聳える山を指し示した。

「俺も又聞きなんだが、なんでもあの山には妖しが住んでるらしい」

 男も、その話は耳にした事があった。夜な夜な人を攫って食っているだとか、人には及ばない不思議な能力を使うのだとか専らの噂だ。

「そいつなら、食べる為に買ってくれるんじゃないか」

 同業者はニヤリと笑った。男は不満そうに口を尖らせる。

「おいおい、どう考えたって俺の方が美味そうだろう」

「違えねぇ。ま、そこはたくさん食わせてぶくぶくに太らせてから食べる様に念を押すんだな。まあ、俺だったらそんな売れるかどうかも分からないガキ捨てて他のを捜すけどな」

 そうは言うが、なかなか身寄りの無い手頃な人間など転がっていない。居ても同業者に先を越される事の方が多い。となれば後は追い剥ぎか、金持ちの蔵へ盗みに入る他無いだろう。その方が簡単だが、捕まってしまえば打首である。それを考えれば、男にとっては相手が妖しでも、この娘を何とかして金に替えたかった。

 男は虫の息になった小菊を脇に抱えると山へ入った。杉林を抜け、夕日を反射させた小川を越え、松や桧木の森を抜け、足場の悪い崖をそろそろと行く頃には日が暮れていた。

「おーい、誰かぁ」

 完全に道に迷ってしまった。振り返っても漆黒の闇が広がり、鈴虫の陰気な音がこだましている。男は帰ろうかと何度も思ったが、行けども行けどもさっき通ったような似た道に出て、ぐるぐると森の中を彷徨っていた。

「誰か……」

 ふと、男の瞳に何か光るものが映った。青白い光を放つ月に照らされて、ぼんやりとそれは山の中に佇んでいる。何だろうかと目を凝らしながら近づいた。山に咲いた白い花が月明かりを反射させているのだろうか? そう考えていたが、近づいてそれが人の形をしている事に気付いて足を止めた。

 やや、あれが噂の妖しではないだろうか?

 こんな山の中で、こんな夜更けに人が出歩いているはずなどない。しかも、松明の一つも持ってやしないのに、不思議とそれは闇の中でぼんやりと光っている。男の両足は小刻みに震えた。

 目があった。だが、男は悲鳴も上げなかった。ただただ震え、そこに立っているのがやっとだった。その妖しの眼が気紛れに他所へ向かうと、男はやっと喉から声を絞り出した。

「待ってくれ」

 妖しはのそのそと近寄って来ると、月明かりの下にその姿を晒した。男は全身白い毛むくじゃらの獅子の様な生き物を目の当たりにして息を飲む。

「この……」

 化け物……と言いかけて言葉を飲み込んだ。これが、本当にあの噂の妖しなのだろうか? 人の言葉を理解するのだろうか? この死にぞこないを本当に金に替えてくれるのだろうか? あらゆる思考が溢れて消えた。

「この娘を買って貰えないだろうか?」

 男は力無い小菊をまるで怪物に餌を与えるように放り投げた。毛むくじゃらの奥から赤い土面が覗くと、男は唾を飲み込んだ。まるで小菊が生きているのか確認するように面が右往左往する。暫くするとその毛むくじゃらの中から小袋が飛んできて男の足元に数枚の小判が転がった。

「……ありがてえ」

 これだけあれば、当分は楽に暮らせるだろう。男はそれを拾い上げると懐に終い、後退った。数歩下がって踵を返すと転げ降りるように山を下った。暗くて足元が分からず、大きな石に躓き、木の枝が跳ねた。そして踏み出した先で男は空を掴むと、あっと声を上げてそのまま谷底へ落ちて行った。

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