第8話
赤間がニューヨークから帰国してから十八年の星霜が過ぎ去っていた。
帰国してすぐに、赤間は亡くなった光一の墓前を両親、それに国吉と訪れ、冥福を祈った。
国吉はICPOとFBIを通じてニューヨークでテロ組織を壊滅させるための司法取引を行ったことを日本警察に伝えられ、大学時代に犯した罪については特例許可で無罪放免になっていた。
サトルとナオミはニューヨークの現地校に通う高校生の息子を連れて毎年来日し、大阪の本部で赤間と面会していた。
明子は久子の友人の息子と結婚し、神戸の山手で三人の子ども、それに久子と一緒に暮らしている。久子は家に籠るのを嫌い、神戸市内でブティックの経営をしていた。
赤間と言えば、大阪の本部を中心に情報機関を経営しながら、経済界で自営業会員としてそれなりの地位を占め、交際範囲を広げていた。
しかし、時の政府の国会答弁のごまかしや、次々に発覚した公文書の捏造、数を頼った強行採決など、そのやり口には我慢がならず、政府に迎合する経済界を去った。
そして大阪本部を右腕の黒部道夫に任せて中国に渡り、合弁会社の社長になって、中国・敦煌で暮らしていた。
赤間はその間、中国政府によるウイグル族弾圧事件を背景にして、当局に追われる家族と逸れた中国少年を国外脱出させることに関わり、自らも中国公安部から追われる身となった。
赤間機関とも呼ばれる赤間のエキスパート集団は、連携プレーでその少年を弾圧から救い、台湾に亡命した育ての親の許に無事送り届けた。
キキュキュキュキュー。危険を察知した野鳥の一斉に飛び立つ鳴き声がアメリカ東部の大都市ボストンの沖合にある島の密林に木霊(こだま)した。一斉に飛び去った野鳥の群のあとに一羽が密林の手前の赤茶けた土の上に落下していた。丹念に削られた鋭い木製の矢が鳥の体を貫いている。
生い茂る木々の間から青白い顔を覗かせた男が、伸びきった前髪を片手でたぐり、弓を傍らに置いて、仕留めた獲物に目をやった。荒い息をしている。
男の額からは大粒の汗が流れていた。鳥の群を追って来たらしい。汚れで黒光りしたヨレヨレシャツの腕の裾をめくり、辺りの低木から小枝を集め、火を起こし始めた。火がようやくちりちりと燃え盛るようになった頃、男は鳥から矢を抜いて、羽をむしり取り、裸になった肉を火で焼き、ナイフで肉をこそげとると、口でむしゃぶり食った。
最近リゾート開発が行われた島には、観光客の姿が増えていた。原始人のような男が島をうろついている。観光客の間でそんな噂が流れ、警察が捜索に入った。
その島は二十年ほど前にテロ組織のプリズンがあったところで、当時の捜索が終わったあとは強い海風で捻じ曲げられた蜜林に覆われ、プリズン本体の古びたバラック風の建物が隠れていた。当時は建物の内部にある死臭漂うプリズンの牢獄から、餓死した改造人間のものと思われる遺体が何体も重なり合って発見された。
捜索していた警察は、島の岸壁近くにある洞穴の中で「原始人」を発見し、保護した。
男は他の収容された人間が力尽きた後も、最後の力を振り絞って牢獄の格子を何らかの器具を使って破り、プリズンから外に出たらしい。そして島内にある果樹、野生の小動物や鳥を捕らえては食べ、飢えを凌いでいたと思われる。発見された時にはマインド・コントロールを掛けられた後遺症のような症状が見られ、保護しようとした捜査員に歯をむき出してつかみかかろうとしたという。
男は二十年ほど前に現地にあったプリズン収容者の生き残りではないかと、地元警察で東部方面の各地域の警察本部に連絡し、該当者はいないかどうか調べた。
その結果、かつてニューヨークを支配し、壊滅したテロ組織に捕らえられた生き残りではないかという説が有力となり、そのうちボストンの孤島のプリズンに送られたらしい収容者のリストがFBIの資料に残っていた。
その男がひょっとしたら北村光一さんらしいという情報を赤間にもたらしたのは、光一の父親・北村光太郎の友人になった元ニューヨーク市警の警官で探偵のシスコだった。赤間はその報を受けて、光太郎と一緒にニューヨークに急行した。
シスコはオフィスのデスクで調べものをしていたが、やって来た二人の姿を認めるとパソコンから離れて、デスク横にあるソファーに案内した。
「息子が生きているかも知れないということですね?」
光太郎が興奮を隠さずに言った。
「市警の知り合いから聞いたところでは、救出された男性はアジア系で、年齢は六十歳台から七十歳台、本人にはマインド・コントロールの後遺症と見られる強い言語障害があり、本人から詳しいことは一切聞き出せないでいる。そこでだ。その人に至急面会して欲しい。君なら息子さんかどうかの本人確認が出来るだろうから」
はやる心を抑えながら、光太郎は赤間とその男が入院している病院に向かった。シスコに案内されて入った病室のベッドにはシーツを鼻の辺りまで被っている男が横たわり、目を閉じていた。
「申し訳ないですが、起きて下さい」
シスコが男の耳元で呟いた。男はゆっくりと目を開け、顔を覆っているシーツを手で跳ね除けて赤間と光太郎に顔を見せた。
「光一! お前、生きとったんか!」
赤間は大きく頷いた。男は何か言おうとしたが、声にはならず、恥ずかしそうに横を向いてしまった。
病室の戸口に立っていた刑事と思われる男とシスコが小声で話し合っていた。耳を澄ますと、二人の会話が聞こえた。
「これは捜査上のミスじゃないぞ。そのことはわかってもらわないと困る」
刑事らしい男が早口で吐き捨てるように言った。
「いずれにしてもロングビーチ沖の水死体は北村さんじゃなかったことになる。警察発表が間違っていたとマスコミは騒ぐぜ」
市警は当時の担当刑事と鑑識課員を光太郎らの面会に立ち会わせていた。
鑑識課員が釈明し始めた。
「あの死体は全身が拷問で腫れ上がっていたし、しかも水ぶくれ状態だった。キタムラという名前のジャパン・ソサイアティのIDを所持していたし、血液型も一致していた。それに霊安室で日本人会会長も、キタムラだと認め、ジャパンから来た両親もわが息子だと断定したんだ。ただDNA資料を紛失してしまったのは痛かった」
シスコが発言した。
「決め手になるDNAの検体をなくしたのは全くの市警のチョンボだ。なくしたなら、なくしたで、日本の警察にキタムラの両親のDNA提供を求めることも出来たはずだ」
当時の捜査員らは反論出来ず、シスコの目を避けてしまった。その様子を見ながら、シスコが語った。
「どちらにせよ、今お父さんと赤間さん二人が確認したように、北村さんはここに生きている。あの水死体は全くの別人だったことが、これではっきりしたわけだ。それにいくら北村さんを会長が確認したと言っても、あんなに拷問と海水で膨れ上がった顔じゃ本人かどうか確認するのはなかなか難しい作業だ。両親の方もあやしい。現にこちらにおられるお父さんは当時、警察調書によれば、『顔が異様に腫れあがっており息子かどうかはっきり認める自信はないが、ニューヨークに来てから二十年ほど年を取った息子の顔をよく知っている会長が本人と断定したので、やはり息子は殺害されたのかと思わずにはいられなかった』と証言している。お母さんは動揺が激しく、醜い死に顔は正視できなかったし」
当時の鑑識係の釈明は続いた。
「我々市警としては知人や両親の遺体確認で本人と断定された上に、所持品や血液型などを考慮してあの遺体をジャパン・ソサイアティのスタッフ、キタムラと断定したんだ。我々の責任じゃなかろう」
シスコは北村が殺害されたと勘違いされた事情について語った。
「事故で死んだ工作員リサ・マイルドが国吉への見せしめのために北村さんのIDをわざと死体に残したとされている。水死体で発見された人間と北村さんは、状況から見て違うプリズンにいた可能性が高い。水死体の方はニューヨーク。北村さんはボストンだ。北村さんが「不良品」としてボストンに移送される前に収容されていたニューヨークのプリズンでは牢獄毎に囚人番号と同じ番号が振られていた。北村さんの番号は117号。彼が実際にボストンに移送されてから、空き室になった117号に、別のマインド・コントロールされた人間が放り込まれた。117号で人が入れ替わっているのに気が付かないまま、リサが北村さんの殺害を命じた時、命令を受けた実行犯が117号室にいるのが北村さんと思い込んで、モーター船に乗せてロングアイランド沖に出て、海に突き落とす前にリサから受け取っていた日本人会IDカードをピアノ線で北村さんの首に巻き付けた。そして至近距離で後頭部に弾丸を撃ち込んで、北村さんを海に突き落とした。それが死に至るまでの詳細ということだ。とりあえず市警としては、あの水死体は一体誰なのか至急に調べ直すことだな」
シスコが鑑識職員に言い渡した。
光太郎は早速日本で待っている妻に息子が生きていたことを知らせるべく、携帯電話を取り出していた。
当時の日本人会会長・水原も入院中の病院で北村が生きていたことをシスコから聞かされ仰天した。市警立会いの下で北村の死を公式に認めていたため尚更であった。
「わたしはあの暗い霊安室の中でスポットライトに照らし出された顔を見た途端、すっかり冷静さを失ってしまいました。その顔が腫れ上がり、余りにも醜かったからです。わたしは北村君が今まで一度もなかった無断欠勤をしたことで、犯罪に巻き込まれたのではないかという思いを強く心の中に刻み込んでいた記憶があります。そのせいか、北村君が組織から酷い拷問を受けたと警察から聞いていたので、あの醜い顔を見た途端、遺体を北村君と思い込んでしまったのです。申し訳ありませんでした」
北村が生きていることを確認した赤間は、大阪本部に連絡すると共に、国吉に知らせた。国吉は驚き、喜び、早速ニューヨーク入りして、赤間と病院に北村を訪ねた。
北村は目をつぶっていたが、二人がベッド・サイドに座ると、ゆっくりと目を開けた。
「北村、わかるか? 俺だ、国吉だ」
国吉は北村の虚ろな目を見つめた。北村は天井を見つめてじっとしていた。
「組織のプリズンでマインド・コントロールをかけられていたらしい。そのせいで酷い言語障害が残り、まだ記憶や意識が完全に戻っていないと医者が言っていた」
「なるほど。俺のこともわからないようだな。元に戻るんだろうか?」
国吉は不安げな様子だった。
「ご両親には知らせたのか?」
「お父さんは面会済みだし、お母さんがこちらに向かっている」
「それにしても良かった。少なくとも命だけは永らえたんだからな」
国吉は天井を見つめたままの北村の顔を覗き込んだ。その途端、北村が歯をむき出し、国吉の喉の辺りに噛み付いた。
「痛!」
国吉は北村をベッドに押しやった。喉仏を少し外れたところから出血していた。
「お前のしたことを恨みに思っているのかも知れないな」
赤間は喉にハンカチを当てている国吉の顔を見た。
「俺はこいつの人生の軌道をぶっ壊してしまったんだからな。恨まれても仕方がないよ」
国吉が白い歯を見せた。
翌日北村の母親・加寿子が病院に到着し、息子と対面した。シスコも同席していた。
「光一、よく生きていてくれたね!」
加寿子はやさしい目で光太郎に寄り添いながら光一を見つめていた。担当医が病状を説明した。
「長い期間拉致され、その間に施されたマインド・コントロールの副作用で言語障害が残り、記憶障害も出ています。ご本人はマインド・コントロールに対して強い拒絶反応を示していたようで、国吉さんに噛み付いたのも、そのひとつの名残と思われます。すなわち自分に対して危害を加えそうな人間に先制攻撃を加えようとするのです。このような症状は入院加療である程度は治りますが、時間はかかると思います」
光太郎らは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていた。続いてシスコが更に事情を語った。
「北村さんは、完全にはマインド・コントロールがかからなかったようなので、人間爆弾として使えず、いわゆる不良品の烙印を押されてボストンの孤島に流されたようです。あのボストンのプリズンは『不良品の墓場』と組織で言われていたそうです。島に収容されてからしばらく経って組織が壊滅し、島にいた組織の連中は北村さんらを牢獄に放ったらかしにしたまま逃亡したようです。もしも北村さんが牢獄を破ることが出来なかったとしたら、他の収容者と同じように餓死して亡くなっていたでしょう。その点非常にラッキーでした。それから、北村さんと間違われたロングビーチ沖の水死体ですが、市警のその後の調べで、ニューヨークのプリズンに収容されていた在米韓国人だとわかりました。アジア人同士で顔つきなどがよく似ていた点も北村さんと間違われた大きな原因だったようです」
「その方には親族がおられるのかしら? あなた、シスコさんに訊いてみて」
加寿子が光太郎を促した。
「いずれにしてもう少し調べてみないとなぁ」
「では、わたしたちが誤って日本で葬ってしまった韓国人の方の遺骨は、無縁仏として新たに納骨し直す必要がありますね。そうですね、あなた」
加寿子は光太郎の顔を見た。
「そうだな。光一とも変な縁が出来てしまったわけだし、丁重に納骨し直そう。我々にお任せいただいてよろしいですかな?」
「市警に確認してみます」
シスコが言った。
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