第3話
神戸の山手にある大邸宅の居間で、女が受話器を持ち、イライラしながら相手が出るのを待っていた。
「俺だ。何か用か? 」
やっと男が出た。
「明子のオフィスがあるWTCが破壊されたの、勿論知っているわよね。明子と全く連絡が取れないのよ! アパートに何度も連絡しているけど、一向に出ないし。何か情報入ってない?」
「お前、銀行にも問い合わせたのか?」
「勿論。ニューヨーク支店は吹っ飛んだから、日本の本社にかけてみたけど、お話中ばかりで全然つながらないのよ。安否確認の電話が殺到しているみたいだわ」
「大丈夫だろう」
男が言った。
「どうしてそんなことわかるのよ! 死者が何千人も出ているのよ」
「落ち着け。俺が調べてみるから安心しろ」
「出来るだけ早く知らせてね。お願いよ!」
女が興奮して電話を切った。
リサの死が確実なものに思われた時から、赤間は抜け殻のようになった。塾を休み、しばらくマンションで呆然として暮らした。虚脱感が体中を覆っていた。リサはいつか帰って来るのではないか。いや、きっと戻って来る。何度そんな思いを抱いたことか。
しかし時は流れ、赤間はリサの死という現実を受け容れるしかなかった。
ある夜飲み歩いて遅く帰宅した。ドアをキーで開け、灯りをつけて部屋に入った。何処となく部屋の様子が違って見えた。壁に掛かっている物やベッドの周辺の物が動かされたような気配があった。最初は酔いのせいかとも思った。しかし、デスクの引出しの中を開けると、整理しておいた小物が雑然と動かされた跡があった。間違いない。誰かが部屋に侵入したのだ。
赤間はセキュリティ会社に電話を入れ、責任者に至急連絡をするように伝言した。一時間ほどして電話が入った。
「B号室の赤間だが、留守の間に部屋が荒らされた。至急事情が聞きたい。今日昼間に勤務したガードマンに連絡するように言ってくれ。至急だ」
間もなくガードマンから電話があった。入居当日出会った年配のガードマンだった。
「責任者から話を聞いただろう。何か心当たりはないか」
少し言いよどんだ後で、返事があった。
「ミスター・アカマが入居された日に来た電話工事の男が二人、B号室の部屋のキーを貸してくれとやって来たんです」
赤間はアパートに入居した日、電話工事を頼んだことを思い出した。
「一体何をしに来たと言っていた?」
「お宅から電話機を交換してくれという依頼があったと言っていましたが・・・・・・」
「それでどうしたんだ?」
「いや、こちらは何も聞いていないし、キーも預かっていないと言ったんですが・・・・・・」
「ですが、どうした?」
「会社に直接本人から連絡があり、そうしてくれと言われている。客の依頼を忠実に実行しなければ、商売に支障が出る。これは契約行為であり、契約不履行で訴えられたらお前責任を取れるのか、と迫られたので、ついマスター・キーでドアを開けてしまいました」
「何て事をするんだ。それでもセキュリティ会社の人間か。俺は全く依頼などしていないぞ」
「申しわけありません」
ガードマンの沈んだ声が受話器の向こうで聞こえた。
「それで何という電話会社で、従業員の名前は?」
「・・・・・・」
「どうした。俺の言ったことが聞こえなかったのか」
「何も聞いていません」
「今すぐ来てくれ。すぐにだ」
赤間は、ばかばかしくなって電話を切った。
念のため電話機を調べたが、全く同じ電話機だった。交換なんて嘘っぱちだ。それにしても、何の目的で侵入したのだろう。物盗りか。赤間は部屋の隅々を調べていった。デスクの上に置いていたラックのCDはそのままだ。並べた順も同じだった。ベッド周りはマットや敷き毛布などに触った形跡はあるが、物はなくなっていない。クローゼットの衣服なども触った様子はあるが、そのままだ。
クローゼットの上方に目を転じると、上部の戸が少し開いているのに気付いた。天井近くのかなり高いところにあるため、普段使っていないスペースだった。椅子に上り、開こうとすると、片方の取っ手がない。支えになる部分が電動ドリルか何かで丸く切り取られ、穴がぽっかり開いていた。変だな。もう一方の取っ手で戸を開け、背伸びをしながら中を覗きこんだ。
「カメラだ!」
赤間はカメラを取り出した。ワイアレスで映像を送るリモコン操作のモニター用カメラだった。高性能らしいマイクもついている。
何故こんなものが。一体いつからここにセットされていたんだろう。赤間は首を傾げた。電話会社の技術者になりすました何者かがセットし俺の部屋を覗いていたんだ。しかし、何のために。
ひょっとしたら、電話にも仕掛けがあるのでは。急いで電話機を取り上げ、表と裏を調べた。裏に不自然なタップがくっ付いていた。盗聴器だ。当然俺の会話を盗聴するためだろう。赤間はカメラと盗聴器をデスクの上にまとめて置いた。
間もなくガードマンがやって来た。私服の姿は初めて見たが、腹の出っ張りだけは同じだ。
「これを見ろ。俺の部屋に覗き見のカメラと盗聴器が仕掛けてあったぞ」
ガードマンは驚いた顔で赤間を見た。
「二度やって来たという二人の男は同じ人物なのか?」
「はい、間違いありません」
「男の特徴は?」
「両方とも中肉中背で、二人ともサングラスを掛けていたので眼の色はわかりませんでした。髭が濃かったです。二人とも四十歳くらいの感じで、スキー帽のようなものを被っていましたが、耳元から金髪がのぞいていましたから、北欧系の人間かも知れません」
一体その男らは何をしようとしていたのだろう。俺の動静を探ろうとしていたのだけは間違いない。
「これからはどんなことを言われても、二度と俺のいない間に部屋のキーを開けるなんて事はするな」
ガードマンは下を向いて頷いた。赤間は念のためマンション管理会社に事情を話し、ドアにもうひとつ別のキーをつける許可を得た。
「おい、モニター画面が消えたぞ!」
アパート近くのモニター・ルームで男が叫んだ。
「ばれたらしいな。次の手段を考えないと」
もう一人の男が急いで受話器を取り上げた。
マンハッタンに夕暮れが迫っていた。その中心にあるGターミナルは家路につく人々を吸い込み、郊外に向う電車がプラットフォームから次々に発車していた。
地下にあるオイスター・バーに灯りがともり、国内からは無論、海外から空輸された生牡蠣と調理された牡蠣がテーブルに大皿で運ばれ、客の胃袋におさまっていった。抜きたてのハウスワインを傾けながら、その日のビジネスを語る年配の経営者。キャンドルの可憐な炎の下で恋を囁くカップル。マンハッタンの夜は長い。
接続する地下鉄から吐き出された通勤客の流れの先には売店があり、家路を急ぐ人々がソフト・ドリンクを買い求める行列が出来ている。売り子は素早く客をさばいている。
「Next !(さあ、お次の方)」。
ドーム型のターミナルにある中央コンコースには円形の切符売り場があり、こちらにも乗客の列が出来ている。売り場のそばにある大時計の針が午後五時十五分をさした瞬間だった。
耳をつんざく爆発音とともに天上や壁が一気に崩れ落ち、辺りに引き裂くような悲鳴が木霊した。瓦礫の下には、乗客らの血みどろの死体が折り重なっていた。
サトルが大音響を聞いたのは、ターミナルから百メートルほどのところにある書店の中だった。
「一体何なの!」
サトルの女友達ナオミは買おうとした文庫本を思わず手から滑らせ、サトルと顔を見合わせた。気が付くと二人は通りに飛び出していた。周りのビルや商店からは客や従業員が同じように飛び出し、一斉に駅の方角を見ていた。駅の建物から黒煙が噴出し、窓から炎が大蛇の舌のように茜色の空に向って燃え盛っていた。
ニューヨークに住み慣れた二人にとって、パトカーや救急車のサイレンは普段驚きもしない。
だが、その日はまるで勝手が違っていた。夥しい数の緊急車両が現場に急行するサイレンの轟音に、二人は両耳を押さえた。停まった緊急車両から防災服を着込んだ救急隊員が担架を持って次々に瓦礫の中へと走って行った。駅の中からは、辛うじて生き延びた乗客が顔をススで真っ黒にし、ふらつきながら両手を上げて助けを求めていた。
赤間はオフィスから国連ビルの近くにある自宅のマンションに戻り、いつものようにFMラジオのロック音楽に耳を傾けていた。ドアーズの「詩人」ジム・モリスンの魂を搾り出すような叫びが突然冷静な男性のアナウンスに変った。
ラッシュアワーで混雑するGターミナルで先程大爆発が起こり、ニューヨーク市警の発表によりますと、これまでに通勤客ら三百五十六名が死亡、五百名以上が重軽傷を負いました。Gターミナルは建物のおよそ半分が倒壊し、救助作業が進むと、死傷者の数は今後さらに増える見通しです。市警ではテロの可能性が高いとみて調べを進めています。なお、Gターミナル付近では大幅な交通規制が敷かれており・・・・・・。
WTCテロから僅か一か月しか経っていなかった。
ナオミは毎夜国連ビル近くの雑居ビル二階にあるスナック「舞」に勤めている。昼間はアート・スクールに通う留学生だ。ニューヨークに来て四年目になる。
Gターミナル爆発の夜、舞が開店すると同時にサトルが姿を現わした。アルバイト先の書店からの帰りだった。
「ハイ、サトル。いらっしゃい。ナオミちゃんがお待ちかねだよ」
舞のマスター、ケンジが声を掛けた。サトルはマスターの隣に立っているナオミの真向かいのカウンター席に腰を降ろし、ナオミに微笑んだ。
「いらっしゃい。さっきは驚いたわね」
ナオミが微笑を返した。
「全く物騒な世の中だな。気をつけなくっちゃ。さて何にするかな」
ケンジがサトルに声を掛けた。
「フォア・ローゼスの水割りを」
「はいよ。ナオミちゃん、入れてあげて」
ナオミはボトル棚の扉を開き、ウィスキーを取り出して水割り用のグラスに黄金色の液体を注いだ。
「ニューヨークは過激派のターゲットにされているみたいだね。もうニューヨークにいるのが怖くなったよ」
ナオミの入れたウィスキーを舐めながら、サトルが言った。
「よせよ、そんなこと言うの。テロは何処に居ても起こるもんさ。ニューヨークに限らないよ」
ケンジが眉をひそめた。
「だがねえ、こうたて続けにあると・・・・・・」
「サトル、情けないこと言わないで。あなた男でしょ?」
ナオミがにらみつけた。
「テロを嫌がるのに、男も女もないだろうさ。こんなに身近で次々に起こると、弱気にもなるさ」
サトルは二杯目を注文した。
「ペースが速いじゃないか。まあ、酔って早く嫌なことは忘れることだな」
今度はケンジが水割りを作った。
一階のドア・チャイムが鳴り響いた。ケンジは水割りを出し、遠隔操作の監視カメラでドアの外に立つ人物を確認した。
「初めての客だな」
ケンジはドア・キーをリモコンで開けた。階段を昇って来る足音が近付いて来た。
「いらっしゃいませ」
ケンジとナオミが客に挨拶をした。
サトルが振り返ると、中年の男が立っていた。男はサトルから三席離れたカウンター席に腰を降ろした。
「メニューを見せてくれ」
ぶっきらぼうに、男が言った。ナオミがおしぼりとメニューを手渡すと、男はおしぼりを前に置いたまま、メニューを眺めていた。
「ジェントルマン・ジャックをオン・ザ・ロックで」
そう言うと、男は髪をかき上げ、両手の指を、祈りを捧げるような恰好で結び、両腕をカウンターの上に置いたまま、ボトルが並ぶ正面の棚を見つめていた。
ケンジは男に目を注いでいた。白髪混じりの長髪だが、頭のてっぺんは幾分髪が薄い。団塊世代だろう。女好きのする横顔だ。何処かで女を泣かしての帰りかも。。
ナオミがオン・ザ・ロックをコースターの上に置いた。男はウィスキーを一気に飲み干した。
「もう一杯同じのを頼む」
そう言って、男はケンジをちらりと見た。ケンジは気取られまいと目をそらせた。
「マスターはマンハッタン長いの?」
突然、男が訊いた。
「わたしはアメリカ永住組ですから」
「そうか、永住組か」
男は納得したように頷いた。
「お客さん、この店何処でお知りになりました?」
今度はケンジが尋ねた。
「俺はこの近くに住んでいる。ここはセカンド・アベニュー四十九丁目のあたりか。よく通るところだけど、今まで気付かなかった。今夜ふと看板が目に入ったら、舞って書いてあるじゃないか。ちょっと嫌なことがあったもんだから、酒を飲みたくなった。こんな夜は日系のスナックが落ち着くよ」
「そうでしたか。まあ、お近くでしたら今後ともご贔屓に」
ケンジが商売っ気を出した。
「G駅の爆発だけど、あれはテロと断定されたんだろうか。マスター、何か聞いていない?」
男の目は鋭くケンジに注がれていた。
「出勤前にテレビを見たんですが、犯行声明のようなものは今のところ出ていないそうです。でも、現場の様子からテロの可能性が非常に高いと言っていました。ホワイトハウスも大騒ぎになっているそうですよ」
「そうか」
音声を絞り込んでいたテレビ番組の映像がケンジの目に飛び込んだ。
「あっ、ちょっと、ナオミ、テレビのボリュームを上げておくれ! 続報だ」
ナオミがリモコンで音声を上げた。画面に速報が流れている。
『Gターミナル爆発事件で政府調査団は先ほどFBIと共同会見し、事件はアメリカ国内に潜伏していると見られるアラブ過激派グループの犯行と断定し、実行犯のひとりと見られる男を指名手配しました。手配されたのは、元ブラック・ムスリムのモハメッド・イスラーム・ヒラムで、一九八一年十月二十一日、ニューヨーク州ナイヤックで発生した黒人過激派グループによる現金輸送車襲撃事件に関係したとされる人物です。この事件では輸送車のガードマンと非常検問中の警官合わせて三名が射殺されています。このM作戦の実行犯グループはまだ逮捕されておらず、先月発生したWTC爆破テロ事件にも加わった可能性もあり、当局はその関連を調べています』
「やっぱりテロだったんだ」
ケンジがナオミに音声を絞るように指示しながら言った。
サトルは爆発現場の映像を観ながら顔を歪めていた。
男も映像を食い入るように観ていた。
暫くして、男の目がナオミと話しているサトルに向けられた。
「ごめん。君は留学生かな」
サトルが男の方を見た。男の眼は充血していた。泣き腫らしたのか、酒のせいなのかわからない。
「いえ、フリーターです」
「フリーター? ああ、色々と職を変る世代なんだね。フリーランサーのことだな」
「まあ、そういうことです」
「君はマンハッタン暮らし、長いの?」
「二年くらいですが」
「9・11に続いて今度のGターミナルを体験したわけか?」
「はい、そうです」
「どんな感じなの?」
「いや、驚きましたよ。一生に一度の大事件を二度も体験しちゃったという感じで」
「そうだろうな」
男は何度も頷いていた。
「もう長いんですか? こちらは」
サトルが男を見つめた。
「まだ来たばかりさ」
「失礼ですが、何をされているんですか」
「自営の仕事だよ」
男はオン・ザ・ロックをぐいと飲んで一瞬下を向き、押し出すように言葉を吐いた。
「恋人が死んだんだ。9・11で」
サトルは突然の言葉に面食らった。
酔いが回ったせいか、男は恋人の話を始めた。
「WTCにあるレストランでウェイトレスをしていた。あの日、本来なら非番だった。偶々同僚が風邪を引いて熱を出したので、代わってやったんだ。それでやられちまった。遺体も見つからない」
男の充血した眼が潤んでいた。
サトルはナオミと顔を見合わせた。ナオミの顔は引きつっていた。三人は黙って男の話を聞いていた。
「暗い話をしてしまい、申し訳ない。君らとは全く関係の無い個人的な話を。マスター、勘定を頼む」
男は立ち上がり、料金とチップをナオミに手渡して階段の方に向った。
「ありがとうございました。またどうぞ」
男は振り返り、サトルらを見た。
「また来るよ。これを何かの縁と思って」
これが赤間とサトルの出会いだった。
舞が閉めたその日の深夜、サトルはナオミと一番街にある日系スナックに立ち寄った。舞からは眼と鼻の先である。ナオミは直ぐにダイエット・コークと焼きそばを注文した。サトルは好きなストレート・バーボンの水割りを飲んだ。
ナオミはコークを一口飲んでからサトルに話し掛けた。
「さっき店に来たおじさん、すごく陰のありそうな人だったね」
「本当だね。恋人がWTCのテロで亡くなったと聞いて、驚いたよ。何千人と死者や行方不明者が出たけど、周りで実際に事件に巻き込まれた人の話を聞いたのは初めてだったしね」
「そうそう」
「あの感じからして、いわゆる団塊の世代という奴さ。こちらで言うベビー・ブーマーだ。競争相手が多いから、きっと受験や就職で苦労した口だと思う」
「同世代の人数が多いってどんな感じかしらね。もうひとつピンと来ないわ、わたしには」
「それはボクも同じだ。でも何かにつけて競争相手が少ないのは有難いことさ。その分楽に人生が送れそうで」
ナオミは首を傾げた。
「サトルって案外単純なところがあるわね。単純というか楽観的すぎるというか。物事ってそんな簡単に割り切れないわよ、実際は。でも意気地なしのところもあるし、あなたって人がわからないわ」
「意気地なしって、どういう意味だよ」
サトルは口を尖らせてナオミを睨みつけた。
「テロのことよ。あなたテロが恐ろしいって日頃よく言うじゃない?」
「そら怖いさ。ほら、日本であった事件。地下鉄に乗っていて毒ガスのサリンを撒かれたり、別の事件で車両もろとも爆弾で吹っ飛ばされたりすることを考えたら、おちおち地下鉄にも乗れないよ」
「でもそんなことばかり考えていたら、それこそ生きていけないよ。それともニューヨークを離れるつもりなの?」
ナオミが心配顔で覗き込んだ。
「うん、それなんだよな」
サトルが下を向いた。
「よしてよ。一体どうするつもりなのよ。日本に帰っちゃうわけ?」
「いや、そこまでは思ってないよ」
「だったら、どうするのよ。こちらの田舎にでも引っ込むつもりなの?」
「うーん、それもなあ・・・・・・」
「はっきりしなさいよ! 男なら」
「そう言われても。まだ色々思案中だ」
ナオミはじれったさを抑えられない。
「折角世界最先端の大都会で暮らしているのに、テロを恐れてすごすご引き下がるなんて勿体無いわよ。後で絶対後悔するって」
「世界一の都会だからこそテロの標的になるんだよ。WTCは世界経済のシンボルだったから狙われた。Gターミナルはニューヨーク最大のターミナルだ。それをぶっ潰すことが彼らの存在を世界にアピールすることになる。このニューヨークにはそんなシンボルが集中している。次は何処が狙われるのか不安になって当然だろ?」
真剣な表情のサトルに対し、ナオミはケロっと言った。
「めったに死ぬことはないわよ。わたしはここで暮らしたい。危ないのは何もニューヨークに限らない。テロリストは世界中何処だってターゲットにするわ」
「それはそうだけど、相対的に安全なところっていうのはあるはずだから」
「サトル。ひとつ言わせてもらえば、あなたってまだ本当の意味でニューヨークの凄さっていうものがわかっていないからそんなことが言えるのよ。ニューヨークって町が醸し出すパワーが・・・・・・」
「パワーって? だったらナオミはその凄さとやらがわかっているとでもいうのかい」
サトルは食い下がった。
「ええ、少なくともサトルよりはね」
「一体どんなことさ?」
「ニューヨークでは移民の国アメリカ合衆国の代表みたいに世界中の民族がマンハッタンを中心に暮らしている。アート・スクールに通ってみてそれがはっきりとわかったの。同級生と話してみると、それぞれ自分や親のルーツをきちんと言えるのね。女友達にマリアって子がいるんだけど、マリアの父方のおじいさんはハンガリー出身で、六人兄妹の長男だった。他の兄妹は結婚や何やらで、その後ヨーロッパ各国に散らばり、暮らしたらしい。長男だったおじいさんは両親が亡くなると貧しい故郷を捨てて職を捜しにマンハッタンにやって来た。そしてここマンハッタンで知り合ったドイツ系ユダヤ人の女性と結婚し、息子と娘をもうけた。その息子がマリアのお父さんってわけ。お父さんは貿易関係の仕事でドイツに三年、南アフリカに二年、東京に五年というふうに世界各国で暮らした。ドイツのフランクフルトに住んでいた頃ノルウェー出身のお母さんと出会い、熱烈な恋愛の末に結ばれ、マリアが生まれた。お父さんはその後、両親が暮らしたニューヨークに住みつき、マリアはアート・スクールに通い始めたというわけ。マリアのせいぜい二世代前くらいをとってみても色んな民族が関わって家系が出来上がっているでしょ。それを想像の原点にしてみるだけでも、このニューヨークにはマリアのおじいさんのように新しい生活を求めてやって来た、おびただしい数の移民がいる。だからニューヨークは、アメリカ合衆国に乗っかった小さな地球みたいなものよ。その地球には世界中の民族の文化が集まり、お互いに切磋琢磨(せっさたくま)し合っている。そして世界中に向けて最先端のファッション、絵画、音楽などを発信し続けているの。あなた、ここに暮らしていてそんなパワーを感じないの?」
「なるほど、ナオミのニューヨーク留学四年はだてじゃないなあ」
サトルは尊敬の眼差しでナオミを見つめた。
「あなたは今そんな凄いところで呼吸しているのよ。わかった? だからテロを怖がるだけじゃなくて、自分でこの町の凄さを感じてごらんなさい。そうすれば考えも変るわよ。せいぜいよくお考えあそばせな。弱虫さん」
ナオミは向き合ったサトルの小鼻を指ではねた。
「いてえ、何するんだよ」
ナオミはにっこりして、焼きそばにぱくついた。
帰宅したサトルは、いつものようにパソコンに向った。インターネットで大手新聞や週刊誌が載せない情報をまとめて読むのが習慣だった。お気に入りの有料サイトは日本を出る前に知り合いから紹介されたもので、会員になると、サイトを運営する元大手新聞記者がネット検索で集めた世界の最新裏情報を目の当りにすることが出来る。
その夜のサイトには「9・11の陰謀」と題するWTC事件に関する裏情報が載っていた。
サトルの頭には、恋人をWTCで失ったという男のことが浮かんでいた。サトルは自問しながら裏情報を読み進んだ。
「9・11」は全て仕組まれていた。WTCに突っ込んだ航空機はリモコン操作されていたらしい。大体、異常事態に対して、米軍機の緊急発進の形跡もないのがおかしい。宇宙を含めてあれだけ防衛のための傍受スパイ網を誇るアメリカが何故易々とハイジャック機をWTCに突っ込ませてしまったのだろう。阻止する手段は幾つもあったはずだ。二機目がWTCに突っ込んだという情報を掴んだ時、大統領はのんびりと学校の授業を参観していた映像がある。しかも、教室の椅子に座ったまま、動きもしなかったらしい。何故なのか。それは背景に大統領も事前に知っていた大きな陰謀が潜んでいたからではないのか。
あの崩壊の日、WTCにはユダヤ人が居なかった。事前に攻撃を知らされていたからではないのか。ということは、ユダヤ保守勢力やネオコンが陰謀に絡んでいたのではないのか。
アメリカ大統領を告発する映画が封切られ、関心を呼んでいた。大統領一族はサウジアラビア王室やウサマ・ビンラディン一族と石油の利権がらみで親密な関係を維持していた。9・11事件にはサウジアラビアが絡んでいる可能性も否定できない。それを隠蔽するため、大統領は国民の目を外にそらそうとし、テロ支援国家と烙印を押された国に対し戦争を仕掛けようとしているというのが映画のシナリオだった。
しかし、サイトに引用されたジャーナリストは、むしろ謀略を仕掛けているのは映画監督のほうではないかと批判している。その論拠はこうだ。アメリカでの利権を手中に収めようと、サウジアラビアとイスラエルが激しく競い合っている。監督はそのうち片一方のサウジアラビアと結びついた大統領一族を非難している。ところが、もう一方のイスラエルとそれに加担しているネオコン勢力の悪行には完全に眼をつぶっているというのだ。
あのおじさんの恋人は、きっと政治勢力の対峙から生まれた大陰謀の犠牲になったんだ。陰謀の前には、個人の生命なんて虫けらほどの存在もないんだ!
サトルは眠気を催し、いつの間にか眠り込んでしまった。
赤間が再び舞に足を運んだのはそれから三週間ほどたってからのことだった。
あれから二か月ほど経つのに、国吉からは何の連絡もない。娘は無事助かったのだろうか。助かったとすれば、リサのお陰だ。でも、そのリサは、もういない。国吉は自分の娘をリサに助けてもらいながら、リサを俺から奪ったのではないのか。俺はまたあいつに女を奪われてしまったのだろうか。理不尽さが赤間の胸に渦巻いていた。
店に入ると、一度出会ったフリーターの青年が女友達とカウンターで酒を飲みながら話していた。
「やあ、久しぶりですね。もう来ないのかと思ってましたよ」
赤間はマスターと店の女の子に挨拶して、青年の隣に座った。
「この前初めて会った時、確かお互いに名前を名乗らなかったね。赤間幸雄です」
「ぼくはサトル。大友悟です。よろしく」
赤間はサトルの女友達の方を見た。
「君は確かこの前、カウンターの中に居たよね。俺に酒を注いでくれたよ」
「わたし今日は非番だからサトルと飲みに来たんです。ナオミといいます」
「ナオミさんか、いい名前だ」
「有難うございます。じゃあ、わたしマスターとちょっと話があるから失礼」
ナオミがサトルに声を掛け、マスターと席をはずした。
当番勤務の女の子が注文をとり、用意を始めた。
「サトル君、君は確かフリーランスだったな」
「そうです。Gターミナルの近くの本屋でバイトしてます」
「そうか。給料(ペイ)はいいのか?」
「ええ、前のところに比べるといいですね」
「前はどんな仕事?」
「駐車場のアシスタントです」
「ふうん。君は何故ニューヨークに来たの?」
「無気力な日本社会が嫌になったんです」
「具体的にどんな点?」
「国民の無気力さにつけ込んで、政権は勝手なことばかりやっている。アメリカべったりだから、ペンタゴンを真似して防衛の情報網を拡大しようと画策しているらしいですね。首相は通信傍受の世界ネットワークに加わりたいと、機会を狙っているそうです。例のエシュロンとかいう巨大傍受システムですよ。オキナワとミサワにあるんでしょ。「象の檻(おり)」というニックネームのついた奴。そんな危険なシステムに日本が本格的に組み込まれたら一体どうなるのか。新聞も週刊誌も、日本のマスコミはちっともそういう報道をしない。何のために彼らは存在しているんでしょうね。国民の知る権利にちっとも貢献していない」
「君は何処でそういう情報を手に入れるの?」
「インターネットです。日本のマスコミが、『ウラがとれない』とかいう理由で全く載せない情報が今ネットにどんどん流れているんですよ。情報を判断するのはぼくらです。新聞じゃない。新聞が情報を隠して、何が真実か判断するための情報を載せないなら、ぼくらは益々ネットしか信じなくなりますよ」
「成る程。そういうことか」
「この前はWTCの陰謀説がどんどん流れていたし・・・・・・」
WTCと聞いて、赤間は耳を押さえたくなったが、陰謀という言葉に惹かれ、とりあえずその内容を聞いてみた。
「WTCに突っ込んだのは、今までアメリカンとユナイテッドの民間航空機と言われていましたけど、実は窓が一切ない、異様な外形をしたボーイングだという説が出て来ました。これは当日現場でその飛行機を目撃した人の証言です。それも、自動操縦されていたらしい。それに、飛行機がタワーに突入する直前に、タワー側で閃光が走ったと言うんですね。果たしてそれは一体何なのか」
「要するに陰謀の臭いがぷんぷんするということだね」
「そうです。このような陰謀説はケネディ大統領やマーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺などにもよく出てきますけど、WTCにも計り知れない陰謀が隠されているらしい。その真実は何かということですね」
赤間は水割りを舐めながら、興味深くアキオの話を聞いていた。
国吉は陰謀の片棒を担いだのだろうか。何十年も前の学生時代に抱いていた世界同時革命の妄想にまだもたれ掛っているんだろうか。
「WTCには七千人が勤務していたんです。そのうちざっと四千人はユダヤ系アメリカ人です。世界金融のシンボルでしたから、当然ですよね。WTCのテロがあった当日、この四千人は全員出勤しなかった。すなわち四千人の欠勤です。事件を事前に知らされていたからこそ、全員欠勤したとしか考えられません。残り三千人が何も知らされずにいつも通り出勤して死亡ないしは行方不明になった人たちで、全て非ユダヤ系です。何か臭いますよねえ」
「か、と言ってあのテロがユダヤひいてはイスラエルの仕業だと直ぐに結論付けるわけにはいかないだろう? キリスト教原理主義をバックにしたアメリカ政府に巣食う勢力の陰謀説もあるし、大統領とその側近による自作自演説もある。要するに真相は霧の中だ。それが陰謀の陰謀たる所以じゃないかな」
国吉は間違いなくWTCのテロを事前に知っていた。だから娘を助けようとして、俺に近付いたんだ。
赤間は国吉と娘のことに思いを巡らしながら、サトルの話に耳を傾けていた。
「タワーに突入した飛行機は、アメリカのマスコミが報じた目撃者談によれば、非常に低い高度を飛んでいたんです。これは初めから突入のターゲットを絞り込んでいた証拠だというんです。そのターゲットはタワーの七十八階から八十四階だった。そこには何処の国の企業が入っていたと思います? 全て日本ですよ。ひょっとすれば、日本政府もマスコミも事前にそのことを知っていたのかも知れない。知っていたにも拘らず、何もせず犠牲者を出してしまった。だってウェブには事件直前にそういう情報は流れていたらしいですから」
国吉の娘が勤務していたY銀行のオフィスも恐らくそのあたりのフロアーにあったんだろう。もしも国吉が動かなければ、娘さんは間違いなく死んでいただろうな。
「恐ろしい話だな。俺も恋人を失ったから、他人事だとは思えんな」
赤間は水割りの御代りを注文した。
「何だか興奮して喋り過ぎました。すみません」
「いや、謝る必要は全くない。おもしろかったよ」
サトルも御代りを頼み、水割りを飲んだ。
「赤間さんは団塊の世代ですよね」
「団塊の弟分になるかな」
「大学の頃は紛争の時代でした?」
「第二次安保に引っ掛かったな。一九六〇年にアメリカと日本が結んだ安全保障条約の十年後の改定期にあたり、安保条約に反対する学生運動が盛り上がったんだ」
「運動されたんですか?」
「いや、デモさえしたことはない。活動家の連中からすれば、いわゆるノンポリ学生という奴で、体制側と言われてバカにされていたよ」
「へえ、そうなんですか」
「高校生の頃、大学で学問がしたかった。そのためには受験が必要だった。だから、大学に行くために猛烈に勉強したんだ。その頃佐世保事件というのがあった。米軍の原子力空母エンタープライズが長崎の佐世保港にやって来るというので、日米安保反対の活動家が港を取り巻いて寄港阻止の運動を展開し、機動隊と衝突した。それをテレビで横目に見ながら、机に向っていた」
サトルは黙って赤間の話に耳を傾けていた。
「いよいよ受験の年になったら、T大Y講堂の封鎖事件があり、大学解体を叫ぶ過激派学生と機動隊が衝突した。学生らは塔に立てこもり、徹底抗戦を叫んだが、多勢に無勢だ。封鎖は解かれたものの、T大入試は中止になった。受験したA大も御多分に洩れず、活動家学生がキャンパスの建物を封鎖していた。当然のことながら、学外入試になった。受験の日は大雪で、前日に会場の下見に行ったものの、電車が遅れてすごく不安だった。その上、会場では過激派学生による受験阻止の噂まで流れ、不安の極みだった。その時思ったものだ。受験阻止を叫ぶ連中は少なくとも大学に合格し入学している。しかし、俺たち受験生はまだ合格するかどうかさえわからない。そんな弱い立場にいる人間に、大学解体とか受験阻止とか、一方的に自分らの考え方を押し付けようとする学生に対してやり場のない憤りを覚えた」
赤間は水割りを口に含み、舌の先で転がしながら喉を潤した。
「過激派の主張の内容を知る前に、彼らを憎んでしまったんですね」
「連中の世界観を認めることは断じて出来なかった。彼らが主張するのは勝手だが、俺にも俺の考え方があったんだ」
赤間はきっぱり言った。そして続けた。
「幸いA大に合格し入学したが、半年は封鎖が続いた。キャンパスでは火炎瓶や石を投げつける学生に対して、機動隊が催涙ガスを撃って応戦した。そばに居た俺も催涙ガスを被り、眼から涙がぽろぽろ出て止まらなかったよ。あの刺激臭は忘れられない」
「結局は授業が再開され、日常が戻ったんでしょ?」
「そう。当時の国立では最初の二年間は教養部というのがあって、色んな科目を受けたんだ。選択が出来たから、哲学やラテン語、フランス語、心理学などを受けた。やっと学問が出来ると嬉しかったな」
「それが赤間さんの目的だったからでしょうね」
「三年から学部の専門課程になって、英語学をとった。毎年何人か専攻するんだが、その年は俺独りだった。主任教授は、T大の学生時代日本英語学界の権威だったI教授の教え子だった人で、太平洋戦争の頃は陸軍の通訳官としてシンガポールやアジアの戦線で好きな英語を生かせたことを誇りにしていた」
「卒業されてからは?」
「商社に勤務した。ニューヨークにも支店があって何度か出張で来た事がある」
「今は自営業でしたね」
「商社じゃなくもっと別の可能性があるんじゃないかと思ってアメリカに来た」
「そうですか。ぼくも赤間さんと同じように思ったところがあるんです。さっき言いましたけど、無気力な日本を一旦離れて自分を見つめ直してみようと思ってここに来たんです」
「来て見てどうだい?」
「確かに日本を客観的に見られるようになったけど、ここにずっと居たいかというと・・・・・・」
サトルが少し首を傾げた。
「それは日本に帰るってこと?」
「迷っているんです。ここはテロのターゲットにもなっているし。不安なんです」
サトルは氷だけになったグラスを置き、下を向いた。女の子が「ごめんなさい。すぐ戻りますから」と言って席をはずした。女の子がいなくなったのを確認して、サトルが赤間の方を向いた。
「ぼく、銃の撃ち方を習っているんです」
サトルがぽつりと言った。
「銃? それは護身用っていう意味?」
「そうです」
「そんなものを教えるところがあるのかい?」
「これは赤間さんだけに打ち明けたので、他の人には絶対喋らないで下さい。お願いします」
「そんなこと喋らないよ。安心しな」
「余り大きな声で言えませんけど、駐車場でバイトしている時にニューヨーク市警の警官と知り合ったんです。その人は、今は退職しています。その人に若干の謝礼を払って習っているんです」
「実際に弾を撃つのかい?」
「ええ、ニューヨーク州の山奥で」
「ほう。ジャッカルの日のスナイパーみたいだな。フランスのドゴール大統領暗殺を請け負った殺し屋ジャッカルが、小説の中でやはり山奥で射撃訓練をするんだ」
「ええ、ぼくも読みました」
「拳銃は持っているの?」
「ええ、銃規制が厳しくなる前に店で買いました。秘密の場所に隠していますけど」
サトルはそう言って微笑んだ。
「アメリカらしい話だな」
女の子が戻ってきた。サトルはそ知らぬ顔で、水割りを注文した。
「ナオミさんは恋人かい?」
「恋人? まあ友達ではありますけど。商社ではどんなお仕事をされていたんですか」
「色々やったよ。人工ダイアモンドから半導体を開発するプロジェクトとか」
赤間はそのプロジェクトの担当責任者だった。しかし、その特殊半導体はプロジェクト本来の平和利用とは別に、レーザーを利用した超ハイテク兵器の開発に転用可能なことがわかった。諸刃の剣とも言える半導体の開発は、現行法上その違法性を問われかねない。社内では開発の是非をめぐり秘密裏に侃侃諤諤(けんけんがくがく)の議論が沸騰したが、結局順法派が推進派を押し切り、開発は断念され、プロジェクトは凍結された。
特殊半導体の開発プロジェクトは一体何のために推進されたんだ。
開発の中核にいた赤間は、それまで事ある毎に感じていた商社のあり方に対する矛盾にほとほと愛想が尽き、プロジェクト凍結決定の日に上司に辞表を叩きつけた。
その結果、赤間は新天地ニューヨーク行きを決めたのだった。
「赤間さんの恋人、リサっておっしゃいましたね? WTCの犠牲になった」
「うん」
「当然思い出されますよね」
「勿論。爆破事件などテロがある度に・・・・・・」
「彼女がもしユダヤ人だったら、助かったかも知れませんね」
赤間は先程のサトルの話を思い出していた。ユダヤ人は事前にWTCのテロを知らされていたという裏情報のことを。
もし国吉がWTCのことを俺に話してくれていたら、リサを助けることが出来たのに。赤間の胸に悔しさが込み上げてきた。あいつは結局大学時代の久子に続き、リサまでも奪いやがった。そんな思いが悔しさを倍加させていた。リサが国吉を知っているらしいと感じた時、嫌な予感がした。国吉は俺にとってやはり鬼門だったんだ。
「本当に犠牲者の中にユダヤ人はいなかったのだろうか」
赤間が問うた。
「ぼくはネットの内容を信じます。はっきりしているじゃないですか。ユダヤ人四千人が一斉に欠勤して難を逃れたんですから」
「まあ、そうだがね・・・・・・」
ネットへの信頼度は、今の若者の方が我々団塊よりも断然高いという話を何処かで聞いたことがある。つまりネットに書かれていることを、若者は無批判に受け容れ易い。俺の世代はまず疑ってかかる。
「赤間さんはこちらで大学時代の知り合いはいますか? A大学出身ならニューヨーク勤務の人も結構いるんじゃないですか?」
「ニューヨーク在住のA大同窓生の会というのがあって一度出たことがある。駐在員は一時期に比べてかなり減ったらしい。日本の本社の業績が芳しくないから、ニューヨークから支店などを撤退したり、縮小させたりしたせいだ。金融事件がらみで当局に追い出された企業もあった」
「へえ、どこも大変なんですね」
「俺と同じ文学部出身で国吉英雄という男がいる。もう二か月くらい前かな、このニューヨークで再会した。実に二十九年ぶりだった。突然俺のマンションを訪ねて来た。でもその後、忽然と姿を消してしまったんだ」
「それで思い出した。もう二か月ほど前のことになりますが、この店でちょっとした事件があったんです。初めて店に来た客の男が酒を飲んでトラブルを起こし、暴力をふるって、あっと言う間に出て行ったんです」
「一体いつのこと?」
「確かWTCの二、三日前だったかな」
「と、いうことは九月八日か九日だね」
「そうなりますね。詳しくはマスターに聞いてみて下さい」
国吉が失踪した時期と重なっている。その客は国吉だったのだろうか。
赤間はケンジとナオミの話が終わるのを待った。
間もなくケンジがカウンターに戻った。
「マスター、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
赤間が訊いた。
「何でしょうか」
ケンジが赤間の座っているカウンターの前に立った。
「ほら、ひと月くらい前、ここで酒に酔って暴れた男がいたよね」
サトルが口をはさんだ。
「うん、それがどうかしたの?」
ケンジの顔が歪んだ。
「赤間さんがそのトラブルを起こした男について聞きたいことがあるんだって」
「どんなことでしょうか?」
ケンジが赤間の方を振り向いた。
「いや、ひょっとしたら、その男が俺の知っている人物かも知れないと思っただけさ」
「赤間さんの知り合いですって?」
「ここで一体どんなことがあったの?」
赤間が身を乗り出した。
ケンジは気を取り直して説明を始めた。
「うちの客の男子留学生が二人で日本のことを話題にして酒を飲んでいたんです。そのうち、団塊世代の話になって、『日本社会を堕落させたのは団塊世代だ』と言い出したんです。すると、わたしと話していた男が脇にあったアイス・ペールを持ってすっくと席から立ち上がって、つかつかと二人のところに行き、二人の頭の上から氷水をぶっかけたんです。『何をするんだ!』と二人の若者は男を睨みつけました。すると、男はこう言い放ったんです。
『日本社会を堕落させたのは、お前らみたいな若造だ。体制側の言いなりになって、のらりくらりと遊んでばかりいやがる。その腐った根性を叩き直してやる!』そう言ったかと思うと、伸縮自在の警棒のようなものを取り出して二人をメッタ打ちにしたんです。わたしは驚いて止めに入ったんですが、わたしも殴られてしまいました。その後、男はアイス・ペールをガシャンと床に叩きつけて、金も払わずに店を出て行ったんです」
「後を追いかけなかったの?」
「店の外まで追っかけましたよ。そしたら前に黒いセダンがエンジンをかけたまま停まっていました。その傍らにボディガード風のでかい黒人が二人立っていて、わたしを睨みつけたんです。男はそのまま後ろも振り向かず、黒人の一人が開けたドアから後部座席に乗り込み、もうひとりの黒人の運転であっと言う間に去って行きました。金はあきらめました。もしそれ以上関われば、殺されそうな雰囲気でしたから」
確か国吉がマンションに現れた時も、黒のセダンが通り過ぎて行ったな。あの車に国吉が乗っていたのか。黒人のボディガードと一緒に。
「男のことで他に気付いた点は? どんな些細なことでもいいから教えてくれ」
「わたしは仕事柄客の観察をするのが癖で、何を話したとか、特徴なんかをメモに残しているんです。特に初めての客は。ちょっと待ってください」
ケンジはメモ帳を出してきて、男のページを探した。
「これだ。男が来店したのは九月八日です」
赤間は胸ポケットから手帳を取り出して、九月八日の項を見た。国吉がマンションに現われた日だ。
「その男は恐らくA大出身の活動家ですね。結構具体的なA大の話をしていましたから。例えばメモによりますと、封鎖したキャンパスにはイロハという数え方の建物があった。そのうちロの建物の前には、道路を挟んで比較行動心理学の実験に使われる猿を飼う建物があり、その前あたりで機動隊の奴らを殲滅(せんめつ)して猿小屋に放り込んでやったとか、言っていましたね。勿論酔った上での冗談でしょうが、とにかくその時は上機嫌でした。その直後、留学生の話で激変したんです」
どうやら国吉に間違いない。感情の起伏の激しいあいつらしい話だ。
「革命? これは何だろう?」
ケンジがメモを見ながら首を傾げた。
「俺の知り合いは世界同時革命を掲げる同志との連帯を目指すというのがお得意のスローガンだった」
「ああ、そういうことでしょうかね」
「革命云々の話は出たの?」
「いや、何かの脈略でちらっと革命という言葉が出た程度だと記憶します。余り日常聞かない言葉なので印象に残り、後で書き込んだと思います」
「そうか。何処に住んでいるとかは?」
「いや、一切言わなかったですね」
「どんな身なりだった?」
「メモをそのまま読みます。長髪を頭の後ろで束ねている。黒の皮ジャンパー。ジーンズ。黒のブーツ。細面。眼は細いが、異様に鋭い。何かを思いつめるような表情。鼻の下に髭。中肉中背だが、肩はがっしりした感じ。一見ロック・ミュージシャン風・・・・・・」
その通りだ。夜現われた国吉と一致している。やはり国吉だった。
「それから、こんなことを書いています。話している最中、男の携帯に電話が入った。男は携帯を左耳で受け、俺の方を睨みつけた。人払いですね。男は胸ポケットから電子手帳を取り出し、カウンターの上に置いて、右手でペンを持ち、何かをメモしていた。言葉は英語。内容はわからないが、男は何度か困惑した表情を見せた。ボムという言葉が聞こえた」
電話の相手は誰だったのだろう。
「ボムというのは爆弾のこと?」
赤間は眉間に皺を寄せた。
「いや文字通りの爆弾かどうかはわかりません。音楽用語でもボムってよく使いますからね。ミュージック・ボムだとか」
「そうだな」
「それと、これが印象に残っています。男が席に戻り、サングラスを引っ掛けた皮ジャンの下の胸ポケットから煙草を出した時、ちらりと黒いものが見えました。わたしには拳銃のように見えました。ほら、刑事ものの映画なんかによく出てくるでしょう。肩からぶら下げたホルスターに拳銃を突っ込んでいるやつ。でも、一瞬のことでよくわかりませんでした。いくらニューヨークでも拳銃を肩からぶら下げるのは、FBIや刑事、セキュリティ関係、マフィアぐらいしかいませんから」
「拳銃か。いや有難う。客は俺の知り合いに間違いない。もし万一その男からここに連絡でもあれば、俺に連絡するように伝えて貰えないか」
「わかりました。でも、もう二度と現れて欲しくない男ですね。トラブルは一切御免です。しかし、メモというのはやはり役立つことがあるんですね」
ケンジは嬉しそうにメモ帳を閉じた。
「マスター、俺が最初ここに来た時、俺のことをメモに書いただろう?」
「そういうことになります。すみません」
ケンジは頭を掻きながら微笑んだ。
「油断も隙もないな。これでは何処でこっそりと観察されているかわからないぞ」
赤間は笑いを堪えながら言った。
「おっと、もう二時だ。さあ、今夜はこの辺にして帰るぞ。サトル君、また会おう」
「是非近々お会いしましょう」
赤間は席を立った。酔いでふらつきながら外に出ると、夜風が火照った頬に吹き付けて来た。赤間は思わずコートの襟を立てた。舗道に人影はなかった。酔いが回る頭で、赤間は国吉を大声で罵倒した。
「女たらし野郎! 一体何処に行きやがったんだ。俺を散々利用しやがって、後は梨の礫(つぶて)か。どうなったかきちんと報告しろ。面でも見せやがれ!」
通りの向かい側に白いリムジンが停まっていた。後部座席にサングラスをかけ、グリーンのスーツを着た若い男が煙草を燻らせていた。車内にはベースをフィーチャーしたモダン・ジャズが流れている。そのベース音のリズムに合わせて指を弾きながら、男は舞から出てマンションに向う赤間をしばらく眼で追っていたが、しばらくすると車を出すようにドライバーに告げた。リムジンは徐に動き始め、そのうちに猛スピードでセカンド・アベニューを赤間とは反対方向に走り去って行った。
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