第2話

 北村光一の訃報に接した翌日も赤間は日本人会に出掛けた。

 会館には光一の両親が日本から到着していた。父親の光太郎も母親の加寿子も飛行機の長旅と心労で疲れてはいるものの、今後息子の遺体を日本まで無事運ばなくてはならないことや帰国後の葬儀の挙行、関係者への挨拶などを控えて気が張っている様子だった。赤間は光太郎に話し掛けた。

「この度はご愁傷さまでした。わたしは、息子さんとはここのパーティで一度お会いしただけなんですが、その時親切にして頂いたのが印象に残っています」

 赤間は光一が赤間傘下のグループ会社のスタッフとして働いていたことは敢えて伏せた。光一は殺害されたわけで、赤間は自ら情報を扱う微妙な立場であることを考慮し、変に勘繰られることを避けたのである。

 光太郎は頷き、加寿子の方に眼をやった。加寿子はハンカチで何度も目頭を押さえていた。

「京都にお住まいですってね」

「ええ」

 光太郎が答えた。

「京都はどちらですか。わたしも京都に実家があります」

「そうですか。わたしどもは鉾町(ほこちょう)に住んでいます」

「あの祇園祭の。ニューヨークに来る前に山鉾巡行を見ました。いつ観てもいいですね。あれを観ると、京都の夏が来たっていう感じがします」

「赤間さんはこちらで何をされているんですか?」

「自営でオフィスを構えています」

「そうですか」

「まだこちらに来たばかりで、実際住むとなると日本でのサラリーマン時代に出張で来たのとは全く違い、戸惑うことも多いのですが・・・・・・」

「サラリーマン時代は何を?」

「商社に勤めていました」

「ほう、京都で勤務されたことは?」

「入社して一年だけ京都支社にいました」

「失礼ですが、どちらの商社ですか?」

「K社でした」

「そうですか。わたし実は退職前京都府警におりまして、K社の方とも捜査協力のことでお会いしたことがあります」

 光太郎は初めて薄い微笑を浮べた。赤間は先程から訊いてみたかった光一のことに話を転じた。

「息子さん、ご兄弟は?」

「いや、光一は一人っ子でした」

 加寿子が突然嗚咽した。

「申しわけありません」

 赤間は加寿子に謝罪した。

「いえ、いいんですよ。亡くなってしまった者はもう戻りません」

 光太郎が加寿子の方を見ながら言った。

「息子さんは一九七二年からここにお勤めでしたから、二十九年も居られたのですね、ニューヨークに」

「らしいですね」

「らしい、とおっしゃいますと?」

「息子とはその間一度も会っていません。連絡さえありませんでした」

「ほう、立ち入ったことですが、それはまたどうしてですか?」

「息子は高校生の頃わたしらの反対を押し切って何処か海外に出てしまったんです。それがニューヨークだったとは今回初めて知りました」

「一九七二年、高校生の時に、ですか?」

「ええ、赤間さんの年齢なら体験されたと思いますが、当時大学紛争というのがありましたね。それが息子の人生を狂わせたんです。勿論息子は高校生でしたから、大学紛争とは直接関係ありませんでした。でも、いわゆる過激派と言うんですか、大学生に思想的なことを吹き込まれて、家族というのは帝国主義の始まりだから粉砕されるべきだとか訳のわからないことを言い出したんです。そして学校にも行かず、家にも寄り付かず、過激派連中と大学のキャンパスあたりに寝泊りしていたようです」

「何処の大学だったかおわかりになりますか?」

「確かA大だったと思います」

「A大? 間違いありませんか?」

「ええ、息子の部屋の机によくA大全学闘争委員会のアジビラが置いてありましたから」

「実はわたし、当時A大の学生でした」

「えっ、そうでしたか」

「誤解されると困りますので言っておきますが、わたしは過激派と対立していた人間です」

 光太郎は一瞬安堵の表情を浮かべた。

「じゃあ、高校生が大学に入り込んでいるという噂はお聞きになったことがありますか?」

「いや、ありません。過激派やシンパの学生には個人的に色々と迷惑をかけられましたが、内部事情までは知りませんでした」

 ひょっとしたら、光太郎は国吉のことを知っているのだろうか。

「当時A大にわたしの文学部同期で活動家の国吉という男がいました。国吉英雄といいます。お父さん、ご存知ありませんか?」

 光太郎の顔色が変わった。

「その国吉という男です。息子をたぶらかしたのは!」

 赤間は驚いた。国吉と北村がつながった。

日本人会を訪れた時、何故北村は国吉を知っているとは言わなかったのだろうか。何か知られると都合の悪いことでもあったのか。それはWTCのテロと関係しているのかも知れない。いずれにしても北村は殺害され、国吉はひと月余り失踪している。二つの事実に何か関連はあるのだろうか。

「お父さんから見た国吉はどんな男でした?」

「あんな奴、息子の代わりに死ぬべきだった。国吉は息子を無理やり活動家の組織に入れて洗脳し、革命の兵隊に仕立て上げたんです。息子は一切親の意見を聞かなくなり、こいつに暴力をふるうまで堕落しちまったんですよ」

 そう言って光太郎は、下を向いて涙を堪えている加寿子を見つめた。

「国吉はうちの家をズタズタにした極悪人です。悪魔のような奴だ。何が革命家だ。冗談じゃない。わしは今でもあいつを何処かで見つけたら、殺してやりたいほど憎い!」

 光太郎は両膝の上で拳を握り締め、体を震わせて涙を堪えていた。

 しばらくして光太郎が尋ねた。

「赤間さんはその後何処かで国吉を見かけたり、会われたりしたことはありませんか?」

 光太郎は赤間の顔を探るように見つめた。

「・・・いや・・・ありません」

 赤間は、最近国吉が現われたことをどうしても言えなかった。

「そうですか」

 光太郎は肩を落とした様子だった。

「息子さんは何故その後、ご両親に一度も連絡を取ろうとしなかったんでしょう。立派にニューヨークで働いておられたのに」

「あんな形で別れた手前、自分から連絡することは恥ずかしくて出来なかったんじゃないでしょうか。負けず嫌いな奴ですから、光一は」

 異国の地で殺されてしまった不憫な息子に対する父親の精一杯の弁護だった。

 赤間は両親に礼を言って、日本人会を後にした。

 

 北村光一は自分から一切連絡はしなかったものの、実家の住所など日本への連絡先だけは正直に日本人会に届けていた。もしも不都合なことがあるなら、日本の連絡先なんていくらでもでっち上げられるはずだ。そうしなかったのは、北村が万一の場合、他人であれ両親の元に連絡できる手段を確保しておきたいと思ったからではないか。それは北村にとって、一方的であれ、日本に置き去りにしてきた両親と結んだ事実上のホットラインであり、連絡を取ることが出来ない息子としての精一杯の誠意だったのかも知れない。

    

 赤間は国吉がマンションを訪ねて来た時のことを思い出していた。

あれは日本人会を訪ねた一週間後の夜、マンションでその日買い求めたロック音楽のCDを聴いていた時のことだった。誰かがドアをノックする音が聞こえた。リサだろうか。  赤間は音楽を止め、ドアの覗き窓から外を窺った。

 そこには黒の皮ジャンパーにジーンズ姿の男が立っていた。鼻の下に髭を蓄え、眼は細くて鋭い。長髪を束ねている。何処かで見たような顔だが、果たして誰だろう。

「どちら様ですか?」

 赤間はドアフォンに向かい、英語で尋ねた。

「国吉だ。開けてくれ」

 太い日本語の声だった。赤間は耳を疑いながら、もう一度覗き窓からその顔をじっくりと見つめた。少々暗いが、そう言えば国吉の顔だ。あれから二十九年経ち、当然老けてはいるが、顔の特徴はそのままだ。赤間はチェーンをはずし、ドアを開けた。直に見つめると、確かに国吉だった。

「国吉! お前、やっぱりニューヨークに居たんだな」

 赤間は国吉を冷ややかな表情で見つめていた。

「赤間、早速だが頼みがある」

 国吉が切り出した。

「頼み? よく俺に頼み事なんか出来るものだな。武士の情けだ。中に入れてやろうか?」

「時間がないんだ。ここで用件だけを話す」

 国吉は廊下の辺りを見回しながら、声を落として話し始めた。何かを警戒している様子だった。

「実は、WTCのY銀行に俺の娘が勤めている。名前はアキコ。ノグチ・アキコだ。三日後の十一日に娘がオフィスに出勤しないようにしてくれ。十一日だ。何故そんな突拍子もないことをいきなり頼むんだと訊かないでくれ。今言えない事情があって、俺が関わることは出来ないんだ。だから、こうしてお前に頼んでいる。どんな方法でもいいから、とにかく娘を出勤させないで欲しい。一生に一度のお願いだ。お前しか頼る人間がいない。いいか、十一日だぞ」

「おい、待てよ。一体どういうことなんだ」

「赤間、頼んだぞ!」

 そう一方的に言うと、国吉は娘の写真を手渡し足早に去って行った。

赤間は訳がわからず、呆然とドアのところに立ちつくしていたが、思い直したようにマンションの前まで走った。黒いセダンが通りを走り抜けて行った。国吉の姿は既になかった。 

 若いガードマンが赤間を見つめていた。

「君、今の男をマンション内に入れたね。まずわたしの部屋にコールを入れて本当のことを言っているか確かめないと、君がここにいる意味がない」

「だってあの人は、ミスター・アカマの親友だって言いましたよ」

 ケロリとした顔だった。

「もしもあいつが拳銃強盗だったらどうする? 居住者の安全を守るのが君らプロのガードマンの仕事だろ。以後気をつけろ」

 ガードマンはふてくされたような態度で頷いた。 

 しかし、あいつに娘がいたなんて聞いた事も無い。赤間は手渡された写真を見た。年の頃なら三十前後だろうか。ID写真のコピーと思われるその写真で、娘はやや緊張した面持ちで正面を向いている。 

眼や口元は国吉に似ているような気がする。裏には「野口明子、Y銀行ニューヨーク支店預金課テラー主任」とワープロ文字で打った紙が貼り付けてあった。テラーは窓口係である。

 赤間はもう一度アキコの写真を見た。年齢からすれば、一九七二年国吉が大学から姿を消し、海外に出掛けた頃生まれた子供だろう。あいつはあの頃、学生運動の同じセクトの女と同棲していた。その女がアキコの母親なのだろうか。でも姓は野口で、俺が当時付き合っていた久子と同じだ。アキコは久子の娘なのか。それに何故娘を十一日にWTCのオフィスに出勤させないでくれなどと変なことを言うのか。十一日って一体どんな日なんだろう。それに理由を言えない事情って何だろう。

 学生時代のことが赤間の脳裏に浮かんでいた。

 当時A大で過激派のリーダーだった国吉は、赤間から久子を奪い取り、性欲を満たす相手のひとりにするつもりだった。ところが、付き合ううちに国吉は久子の芯の強さに惚れ込んでしまった。大金持ちの娘だからきっと甘やかされて育ったんだろう。その根性を叩き直してやる。久子に対して初めはそう思い込んでいた国吉だったが、やがて久子の意外な側面を見ることになる。久子は活動家の先頭に立って国吉をも引っ張るほどの腕力を発揮したのである。

 国吉は知らなかったが、同棲していた同志の光代はその頃既に国吉の子を孕んでいた。明子である。国吉には凶器準備集合罪等の容疑で、直ぐにでも逮捕される危険が迫っていた。国吉は日本脱出を決め、北村と共にニューヨークに向け出国した。光代と久子との別れは辛かったが、国吉は大義のためだと思い切った。出国後、国吉は国際刑事警察機構(インターポール)を通じて国際手配された。

 国吉と別れて二週間後、光代は妊娠を知り愕然とするが、結局自らの意思で明子を産んだ。しかし、持病の心臓病が悪化し亡くなる。死の床で光代は、久子に明子の将来を頼んでいた。久子は同志の光代の遺志を引継ぎ、明子を引き受けることにした。

 久子は新興財閥野口コンツェルンのトップ、野口毅のひとり娘だった。久子が左翼運動に入ったことは、毅の逆鱗に触れ、毅は久子に対し親子の縁を切ると宣言した。母親の久枝は毅に考え直すように進言したが、毅は頑として聞き入れようとはしなかった。当然、明子への援助は一切得られなかった。

 その頃学園紛争もセクト間の内ゲバが起こり、機動隊を導入したいわゆる「国立大学正常化」が進み、学生運動も退潮していった。同志も次々に運動から離れた。

もともと国吉の激しい革命志向に危惧を抱いていた久子は、国吉と別れた後いとも簡単に運動から退き、好きなファッション関係の仕事に就いて、明子と二人で暮し始めた。光代の遺志もあったが、久子は自分を本当の母親と思い、甘える明子をいとおしく感じ、実子として育てることにしたのだった。久々に国吉から連絡が入った時、久子は光代が亡くなったこと、明子が生まれたことを伝えた。国吉は少なからず驚いたが、久子に残された明子のことを頼み、電話を切った。

物心ついてから、明子は久子に父親のことを思い切って尋ねた。久子は、父親は明子が生まれる前、出張中のニューヨークで亡くなったと告げた。その頃から明子はニューヨークに憧れ始めた。そして大学卒業後、単身ニューヨークに渡り、現地採用でWTCにあるY銀行ニューヨーク支店に勤め始めたのだった。

 国吉は久子から明子がニューヨークにいることは知らされていたが、組織の人間として、会いに行くことは出来なかった。その前に明子には死んだことになっていたからだ。

 国吉にとり明子は亡くなった光代との間に生まれた実の娘ではあるが、父親が亡くなったという形で久子の娘であり続けることが、明子にとっては一番幸せであろうと思うに至った。

 野口毅の率いるコンツェルンは、バブル期の不動産売買やレストラン・チェーンなどの多角経営で一段と成長していた。その絶頂期に毅は過労で帰らぬ人となった。毅は遺書の中で、遺産は全て妻に譲ることを明示していた。久枝は夫の急死を嘆き悲しみ、その後しばらくして毅の後を追うように亡くなったが、生前毅から引き継いだ遺産を全てひとり娘の久子に与える旨、遺書に書き込んでいた。  

 久子は両親の遺産をそっくり引継ぎ、コンツェルンの経営はとりあえず毅の右腕として事業を仕切っていた社長代行の田岡に任せた。しかし、行く行くは明子の将来の夫に経営を委ねることを心に決めていた。そして遺産を基に、ブティックの経営を始め、ニューヨークにも店を開いた。

 ニューヨークに商用で出掛ける度に、久子は明子と会い、高級レストランで食事をした。明子と別れると、久子はセントラル・パーク・ウェストにある邸の地下室に国吉を呼び、密会した。

 次々と学生運動から離れて行った同志の男らに比べ、首尾一貫して革命に賭ける国吉の姿に、久子は若い頃から思想信条を別にして頼もしさを抱いて来た。一方で、いつ国吉が死んでも取り乱さないだけの覚悟はしっかりと持って来たつもりであったが、父親の莫大な遺産が転がり込んでからは、国吉の存在に少しずつ疎ましさを感じるようになっていた。 結局国吉がわたしと関係を維持しようとするのは金のためだろうと思い至るようになっていたのだ。久子にそれを気取られたように感じた国吉も、久子に対する愛情が少しずつ醒め始めているのに気付いていた。

 

 国吉の明子に対する気持ちも不確かになっていた。写真でしか見たことのない娘だが、今までは実の娘が自分と同じニューヨークの空気を吸っていると思うだけで親子としての絆があるものと思い込んでいた。

 しかし、その後テロ組織に明子を拉致され、脅迫された時、娘のことよりも自分の身の安全に固執してしまった自分の姿を見て、明子に対する気持ちが全くの偽りだったことを、身をもって感じた。明子は自分にとって他人でしかなかった。そう思い込んだ時、父親という仮面は吹き飛んで消え去った。


 二十九年ぶりに突然現れて、不可解なリクエストを残して去って行った国吉の様子に、赤間は狐につままれたようにポカンとしていた。

 それにしても何故国吉が俺の住所を知っていたのか、わかった。日本人会に勤めていた北村が会員名簿を見て国吉に知らせたに違いない。そして俺はまんまと国吉に利用されたのだ。国吉にとって北村という存在は、日本人や日本の情報を得るために日本人会に常駐させた情報収集スタッフだったのではないか。

 国吉の狡猾さが無性に腹立たしかった。

   

 翌日になっても、国吉の不可解な言動が頭を離れなかった。あの時強引に理由を問い質すべきだった。赤間は後悔していた。久子のことで険悪なまま別れた俺に頼み事をして来るところを見ると、国吉はよほど切羽詰まった状況に置かれているのだろう。そうでなければ、あのプライドの高い男が俺に頭を下げてものを頼むなんて考えられない。いずれにしても、あと二日しかない。どうすればいいんだろう。どう考えても俺ひとりでそんなことはできそうにない。全く知らない娘に「出勤するな」と正面切ってはとても言えたものじゃない。

 赤間の頭に浮かんだ協力者は、同じWTCに勤めるリサしかいなかった。何とか力になってくれるだろう。よし、連絡をとってみよう。

 赤間はまずこの間の詫びを入れた。そして、明子の件について話すため、マンションに呼び出した。リサは直ぐにやって来た。

「その女性は確かにクニヨシ・ヒデオという人の娘なの?」

 リサが訊いた。

「国吉はそう言っている」

「その娘を十一日にWTCのオフィスに出勤させないようにしてくれと言ったのね」

「そうだ。国吉は理由を一切言わなかった。だから、何のことだかさっぱりわからない。理由も言わずに頼み事をされても、俺にはそれに応じる義理はない。しかも、頼み事の内容が変だ。でも、あいつの目は娘を一心に思う父親の目をしていた。あいつがあんな目をするのを初めて見たような気がする。だから、言う通りにしてやりたい。リサ、何か名案はないかね?」

「わたしに任せて。何とかするわ。お互いに知らないけど、その娘さんとは同じWTCで働いているんだから」

「ちょっと聞かせてくれないか、どうやろうとしているのかを」

「それは事が終わってから話すわ。今は駄目。任せてくれるわね?」

「ああ、女同士の方がうまく行きそうだから任せるよ。但し、事後報告は必ず頼むよ」

「OK」

 リサはそう言うとアキコの写真を受け取り、直ぐにアパートから出て行った。


 九月十日深夜。赤間はマンションのベッドでロックを聴きながら、ウィスキーを飲んでいた。翌日は塾が休みだったので、非番のリサと会う約束をしていた。何処に出掛けようかと心が騒いでいた。年甲斐もないなと苦笑しながら、赤間はサイド・テーブルで二杯目の水割りを作っていた。電話が鳴った。リサからだった。

「ユキオ、同僚から電話があって悪性の風邪で高熱が出たから、明日の勤務を代わってくれって言うのよ。悪いけど、明日会うのは無理だわ。ごめん」

「そうか、それは仕方がない。またの日にしよう。ところで、例の件はうまく行きそうかい?」

 赤間は気がかりになっていることを訊いた。

「アキコさんの件は大丈夫。明日は出勤しないわ」

「そうか。安心した。いや、どんな意味があるのかさっぱりわからないから、ヤキモキしていたんだ。有難う」

「今何してるの」

「君のことを思いながら、琥珀の酒に親しんでいるところさ」

「相変わらずキザね。じゃあ、おやすみ」

 電話がぷつんと切れた。


 翌朝目覚めると、カーテンの隙間から陽光が洩れていた。赤間は思わず眼を閉じた。

 遠くから微かに聞こえて来るものがあった。耳を澄ますと、それはサイレンの音だった。その音は次第に大きくなり、やがて轟音になった。緊急車両が続々と大通りを駆け抜けて行く。一体何だろう。これはただ事じゃない。腕時計は十時を少し回っていた。リモコンでテレビをつけた。映し出されている画像は初め悪夢でも見ているような感じだった。眼を擦ってみた。間違いなく目覚めている。だったらドラマなのか。きっと醜悪なドラマに違いない。映像の中でWTCのツイン・タワーに飛行機が突っ込み、噴出す炎と黒煙を上げながらツイン・タワーが崩れ落ちていた。

 ふと、昨夜の電話を思い出した。リサは同僚の代わりに出勤すると言っていた。WTCのあのレストランに。

 赤間は凍りついた。

 リサ! まさか・・・・・・巻き込まれた?

 飛び起きてリサの携帯電話に掛けてみたが、通じない。後は何をしていいのか皆目わからない。ただオロオロするだけだった。テレビは緊急特別番組を組み、何度も繰り返してWTC崩落のシーンを伝えていた。

 赤間は素早く服に着替え、大通りでタクシーを拾った。

「WTCだ。急いでくれ!」

 赤間は座席からドライバー席の背もたれを強く揺すった。

「旦那、知らないんですかい? 飛行機がタワーに突っ込んで、タワーは跡形もなく潰れちまったんですよ。とても近付ける状態じゃないよ」

 黒人の運転手が呆れたような表情で振り返った。

「いいから、いける所まで行ってくれ。早く!」

 タクシーはスピードを上げてセカンド・アベニューを南に向ったが、すぐに大渋滞に巻き込まれた。WTCに通じる道路は緊急車両を除いて封鎖され、一般車が全線で数珠つなぎとなり、ストップしていた。優先路線を緊急車両がサイレンを鳴らしながら次々に走って行った。

「優先レーンを走れ!」

「冗談じゃない! そんなことをしたらライセンスを取り上げられちまう。降りてくれ!」

 赤間はタクシーを降り、舗道を走り始めた。しかし、現場が見えるところまでは余りに遠かった。そのうちに息が切れ、鉄柵にもたれ掛ったまま、舗道に跪いてしまった。

 リサ、今度は助けてやることは出来なかったのか!

 赤間はハンドバッグ強盗からリサを救った時のことを思い出していた。そのまま荒い息を吐きながら、舗道にへたり込んだ。

しばらくしてようやく落ち着いた頃、赤間の脳裏に国吉の不可解なリクエストが蘇った。

「十一日、娘がWTCに出勤しないようにしてくれ」

 国吉はWTCが破壊されることを知っていたんだ!

しかし、何故そんなことを知っているのか。ひょっとしたら、あいつはこの大事件に関与しているのだろうか。とすれば、リサはあいつに殺されたことになる。そんなことがあっていいのか! またあいつは俺から恋人を奪いやがった! 国吉の鋭い眼が脳裏に浮かんだ。

 緊急車両が次々に滑るように現場に急行して行った。

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