1-11

お風呂からふわっと、将にいが出てきた。


「次、いいよ〜」

「あ、はーい…」


恐ろしい程に優しい。

いつも通り、ではなくそれ以上に優しい。

新しく来た保育園の先生みたいな。


脱衣所の引き戸の向こうで将にいが声を掛けてくる。


「シャンプー詰め替えたから、袋の残り使って〜」

「わかった」

「お風呂熱かったら温度下げてね」

「うん」

「バスタオルある?大丈夫?」

「大丈夫、あるよ」

「ヒーター付いてるよね?湯冷めしないでよ」

「うん、ありがとう」


怖い怖い。さっきとは違う怖さ。

どういうつもりなんだろう。

何の優しさ?分からない。


「ふう…」


訳の分からない一日だった。

こうしてお風呂に浸かる時間は凄く幸せなんだけど

今日はそわそわしてしまって気持ちが良くない。

そうだ。とりあえず冷静に、今日の出来事を整理しよう。


朝起きたら、将にいがもう着替えてた。

戸惑いながらも「そんな日もある、偉い!」といつも通り朝食準備。

ウインナー焦がしたけど、普通に朝ごはん…なはずだった。


『違う学校に赴任することになりました…』


なんだよそれ!

ぱちんと湯船を叩く。うっ、目に入った。


それで。どこの学校か聞いたら微笑んで


『すぐに分かるよ』


って…。ああもう!


なに?あの顔!?

でも完全にフラグだったよね…なんか悔しい!


訳の分かんないまま登校して

始業式が始まったら、ようやく事実に直面。

しかも担任って。いいの?学校的にはいいの?どゆこと??

ついでに学級委員にさせられたし。


「なんなのよ…」


ぶくぶくと顔を半分うずくめる。

すぐに苦しくなって、ざばんと背筋を伸ばした。


そのあと、例のアレが起きた。

くいって、私の腕を掴んでそのまま、抱き寄せられるあの感覚。

そして、じんわりと耳元から背中まで響いて、じゅわっと染みるような囁く低い声。


『嫌だ』

『わかってるよ』


久しぶりに手を握られて、優しく包まれる身体。

それからまた同じように、でも少し震えた声。


『…この一年、俺じゃ、ダメかな』


ドラマでも見てるの?ってくらい鮮明に思い出せる。不思議。

しかもまた勝手に息が上がってる。心臓ばくばく。

佳月の家で何をしたかはほとんど思い出せないのに。

お昼ご飯、私なに作ったんだっけ?新作ゲームのタイトルは?佳月に教えたのはどの宿題だった?

ほらもう、全然覚えてないのに。

スーパーで何を買ったかは覚えてるのに。


それで帰って、何を思ったのか夕飯を作ってしまって

なんだかんだ今に至る、と。


あー何なんだろうホント。

思い出される一つ一つが未だに現実のことなのか信じられない。

やっぱり私、夢でも見てるんじゃ…。

頬っぺたを摘んで引っ張る。


「痛っ」


夢じゃないらしい。

はあ。お風呂から出たくない。出られない。


さっきも、少女漫画に出てきそうなシチュだった。

とんでもない形相で壁ドンさながら迫られる。

あれは…ちょっと怖かったけど、見たことない将にいにドキッともした。

そりゃ教室での将にいも心拍数上がったけど。

何故か鎖骨チラ見えに動揺してしまったんだから、目を逸らした。


『話、させてよ』

『やだ』


将にいの声が今も頭の中に響いてくるような感じ。

もちろん普段だって、喧嘩して怒ってたりすることはある。

でも、あんな風に、狂気的というか…

とにかく、見たこと無かった。

だから思わず、言ったんだ。


『将にい、今日おかしいよ?』


そしたら、びっくりするくらい表情が変わった。

いつもの優しい将にいに戻った。

抜けてるところがあって、ふわっと優しくって、

私の小さい頃から傍に居る、いつもの兄。


どうしてあんなに、違ったんだろう。

こんな状況になっているのも確かに謎だし不思議だけど、

それよりも、将にいがいつもと違ったことが心配だ。

やっぱり私が悪かったかな。怒りすぎた?

たぶん、戸惑ってイライラしてたんだよなぁ。

将にいもそれは同じだったのかな。


とにかく直接話さなきゃ。

私は、将にいをなんとなく避けてしまってたことにようやく気づいた。


勢いよく湯船から上がり、扉を開く。

浸かりすぎちゃったのか、身体が何となくフラフラする。

服を着て脱衣所を出た。


「大丈夫?長かったね」

「う、うん…」バタ

「ちょっ、奏美!」


そのままソファに倒れ込んだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る