「人生の宝物」の見つけ方
前章で「友人」の持論を展開しましたが、かくゆう私はと言うと、地元に一人、四国に一人「友人」(と自分は勝手に思っていますが)がいます。今でもよく電話でディスられます。共に部活動・スポーツを通して「同じ釜の飯を食べた」仲です。そのような環境でなくても「友人」を作れることも多々ありますが、両者に共通するのは「苦楽を共にした」という点です。特に「辛い思い」を共有した場合、結びつきは強くなります。そこで重要なのは「衝突」や「論議」です。
「SNSで知り合った人間と『友人』なり得る可能性はかなり低い」と自分では解釈しましたが、そこには恐らくお互いに何かしらの「打算」や「計算」があるような気がします。しかし、オフ会のように実際会って話をしたり、何かを共有したりする場合はその限りではないのでしょう。
多々は「お互いに分かりあえている」と『勘違い』して、深く踏み込むと自分の思ってた展開と違う事に気づき(これが裏切りの様に感じてしまうこともある)トラブルが起こるんだと思います。顔や直接話していないのですから至極当然だと
思います。当の本人たちは「SNSでお互いが分かりあえている」と『錯覚』しているのでしょう。
仮にSNS等で親しくなったとして、相手が『匿名ならば自分の言動に責任を取らなくてもよい』という考えを持っていたとします。(誰しも多少なりともそこを意識するものですが)、その相手が違う所で匿名を名乗って、自分の事をとんでもない様に言っていたらどうでしょう?正にドラマの「3年A組」の水泳女子部員のパターンではないでしょうか?
現代では「言葉で他人を殺める」という事実が現実にあるのです。「いじめ」もある意味同等でしょう。こうやって稚拙な文章を書いて自己満している私としては悲しく思います。
人間は誹謗中傷(逆に好意もらしいですが)を間接的に言われるとインフルエンスが大きいようです。直接言われた方がまだましという事になります。そもそも、そういう輩はそのことを直接言えない「チキン野郎」だと私は思っています。
仮に現実にあり得たら素晴らしいのですが、誰かを「いじめている」人間にその行為を「叱ってやめさせる」友人がいたとしたならば、その「いじめそうになった」人間は、後々その友人の「ありがたさ」を身に染みてわかるでしょう。世間に出れば逆側に立つことなど幾らでもあります。「ああ、あの時止めてくれてよかった」と。
そういう「友人」を持てたなら幸せなのではないのでしょうか。
話が横道に逸れてしまいましたが、結論は「友人」(親友)は『打算や計算の無い自分の事を思って叱ってくれる』(年齢・性別等は関係ない)のです。
そういう関係をどう構築するか、という問題には正解はないと思います。スポーツ等を通さなくても十分そういう関係に成り得るはずですので、入り口は限定されない筈です。しかし出口は似通っているように思います。ですので、自分なりの正解を導いてみてはどうでしょうか。必ず自分の人生が豊かになると思います。
私も然りですが、「友人」は多くなくてもいい(多くないはずだと思いますが)のでそう言う間柄の人間と多く出会うチャンスがあるといいですよね。それは決して「お金では買えない宝物」のはずだと私は思います。
問題です「自分を叱ってくれる友人を1人以上作りなさい。制限時間は人生の終わりまでとします」 イノベーションはストレンジャーのお仕事 @t-satoh_20190317
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