第十九節 結びに代えて―ルカニアの男


 この書簡が貴方様の下に届くとき、わたくしもまた、お師匠様と同じく、この世にはいないでしょう。これを書いている今、お師匠様は既に、召し上げられました後です。

 わたくしから見まして、お師匠様は非常に真面目で不幸な方でした。そして誰よりも、お会いした事のない主を愛しておられました。その為、わたくし共がつまらないことで諍いを起こす度に真剣に思いつめられ、いつも身体を壊しておしまいになりました。そしてそれを介抱するのがわたくしの役目であり、主の召命だったのです。

 お師匠様は、この書簡で何度も繰り返し仰る通り、いつもご自分の過去が生んだ病と闘っておられました。それは肉の棘でありながら、わたくしには到底抜くことの出来ない棘でした。不信、という棘です。お師匠様はその一見霊の棘とも見える棘の為に、身体をも蝕まれたのです。

 お師匠様は生まれてから、天に召されるまで、ただの一度も主を憎んだことはございませんでした。しかしお師匠様は眼が開かれていなかったので、過ちを犯してしまったのです。そして、その過ちを指摘してくれる人もいませんでした。漸くその過ちに気が付いた時、もうお師匠様は誰にもその懺悔をすることが出来なくなっていたのです。なぜなら、わたくし共はお師匠様に頼りきりで、質実剛健な信仰をお師匠様に求めていて、お師匠様自身が仰る通り、月足らずで生まれたかのようなお師匠様が、周りの者と同じ歩幅で歩めるように、努力する暇を許さなかったのです。

 いいえ、もし許していたとしても、お師匠様はきっとそうはしませんでした。なぜなら、お師匠様の中にはいつも、殉教されたあの助祭様の事があったからです。お師匠様の信仰に、助祭様は欠かせない存在でありましたが、お師匠様の信仰の故に、助祭様を殺さなければなりませんでした。その苦しみ、嘆き、悲しみを、わたくし達は共有しようとしませんでした。なぜなら、わたくし共の方が悲しいと思い込んでいたからです。

 どんなにか、お師匠様は孤独だったことでしょう。わたくし達は同じ罪人ではなかったのですか。神の前に正しい人など、唯の一人もいなかった筈です。それなのにわたくし共は、助祭様のことになると、お師匠様を追いつめたのです。そしてお師匠様も、それを分かっていたからこそ、悪霊に憑りつかれたかのように、叫んで訴えたのです。お師匠様を裁く神の民の罪を、私は知っている、と。

 お師匠様を赦すべきだった、とは言いません。確かにお師匠様は大罪を犯しました。けれどもわたくし共もまた、大罪を犯していることを認めるべきだったのです。それは人祖による罪ではなく、お師匠様よりもわたくし達の方が悲しんでいると思い込んでいた罪でした。お師匠様の悲しみを、軽んじた罪でした。それは主が示された愛とは違うと、誰もが気づいていながら、実行しなかったのです。そうすることで、助祭様への愛が、証明されると誰もが思っていました。最も小さなものにした仕打ちを、主が最も尊ばれるということを、わたくし達は忘れていたのです。

 しかし幸いなことに、お師匠様は召される寸前まで苦しんでいたのではありませんでした。お師匠様は捕らえられた後、主の恵みにより、ご自身をまず赦されたのです。罪を犯した自分を裁くのではなく、罪を犯した自分をも愛して下さっている主を讃え、また主の時の中で共に過ごした助祭様への愛を再び確かめ、自らの棘(とげ)により強められた自分に喜んだのです。それはお師匠様にとって、きっと最初で最後の、大きな恵みでした。死が迫り、傍らに、子なる弟子も右腕の弟子も居らず、アジアの者は皆逃げだして。この頼りないルカニア生まれの男が代筆するだけの、全てを奪われた時になって、初めてお師匠様は、大きな恵みを授かったのです。

 お師匠様は、―――いいえ、止めておきましょう。こんなことを言うのは無粋です。ギリシア語よりも遥かに良い言葉を、主はわたくし共にお授けくださったのですから。

 わたくしは唯、お師匠様が家族と呼んだ貴方が、何か大きな罪を抱え、苦しんでいる時、どうかこの書簡を思い出して頂きたいと願うばかりでございます。お師匠様はただ、救い主という言葉だけを宣べ伝えただけでも、聖書を宣べ伝えただけでもありませんでした。お師匠様が宣べ伝えたのは、自らの救いであり、苦しみであり、受難だったのです。そして、わたくしが見届けた光は、弱きの中でこそ強められる主の恵みであったのですから。


 さて、わたくしもそろそろ時間が来たようです。主の平和の内にいくことに致しましょう。

 主の平和がいつも、貴方と共に。


【冠の男 完】 



原作「冠の男」

20120907. Thu



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