第十八節 主の時の中にて

 口を打たれた私は、如何なる辱めの言葉の前にも、白く純潔を守り通していられました。主がお赦しになったので、その魂はほんの僅かに、辛い肉の器を離れ、主と同じ時間を駆け巡ったのです。遠く、遠く、魂は召し上げられ、大きな雲の中を光の様に駆け巡りました。白い鳩は他にもいて、彼は先に、主の胸に抱かれて憩っていましたが、私が現れたのを知ると、すぐ右に控えていた別の人物の肩に宿り、主は私に両手を広げて抱き上げてくださいました。その腕の安らぎを例える言葉があるとすれば、その言葉を作り出した人間は傲慢です。そして主は光り輝く炎となり、私を地上に導いてくださいました。白い線が私の周りを飛び去り、私は同時にたくさんの時代を駆け巡りました。

 たくさんの国を駆け巡りました。赤い建物の並ぶ国、鉄の塔が並ぶ国、四角い箱が走る国、人が密集している国、様々な服の様々な人種―――それもユダヤ人とかサマリア人とかの小さな次元でない人種が坩堝となっている国、そして黄金に輝く国、さびしい国、豊かな国、餓える国、富める国、不正の国、正義の国、分裂の国、団結の国、絶望の国、希望の国………。どれもこれも残酷で、涙が出るくらいに素晴らしい尊厳に満ちていました。私はそれらを同時に駆け巡ったのです。人の身ではとても体験できない不思議なことです。私もこうして、愛弟子に証言している今でも、あの感覚、あの目にしたものを表現しきれているかどうかわかりません。

 私は見覚えのある街に来ました。そこはアンティオキアでした。私は不用心にも開け放たれた窓から、一軒の家に入りました。そこからは、喧しい怒鳴り声が聞こえていたのですが、私にはそれがどこの地方の言葉か分かりませんでした。ただ、その窓から漏れる灯りにどうしようもなく引き付けられたのです。

 家の中では、見覚えのある青年が机に突っ伏して上着を被っていました。私の愛する子です。そうでした、私はアンティオキアで、この子を辱めてしまったのでした。可哀想に、私が激昂している間、こんな風に辱めに耐えていたのでしょう。

「…おや、どこから逃げて来たんです。今日はお客人が来ているので、此処にいては絞められてしまいますよ。」

 子は泣いていました。あんなに大声で肉体の問題を、自分の意志に反して持ち出されたら、私だったら暴れるでしょう。でも子は、一人部屋で泣いていたのでした。とても可哀想なことをしてしまいました。涙を拭ってあげたくても、私には時間も手段もありません。私は折れた嘴で子の頬に接吻し、その場から飛び立ちました。

 私は時をかけ、主の導きのままに寂しいオリーヴ山にやってきました。誰もいませんでしたが、遠くから誰かが歩いてきます。眉間にしわを寄せ、何か深く考え込んで哲学していました。その面影は懐かしく、私は姿を変えていることに感謝しながら一目散に彼の所に飛んでいきました。私はその時、自分が彼に何をしたかとか、そんなことは考えていなかったのです。唯またとない機会に喜び、父を求める童子の様に一目散に飛んでいきました。

 如何に幸いな主の恵みでしょうか! それは兄弟子だったのです! ここは、兄弟子がまだ私と共にいた頃、祈っていたオリーヴ山だったのです! 兄弟子はすぐに私が、嘴の折れた哀れな鳩だと気が付くと、手を伸ばして私に語りかけてくれました。

「怖くありませんよ。こちらにおいでなさい。」

 主が私を、兄弟子の腕の中に収めてくださいました。私が凍えたときに、抱きしめてくれた兄弟子と同じ匂いです。彼は生きています。彼は、今私と同じ光の内に生きているのです。

「酷い傷…。可哀想に、無理に檻を開けたのですか?」

 兄弟子は地面の土に唾を吐き、私の嘴にそれを塗って癒して下さいました。けれども私は、今はそんなことはどうでもよかったのです。生きて兄弟子の時の中に再び入れたこの奇跡を、幕屋を立てて記念としたいくらいでした。

 私を抱く兄弟子の腕は暖かくて、穏やかで、兄弟子の心が伝わってきました。兄弟子は何の恐れも迷いもなく、純粋に主を求めて祈っておられました。私を抱いていることそのものが祈りだったのです。兄弟子にとって、既に私や、師や、神殿は関係なく、兄弟子の所作全てが、祈りに通じるものでした。とても心地よい時間でした。だからこそ、私は離れることが出来ました。遠くに嘗ての自分が見えたということもありますが、何よりも私は、これからはずっと兄弟子と一緒でいられるという確証を得たからです。また、主は私に、もう一か所行かせたいところがあるというので、私はそれについて行くことにしました。


 そこは黒い雨雲のどこまでも広がるエルサレムでした。沢山の民衆の中、皆が方々を見ている中で、唯一人、私を指差し、微笑んでいる人がいます。数年の時を経て、すっかり光に馴染み、今や殺されようとしていることすら受け入れている兄弟子でした。あの群衆の中には、過去の私もいるはずです。私は石が飛び交う中、兄弟子の肩に留まり、頬に自分の身体を摺り寄せました。主も御自ら降りてきて、兄弟子が打ち据えられていく時、傍に寄り添っていました。爪が剥がれ、歯が折れ、肉を裂かれ、主も私も兄弟子の血に染まっても、私はそこに留まり続けました。裂かれる肉のない今でさえ、身を裂かれる思いがするのです。兄弟子は、群衆の中に私がいるのを知っていながら、一体どれほどの苦しみに耐えたことでしょうか。外れた肩と折れた腕で主の御体に縋り、文字通りの血の涙を流し、歯も折れて、小鬢に血を溜め、血を喉に詰まらせ咽びながら、本当にか細く、兄弟子は言いました。

「主よ、貴方が見えます。今こそ貴方の定められた時なのだと分かります。どうぞわたしの霊をお受け取りください。赤い冠を戴いたこのわたしを!」

 それはあの時、私が聞き取れなかった言葉でした。そして兄弟子は、震える手で、群衆を指差し、大声で叫びました。

「主よ! どうかあの者らを罪に定めないでください!」

 それがあの時の、そして、今私が主の時の中で体感した、最期の兄弟子の言葉でした。主は倒れた兄弟子の手を取って助け起こし、そのまま天に連れていかれました。兄弟子は苦しみに耐えて疲れたのか、戦い抜いた兵士の様に安らかな、天使の様な表情をしていました。

 赤い冠を戴いた兄弟子は、最期まで、その崇高な信仰の下にあり、その冠によって首を折ることもなく、その重みを受け止めていたのでした。私はそれを知り、今度は私自身が、用意された冠を戴くために飛び立ちました。


 そして主は、私の肉の器まで共に戻り、そして私がその後、再び鳩となるまで、共に苦しみ、耐え忍んでくださったのです。ローマに悪しき火が放たれ、私達主の道に従うもの達は、皇帝により裁かれました。 

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