第十七節 神殿の境内にて

「貴方は私の兄弟です。たとえ貴方が知らなくとも、私が貴方を知っていますし、貴方が認めなくとも、私がそれを認めています。私と貴方は、神、或いは貴方が運命や歴史と言うものの前において平等で、過去も未来もなく、血の隔てもなく兄弟なのです。私は貴方と同じように大変豊かで、恵まれた、歴史ある土地に生まれ、貴方と同じ地に住み、貴方方もよく知る教えを、特に厳しく教育され、今の皆さんと変わることは何もありませんでした。だから私は、今私自身が歩んでいるこの道を迫害し、老若男女を問わず縛り上げて獄に投じ、権利を持たない者、社会的弱者、悪魔憑き、分かりやすく言いますと、ごみ、くず、と呼ばれる人間は殺しました。この事については、私は何の弁明も釈明も致しません。貴方方が尊敬している指導者、教え、それら全てがこの事の証人です。私は自分の生き方が正しいと証明するために、この都にいるこの道の人を迫害する為に、あの日、此処から遠い北の地へ出かけて行ったのです。」

 その時私は見ました。天が! おお、なんと素晴らしい光でしょう、兄弟子も受けたであろう、あの素晴らしい光が! 今私に、今こそ燃え上がれ、篝火の様に燃え上がれと、力を分けて下さっているのです!

「旅を続けて私がもう少しで目的の地にたどりつくという時、突然天から私に、災いとも言うべき物凄いものが振りかかり、私の周囲を真新にしてしまったのです。そして、私は声を聞きました。『何故、貴方は道を踏み外すのか?』と。私は驚きました。私は全うに道を歩んでいたはずだったからです。私が、その道とは何かと聞きますと、声は、『私がその道である』と答えました。私はその時、初めて後悔しました。私は自分の過ちに漸く気が付いたのです。この時周りに多くの人がいましたが、皆は光と、私の身に何か途轍もないことが起こったことは、理解していましたのに、声は聴いていませんでした。私はこの時、深々と私の身に肉の棘が刺さりましたので、一人ではもうどうにもできない状態になっていて、澱みのこびり付いた視界の中で蠢いていました。私はこの肉の棘が取り除かれるように、熱心に祈り、励み、全ての労力を注ぎ込みましたが、私の肉の棘は取り除かれませんでした。今なお、この棘は私の胸を苛んでいます。けれども、私は、この肉の棘を受け入れ、それどころか感謝することが出来るようになりました。今ではこの棘は私の勲章のようなものになりました。」

 私の眼は多くの民衆の中から、たった一人、兄弟子だけを選び取っていました。私は隔てた段差の分、兄弟子によく聞こえる様に、更に声を張り上げて言いました。

「私は自ら望んだ道を穢しました。私はそれ故にこの肉の棘を得、過去に縫いとめられたのです。私はずっとそのことを後悔し続け、恐れ続け、悩み続け、苦しみ続けました。そして誰もがそのことで私を蔑み、私を裁く方でさえも、そのことに触れなかったのです。私は大いに嘆きました。嘆き狂ってしまう程でした。私は道を穢している間、多くの犠牲を払ったのです。それが無意味だと言われているようなものだからです。だから私は、目の前の集団に同意してほしかったのです。」

 声に出した時、私の胸につかえていたものが濁流の様に流れ出していきました。今まで語ることを赦されなかった分、それが赦された今、語らずにはいられなかったのです。

「私もまた、彼等と同じように、いえ、彼等以上に愛しい存在を亡くしました。私は確かにその存在を自ら穢し、私自身がころしましたが、それによって私が得たのは快感ではありませんでした。私が得たのは苦しみであり悲しみであり、嘆きでした。しかしそれを誰も理解してくれるばかりか、語ることさえ赦してくれなかったのです。私は目の前の葬式に参加したかった。私もその悲しみを癒してほしかった。私にも|共苦≪きょうく≫の救い主が来ていただきたかった。けれど誰もがそれを許してくれない。それは、私が世界でたった一人、人祖から生まれていないのと同じことです。私は主の救いの計画の内から、その痛みを伴った罪の苦しみのゆえに、更なる苦しみを追い、そして永劫それから逃れられず、私は皆が楽園にいるのを地獄から見ていなければいけない、そんな未来が見えました。」

 その時私の頬に、懐かしい感触が蘇りました。それは水の感触でした。

 長老があの時、私の手を引いて連れて行ってくれた場所。それは近くを流れる小川でした。服を脱いでそこに浸るように言って、長老は非公式に、私に赦しの秘跡を授けて下さったのです。

 ―――さあ、泣きたいだけ泣いてしまいなさい。儂も君と一緒にいよう。それで君の過去は死に、新しく生まれ変わる。儂らの祖先が、嘗て奴隷として死に、海を渡り、自由を得たように、今君の過去はこの水と儂の言葉によって死に、主の光と喜びを得る。君の苦しみは喜びとしよう、君の悲しみを認めて慰めよう。君は十分に苦しんだ。君は過ちに気づき、後悔したその時から、今日に至るまで十分に苦しんだ。それを認めよう。君の苦しみがここで終わったとしても、それは無駄になることではなく、無意味になることでもない。君は君の苦しみのゆえに新しくなる―――。

「そして私はそれに同意してくれる人と出会い、そして悟らせてくださったのです。私の苦しみは、九十九人の無関係な人よりも、一人の最高裁判官が理解されていて、そして私に与えたのは罰や裁きではなく、限りなく深い愛と恵みで、私は確かに、後悔したのと同時に、喜んだのです。そうです、後悔の始まりに、私は赦しを得たのです!」

 あの時、私は水の中で息が出来なくなるまで泣きました。若いころ、まだ兄弟子が生きていた頃、凍り付くまで祈っていた時、兄弟子が遠くから見つけ、抱きしめ、温めてくれました。今、私の身体は、漁師が水から守り、主に祝福された御方がすべての害悪から守っていてくれています。私を取りまいていた陰口や悪口、私自身の邪な感情の激流全てを受け止めても揺らがないその姿は正しく、巌かと言うべき壮麗な佇まいでした。そしてその時、私の不安や迷いや恐れや悲しみは、本当に心から、麦を根こそぎ摘む様に、一縷の落穂もなく、引き抜かれたのです。

 私は救われていた。理由はそれだけで、十分でした。

「だから私は自ら肉の棘を受け入れ、喜びの内に語らずにはいられないのです。なぜならその肉の棘の上に私の救いがあり、その救いは今までのどんな喜びにも増して大きいからです。そしてこの喜びのゆえに、私は貴方が苦しんでいる時には涙を流さずにはいられないし、憤っている時には同じように怒らずにはいられないし、喜んでいる時には踊らずにはいられないのです。それは、貴方が私に対してその様に思っていなくとも、そうなのです。私が貴方に対して、その様に思うのです。私の悲哀を、憤怒を、歓喜を、貴方の為に使わずにはいられないのです。それは、私が既に、その様な扱いをされ、またそれによって、私が救われたからです。貴方を救うか救わないかが問題ではなく、貴方にそうせざるを得ないのです。なぜなら、貴方が過去、今、未来に至るまでどんな人間であっても、私にとって、貴方が、大切で、唯一で、家族だからです。貴方の意思に関係なく、私はそうせざるを得ないのです。なぜならそれが、私が示され、求めた愛だからです。」

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