第十四節 アンティオキアにて

 迷いを抱えていても、私に宿る霊は私に言葉を与え続けました。私は己の言葉に自信が持てなくなり、霊によってのみ語り、霊によってのみ罵倒される日々を選びました。それはとても空しい、喜びのない物でした。その空しさは、何の苦しみも悲しみも喜びもない、凪のようなそれではなく、光の差さないほど深い海の底でもがいているような、息苦しいそれでした。それでも一度目の宣教旅行では、多くの兄弟に出会うことが出来ました。けれど一人寝床にいるとき、一人祈りの時間を設けたとき、ふとした用事で席を離れたとき、私は寒々しい空しさに襲われるのです。

 何度も言っているように、私は既に旧き世で死にました。しかし私は、旧き世で生きてもいます。私は人間です。聖人君子ではありません。悲しむ心、憎む心、憤る心を持ち、私の血には新しい救いの血と共に、旧きユダヤの誇りも迸っています。私は何度もそれを皆に言いましたが、彼等は私達からあらゆる権利を奪い取ろうとしていました。特にユダヤ人たちは律法にこだわるあまり、主が御自らお示しになられた新しい恵みを忘れていることが、しばしばありました。それを見たとき、叱責するのは私の役目でした。ヘレニストであった兄弟子を間接的に侮辱されたような気持になり、私は霊以外にも力が湧いて、それこそ取っ組み合いの喧嘩をすることもありました。その都度、私は身体を心配する愛弟子に泣かれてしまうのです。

 けれども、それも最近無くなってきていたのです。私たちがアンティオキアの教会に滞在していた時のことですが、そこでは長老自らが、異邦人と同じ食卓を囲んでいましたので、私は心底安心していたのです。しかし、若長の元から訪れた客人が律法学者だったのを見て、急に私の右腕とも言えるようになった弟子の一人が、困って私に相談しに来たのでした。彼は、鳩に導かれて私の下にやって来た、あの元気な使徒です。

「せんせい、長老が、割礼を受けていない兄弟と同じ食卓に着いてはいけないというんです。一体ぼくはどうしたらいいんでしょう。」

「…何?」

 私が明らかに不機嫌になったので、右腕の弟子は驚いて後ずさりしました。

「いや、あの、その…。ユダヤ人はユダヤ人だけで食事を取りなさいと…、律法に書いてあるよう―――。」

 私は最後まで聞かず、座っていた椅子を蹴り飛ばして部屋を飛び出しました。私の弟子にまでそのような旧い教えを強要しているとあっては黙っていられません。私は確かに長老よりも高い位の者ではありませんし、後ろ暗い過去も背負っておりますが、長老はこの事については既にエルサレムで公言しておりますし、そのようにせよと広めていました。主に権限を与えられた方、即ち長老が決めたことを曲げることが許せなかったのです。

 長老は広間で晩餐の用意の為に、私の何人かの弟子や召使たちが働く傍ら、客人と立ち話をしていました。私は律法学者を押しやり、いきなり長老の胸元を掴み、私の方へ引き寄せました。

「長老、一体どういうことですか。私の弟子に、割礼を受けていない兄弟と食事をするなと仰ったというのは。」

「え、だって律法に書いてあるって皆が言うから…。」

 実は、長老は確かに、主に権限を与えられた方で、この世で唯一、天国に行く者を選ぶ権利を与えられた方だったのですが、彼は信仰以外、本当に優柔不断だったのです。流されやすく、おどおどしていて、自分の意見をはっきりと言えない、私とは正反対の人でした。

「皆とは、どの皆ですか。私たちには割礼を受けた者と受けていない者、二つの救いがあるのですか。私たちは、主において一つなのではなかったのですか。大体、割礼の問題についてはエルサレムの会議で決めたことではありませんか。」

「いや、それはそのう…。やっぱりほら、和やかに食事したいじゃない?」

 思わず私は、眼の端に入った私の一番年少の弟子を指差して、大声で叫びました。

「長老! ご覧ください、私の可愛いあの弟子が、あんなにも甲斐甲斐しく働いているのが見えませんか! あの子は割礼を受けていませんが、心はユダヤ人です。聖書について私と答弁が出来るほどで、信仰も篤い者であると貴方が一番ご存じではありませんか! それとも包茎とは並びたくないとでもいうのですか、包茎が霊的に不潔だとでも言うつもりですか、貴方はそんな俗っぽい信仰心の持ち主ですか!!」

 実にお恥ずかしいのですが、私は全くその時恥ずかしげもなく、このように申し上げたのです。その場にいた全員が凍り付いていましたが、私は長老が何も言わない事の方が苛立って、激しく揺さぶりました。

「どうなのですか!! 包茎は恥ずかしい事ですか、割礼は誇るべきことですか、私の愛するあの弟子は恥ずかしくなどありません。身体の割礼を受けたばかりに、心が包茎であることの方がよっぽど恥ずかしいと、お分かりになりませんか! 血の上でユダヤ人であるより、心の上で主に繋がれていることの方が重要であると説かれたのは、長老、貴方ではありませんか!!!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてよ、周りを見て…。」

 私はその時言われた通りに周りを見回すと、明らかに侮辱されたことに憤っている律法学者たちが、ひそひそと顔を寄せ合っていました。

「ね? もう少しでご飯なんだから、喧嘩は止めよう。君の隣には彼らを座らせよう、楽しく話が出来るよ。それで君の弟子はその隣に座れば―――。」

「いいえ! あの子は私の右隣に座らせてください。どこに遣わしても恥ずかしくない、私の最も愛する弟子の一人です。いくら彼らが若長からの客人といえど、公の場で私の弟子を侮辱されたのでは、私の方が食事も出来ません!」

「でも皆は…。」

「でもも、かもしかも、ドルカスもありません! 私の弟子の身体は確かに包茎かもしれませんが、心まで包茎であると言われるのは心外です!」

 後々の話によると、この時点で私の可愛がっていた弟子はもうその場にいなかったようです。私が逆の立場でも、恐らく逃げ出していたでしょう。しかしそんなことに構っていられない程、私は余裕がありませんでした。

 ご存じのように、今でこそ割礼の問題、血の問題、人種の問題は和らいでいますが、当時は非常に重要な問題だったのです。なぜなら選民意識に基づいた文化的背景があり、長老でさえ、初めは割礼を受けた者、即ちユダヤ人にしか、この太陽の様な体験を告げ知らせず、主のお示しがあって初めて、この世に清くないものなどないと悟ったのです。しかし、それを理解できる兄弟は多くありませんでしたし、長老でさえ、清くないという意見が多ければ、確かに清くないと思わず言ってしまうような人でした。

「お待ちいただきたい、兄弟。そんな言い方は私たちの信仰の侮辱です。撤回して頂きたい。」

 律法学者の一人が、私と長老を引き剥がしました。しかし、私は撤回せず、更に捲し立てました。

「では貴方方も、私の弟子からパンを取って食べてください! 主が清いと言ったものを、清くないと言ってはならないと、長老が聞いています。」

「それは福音宣教の事でしょう。別に食卓の事ではありません。」

「いいえ! 同じことです。主は清くないとされていたものを清めて、長老にお与えになったのですから、清くない食べ物などありませんし、祝福されない食卓もありません。もしそのようなものが貴方方の中にあるのであれば、それは貴方方が旧い証拠です! 貴方方こそ撤回してください。全ての兄弟についてです!」

「なぜそのようなことをしなければならないのですか? 貴方は割礼を受けたユダヤ人でしょう? 何故そんなにも異邦人の事について語るのですか。それに、貴方のご寵愛を受けているという異邦人の弟子は、今どこにいますか。」

 私はそこで、漸く可愛いあの子の心を如何に辱めたかに気づき、口を噤みました。しかし、その為に律法学者は、私に対して、愛弟子から見ても執拗なまでに反撃にかかったのです。

「貴方は、元は我々を迫害する身でありながら翻った信用ならない人物であるということをお忘れですか。いくら十二弟子が御認めになったとしても、貴方の裏切り行為は我らユダヤの律法が許さないし、その律法は神から来るものです。貴方は誰よりも聖書に近しい人間と自負しておいでか。ならばそれは貴方の勘違いだ。なぜなら貴方は聖書から最も遠いではないか。」

「そうだとも、若長が認めたからと言って、付け上がっていてはいけない。」

「だって貴方は、主に最も近いあの助祭様を殺すことに賛成していたのだから。」

 その時、私は身体の内が火の様に熱くなり、目の前が真っ暗になりました。身体の全てにサタンが入り、私は肉体から魂を追い出されてしまったのです。サタンは大声を上げて私の身体を使って律法学者に飛び掛かり、ひっかき、噛みつき、晩餐の為の皿を割り、杯で殴って血を流し、尚も獣のような雄叫びを上げ、全身を逆立て震わせて、涙を流し、しかし笑いながら、とにかく律法学者に暴行を加えるのでした。愛弟子と、右腕の弟子とが私を二人がかり押え込むと、サタンは愛弟子の肩に噛みつきました。四肢が吹き飛んでしまうかのような勢いで暴れて、奇声をあげ、名前もなく何か透明なものを罵倒し続けているのです。

 周りが私を殴り倒そうとするのを制し、愛弟子は私の背中を叩き、抱きこみながら、悪魔憑きの様な私に、尚も優しく囁くのでした。

「大丈夫ですよ、お師匠様。どうぞお戻りください。サタンは退きました。わたくしのお師匠様、どうぞ落ち着いて息をして、力を抜いて、目を閉じて、足の力、手の力、最後に口の力を抜いて、そのままお休みください。わたくしが寝床までお運び申し上げますから。」

 今にも追い打ちをかけそうな律法学者たちを、右腕の弟子は凄まじい蔑みの視線で退かせました。平和を尊ぶ長老は、この中で一番発言力があるにも関わらず、黙っていました。しかし私の中に巣食ったサタンは、ひゅうひゅうと声を荒げながら、悶え苦しみながら、こう言ったのです。

「あな憎しや、神の民!!! 人を人とも思わぬ外道ども、我等を蔑み愚弄したとて、貴様の罪は既に知れておるわ!!!」

「下がれ痴れ者! 主の名によって命じる、せんせいの身体から出て、二度と入るな!」

 主の名に怯んだのでしょうか、サタンは悲鳴を上げました。私はここぞとばかりに、自分の身体に体当たりをしました。サタンは飛んで行って、私の身体には酷い痛みと倦怠感と眠気が一気に襲いかかってきました。

「長老、お師匠様は大変お疲れです。申し訳ありませんが晩餐は休ませてください。」

「え? あ、うん、いいよ。」

 さあ、寝床に行きましょう、と、愛弟子は私を支えてくれました。正直、朦朧としていて、私は歩くのも辛かったのです。けれども、意識が途切れる間際、律法学者は言いました。いいえ、もしかしたらその言葉を聞いたから、私は気を失ってしまったのかもしれません。

「悪霊憑きが、神に用いられるはずがない。」 

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