第十三節 苦悶の内にて

 導かれた家はすぐにわかりました。それは光や炎や、鳩を見たからではありません。この暑い中、屋上で跪いて祈っている男がいるのに気が付いたからです。あれが主の兄弟だと、若者は言いました。若者に対しては懐疑的でしたが、私は主の兄弟についてはすぐに分かりました。幻で見た、炎を宿して居られたからです。若者は家に入ると、嬉しそうに屋上へ走って行きました。私の事は置いてけぼりです。どうしたらいいのか分からず、逃げようかとも思いましたが、すぐに入れ違いで、別の人が出て来たので、思いとどまりました。私の弟子と、その弟子にくっついている小さな、若者よりも更に若い若者でした。少年から青年への移行期、といえば分かりやすいでしょうか。個人的な水準でいえば、私の甥っ子が丁度これくらいです。

「お師匠様! ご無事で良かった、すれ違ったのですね。あの使徒は前々からああなのです。ご無礼をお許し下さい。」

「いや、確かに驚きはしたが…、結果としてお前と会えたわけなのだし。」

 そんなことより、と、私は私の弟子に隠れている少年に目を移しました。少年は私を見ると、さっと隠れてしまいました。まあ、当然の反応でしょう。弟子は私に紹介してくれました。

「彼も私と同じ、使徒の一人です。戸籍上はギリシア人ですが、幼いころから深く聖書に親しんで来ました。敬虔な子ですよ。」

「…子ども扱いは止めてください、お医者様。…ようこそ、ダマスコから来た兄弟。歓迎します。」

 それだけ言うと、敬虔な使徒だという子は、奥へ走って行ってしまいました。

「気にしないでください。さっきまで一緒に心配していたんですよ。単なる人見知りです。」

「…うん? 私は何も、気にしていないが。」

「…そうですか。では晩餐まで、休んでいてください。道中色々ありましたから、お疲れの筈です。」

 それは事実だったので、私は甘えることにしました。

 私が休んでいる部屋を、時々主の兄弟―――若長と呼ばれているようですが、彼が時々敵意にも似た物を抱いて、覗きに来ているのが分かりました。警戒されているのは当たり前だから、と自分に言い聞かせながらも、私は胸に抱いた剣を手放すことが出来ませんでした。

 しかし、晩餐の時になると、若長は私の左隣に座りました。つまり、私を若長の右隣にしたのです。これには非常に驚きました。若長は食事の祈りを奉げると、最初に私を皆に紹介してくれ、自らパンを裂いてくれ、杯を回してくれたのです。これ以上ないくらいに、私は感動しました。エルサレムでこのような持成しを受けられるとは思っていなかったからです。晩餐の間も、彼等は私が遠い国での放蕩から帰って来たかのように、優しく語りかけ、主が人として生きていた時の事も沢山聞かせてくれました。私はそれを笑顔で、興味津々というように聞いていましたが、内心では、それらを聞く度にどうしても兄弟子の事を思い出してしまうのです。

 晩餐の終わった後、若長が初めて、私に耳打ちをしました。

「もし何か、話したいことがあるのであれば、皆が寝静まった後、俺の部屋に来るといい。」


 若長は、主の恵みにより、原罪を取り除かれた女性の甥にあたる人だそうで、元々は弟と共にガリラヤ湖の畔の町ベツサイダで漁師をしながら、エッセネ派のある預言者に師事していました。が、その預言者が時の王に斬首された為、その方が仰いでいらした、主の弟子となったのだそうです。この預言者について、私は兄弟子と話したことがありました。あの時、私はエッセネ派の彼の事を、『荒野に引きこもる現実逃避型』と称していました。

 若長について話を聞いていると、彼はとても気性が荒く、荒事にも慣れていて、いつも主のお傍で見張られていたそうです。おまけに自分たちが主の親戚にあたるのを良い事に、主に栄光を誰よりも与えてほしいと願い出て、怒られたり、直ぐにかっとなって弟と揃って雷の子と称されて窘められたりしたそうでした。しかし主が天に昇られ、炎を受けてから新しい人になり、相変わらず気性は荒いものの、率先して教会を引っ張る年長者としての頭角を現しているとのことでした。その目覚ましい活躍ぶりから、近年では義人と呼ばれ、また血筋の事もあり、崇敬を集めているのだそうです。

 しかしこの頃、彼は激しく苦しみながら祈るというのです。それは、私に、死を目前にした兄弟子を彷彿とさせました。兄弟子は、私に取り乱した姿を見せたことがありません。しかし、それは兄弟子が取り乱していなかったことにはなりません。兄弟子が死を覚悟して、どんな思いで教会に尽くしていたのか、その一端を見ることが出来るのではないか―――。私はそう思い、間もなく日も上るという頃、迷惑も考えずに、若長の部屋を尋ねました。

 若長は、すぐに部屋に入れてくれました。余りにも不用心です。

「私が殺しに来たと、思わないのですか。」

「殺しに来たのか?」

「違います。」

「だろうな。まあ、別にその胸の剣が何の為に使われるかなんて、気にしちゃいないから、心配するなよ。」

 こう言っては何ですが、若長は余り言葉遣いが綺麗ではありませんでした。私はもっと言葉遣いの悪い人間と、最も言葉遣いの良い人間を知っているからか、若長がそのような喋り方をするのは意外でした。

「兄弟子…、先だってエルサレムで殉教した助祭のことについてお聞きしたいのです。」

「…………ああ、いたね、そんな人。」

 まるで軽んじているかのような発言に、私は思わず顔が熱くなりましたが、若長が眼を伏せているので、すぐに静まりました。若長は、兄弟子に付いて特別に何か思うことがあるようです。

「静かな人だったよ。ギリシア人とユダヤ人が喧嘩していても、どちらも納得させてしまうんだ。俺たちが異邦人のことで喧嘩していてもすぐに諌めてしまう。暇が出来ると会堂に出かけて行き、夜まで教えて、晩餐(さん)の準備をいつの間にか手配してしまっている。…そんな人だったよ。惜しい人を亡くした。」

 若長は、一体どこまで私の事を知っているのでしょう。私はとてもじゃありませんが、恐ろしくて聞けませんでした。けれど、若長は次に、意外な言葉を口にしました。

「あの人は主に召し上げられたんだ。」

「えっ?」

 あのような惨憺たる死体を前に、私にはとてもできない、突飛な発想でした。

「彼は幻を見たんだ。主の言葉を聞いたんだ。御旨を授かり、その言葉の示すままに喋り、神の水に満たされて、血を注ぎだして死んだ、その場を俺は見ていた。」

 私はぎくりとして、またすぐ側にサタンが控えているような冷たい気配がしました。逃げ出さなければ、そう思うのに、若長の迫力に押されて動けませんでした。

 逃げなければ。彼は、私の罪を知っている!

「神の力に満たされて、あの時、そう、あの人は主と同じ言葉を叫んで死んだ! 主の様に、全くみすぼらしく死んだ! 罪人は主の恵みによって、ああもなれるのだと、けれどもそのための杯がどれほど苦いのか、俺は知っている。そしてその杯は今、俺の手にあって、宴を開くための酒は注がれた! 花婿が注いだ酒を呑めないなんてことがあるはずがない、俺は呑まなければならない、美酒が注がれる筈だったその杯から! この恐怖を、お前は何もかもわかっている筈、そうだろう?」

 暗に何を咎めているのか分かり、私は声が出るより先に、咄嗟に否定してしまいました。どれほど卑怯だったでしょうか。でも否定せずにはいられなかったのです。若長の恐怖が、私の身体に巣食うサタンの力を増幅させたのですから。私は何度も言いました。

 知らない、分からない、知らない、知らない、知らない、知らない!

「怖いんだ…。その杯の苦みも、酸いも知っている、だからこそ覚悟が出来ない。怖い、怖い、怖い! 夜も眠れない位に怖いんだ! 死にたくない、生きていたい、俺は、まだ死にたくない! 死にたくない! 例え仮の宿だとしても、そこを訪れる旅人に福音を告げ知らせることも必要な事だろう? 何故俺だけが、早く真の宿に旅立たなければいけない? 俺には弟がいるんだ。姉や妹も、妻も子も、弟子もいる。長老とだって、漸く仲よくできるようになったんだ。それなのに、どうして俺だけが! 覚悟のできていない俺だけが、主を狂人とさえ言ったことのある俺が、どうして! どうして、どうして先にいかなければならない!」

「知らない! そんなこと、私は分からない!」

 いいえ、知らない筈がなかったのです。私はその時、指を指して若長に指摘できたのです。唯指摘してしまえば、私もまた同じ杯を受けると、そこまで分かっていたから、指摘できなかったのです。これ以上ないくらいに激しく打ち震えている若長からは、それでもかっかと熾天使の様な炎が吹き上がっているのが分かりました。若長の身体を苦しめているのは、恐怖でも凍えでもなく、ただその熱い炎の故でした。その炎は身体の内から、若長を激しく燃え上がらせていたのです。

 愚かだとお笑いになりますか。自らを苦しめる炎を鎮火させることが出来ない位に、その炎を愛していた、若長の事を。

「あの助祭は立派な人だった…。骸を丁寧に葬れなかったことが悔やまれるくらいに…。あの人こそは主に選ばれた義なる人、聖なる霊に満たされた人、だが俺は違う! 俺は、唯名誉欲に駆られて、主の所に行っただけなんだ。あの最後の預言者が『待っていた』人の右と左に、弟と居られたらどんなにか…、どんなにか素晴らしい景色が見えるだろうかと! 親父の様に大勢の人を従わせたら、どんなにか、いい気分、だろう、と…。あの人の様な、純化された心なんか、これっぽっちも持っちゃ、いなかった、野心の塊の…。」

 私は聞いていられませんでした。若長の言葉が、まるでサタンが乗り移ったかのように、私の心を抉るのです。私の信仰が、再び揺れ始めるのを感じました。その言葉は、余りに私の心を見据えていたのです。私の不安を、適切に突いていたのです。彼は悪戯に自分を卑下しているわけではありませんでした。錯乱しているようでいて冷静に、私の迷いを指摘していたのです。

 それを望んでいたはずなのに、いざ抉り出された私の眼球ともいえる臓器は余りにも悍ましくて、けれども反らす瞳がなくなっていて、私は恐れ戦きました。少なくとも、若長が私に惨めにも縋りついてきたとき、一緒にへたり込んでしまうくらいには、私は足腰に力が入っていませんでした。

「取り成してくれよ。」

「え?」

「取り成して、俺の為に。俺は怖いんだ。俺一人の祈りじゃ届かないんだ。なあ兄弟、アンタも一緒に祈ってくれよ、取り次いでくれよ、俺、誰かに代わってほしいんだ! 狂っちまう!」

 私は腕を振り払い、今度こそその場から逃げ出しました。そして眠っていた私の弟子を叩き起こして、寝床に隠れました。それくらい怖かったのです。若長は追いかけて来ませんでしたが、若長の言葉はどこまでも私を追いかけてきました。

 目を反らしていたのかもしれません。殉教という大義に隠して、忘れていました。私が死ぬとは、崇高な教えの元、光に満ちて死ぬのではありません。

 私は、子なる神がそうであった時のように、酷い辱めの内に死ぬのだということを。


 私は十五日間そこに滞在し、エルサレムを出て、故郷タルソスへ向かいました。その時、私の弟子は、夜の取り乱した私の事について何も言及しませんでした。

 若長の影響力は絶大で、徐々に信頼を得た私は、主が選ばれた他の十一人と会うことが出来るようになりました。そして新たに、あの元気な使徒と、甥っ子の様な使徒とが、私の弟子となりました。

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