第十五節 教皇の御前にて

 その日の夜は、酷く寒い夜でした。私は愛弟子が寝付いた頃起き上がり、そっと家を出ました。胸に主に与えられた剣を忍ばせ、私は盗人のようにエルサレムを静かに歩きだしたのです。どこを目指していた訳でもありませんが、私は気がつくと、あの日兄弟子の血を吸った土の上に立っていました。

 そこでもサタンは立っていました。ただサタンは、その時、僅かに表情を持っていました。サタンは地面に座り込んでいましたが、私に気がつくと立ち上がり、こちらに微笑みました。

「久しぶりだね、わたしの愛する小さな者。」

「お久しぶりです。」

「覚えているかい? ここは私の墓場。そして私の血が流れた場所。そしてここは今から君の墓場にもなる。」

 わかっていました。いいえ、私はわかっていたのではありません。それを実現させるために来たのです。私は答える代わりに、胸に忍ばせた剣を見せました。

「あの時、私は主から授かったこの剣を持って、貴方を殺すつもりでした。」

「………。」

「でも出来なかった。あの形容しがたい顔をした貴方を見たら―――いいえ、まるで天使のような、次元を超えた、荘厳な貴方を見たら、私は怖くて、殺すことに賛成するしか出来なかった。私は卑怯でした。あなたを殺す人々の衣で、私は自分が剣を携えていることを隠したのです。貴方の最期の声に、耳を塞ぎました。」

 サタンはずっと、黙っています。まるで兄弟子が、私の話を聞いてくれているかのような、そんな心持になりました。抜け殻のような幸福感に満たされて、私ははらはら涙をこぼし、懺悔を続けました。

「私は貴方のことが好きでした。私は貴方を、天地と栄光の王に奪われたくなかったのです。神殿を崇敬し、神を敬い、私と答弁をするあの日々が、何よりも愛おしかった。私は貴方の変化を愛せなかった。貴方が別の師を見つけて羽ばたいていき、その枝に羽根を休めているのが許せなかった。だから私は、オリーヴを咥えて戻ってきた鳩の風切り羽を切るように、貴方の風切り羽を、主から与えられた剣で切るように、貴方を殺しに行ったのです。そして可哀想な風切り羽の仇を討つ為に、私はダマスコにオリーヴの木を焼き滅ぼしに行きました。けれどそこで主は言ったのです。私は与えられた剣の使い方を間違えたのだと。だから私は償わなければならないと思いました、けれども。…けれど、主は何も仰ってくださらないのです。私を裁いてくださらない。貴方の風切り羽がどんなにか大切なものだったのか、仰ってくださらない…。霊の導きに流されたままの私は、他のどんな者達よりも未熟なのに、私には縋れる人がいない。こんな小さな者の小さな悩みを、主は見過ごしてしまわれたのか、そう疑ってしまう私がいる。それは貴方から奪った風切り羽の価値を無に帰すものです。だってそうでしょう、そうでなければ、なぜ私はあの時、こんなにも、今尚、愛しい貴方を殺すことに賛成していたのでしょう。私は強固なる意志を持って貴方を愛して、貴方を殺したのに、結果だけが残ってしまって、私はついぞ救われない。主の救いから、サタンの錘に負けて、手を離してしまった。私の手には主の杯ではなく剣がある。刃も削れたこのみすぼらしい剣で胸を貫けば、さぞかし苦しかろう、貴方が死んでいったあの時間を追体験できるのではないかと私は思うのです。でもそれでも、貴方を殺した私の意志が認められなければ、貴方を殺した意味がない…。貴方を失った意味がない…。私の苦しみに意味がない…。私が貴方を愛していたと、信じてもらえない…。」

 最後の言葉は余計だったかもしれません。でも本心でした。私は意味を見出すのと同時に、認めてほしかったのです。兄弟子を殺したのは確かに自分だった。でも私は兄弟子を今でも愛していると。たった一人に、誰かたった一人に、知っているよと語りかけてほしかったのです。兄弟子を殺した私が、兄弟子を失い悲しんでいる心を認めて、慰めてほしかったのです。

 まるで意思があるかのように、剣の鞘が、するりと抜けました。剣は、私が手を伸ばせばちょうど、胸に切っ先が当たる位の大きさで、私は切っ先を胸に当てました。ちくりともしません。むしろ私は、先ほどから続く不思議な恍惚感に満たされていました。

「どちらでもかまいません。私は受け入れます。せめて、教えてください。私は貴方を愛していました。貴方はそれを知っていますか?」

 その時、その人は何を考えていたのでしょうか。

 私が始め、サタンだと思っていた人は、私の懺悔を聞くうちに、いつかの殉教者のような、天使のような微笑みを浮かべる人に変わっていったのです。その人は性もなく何か透明で、深い川のように静かでありながら、漁火のように激しく燃え上がるのです。この不思議な人を、私は以前どこかで見たような気がします。

 その人は何も言いませんでした。けれども私は心が満たされて、いっぱいになりました。溢れて溢れて、いっぱいになっている今なら、この胸に剣を突き立てても、萎みはしないでしょう。そしてそれが、おそらくその人の答えであり、我が主の計らいなのです。私はそう思って、柄を握り締めました。

 夜だというのに、天を開き、鳩が一羽、飛んでいくのが見えたのをよく覚えています。あまりに鳩が美しいので、私は一瞬、見惚れていました。

 ―――からん!

 その隙に、何者かが私の腕をつかみ、剣を叩き落としました。からからと地面を削いで、剣が跳ねていくのを、私はぽかんと見ていました。自害を邪魔されたのだと気づいた時、それが誰の仕業かも気づいて、私は愕然としました。

「長、老…。どうしてここにいらっしゃるのです。お休みになっているものだと…。」

 長老は肩で息をしながら、私の肩につかまり、何事か喋ろうとなさっていましたが、余りにも呼吸が荒いので、何を言っているかさっぱりわかりませんでした。ご老体ですのに、余程大急ぎで走って来られたのでしょう。目の前で悪霊に憑かれた男を相手に、何をしていらっしゃるのかと思いました。背中をさすっている間、私は何も言えませんでしたが、長老は私を離しませんでした。余りにも強く握るので、私は捕まれたところが痣になっているのではないかと考えていたくらいです。

「鳩の…。」

「はい?」

「鳩の、姿をした、儂の友が、寝ていた、儂の頭を、こつこつと…。」

「はぁ…?」

「そうしたら、君が、酷い有様で、出ていくのが、見えて。…ああ本当に、今度は間に合ってよかった!」

 長老は外聞もなく私を抱きしめました。流石は元漁師と言ったところで、がっしりとしたお身体に囚われるとビクともしませんでした。が、私はもしかしたら、その気になったら長老を突き飛ばすことが出来たのかもしれません。

「君がね。」

「はい。」

 長老は私に語りかけて言いました。

「儂に何をしてほしいのか、儂は知りたいよ。」

「何を…。貴方は十二弟子の長ではありませんか、主の建てられた教会を支える岩ではありませんか。」

「儂が何者であるか、君が何者であるか、関係ないということが分からん訳でもないね? 何が君の舌を偽らせているのか、儂がそれを退ける祈りをしてもかまわないかな?」

「…長老ともあろう御方が!」

 長老の優しい語りかけに、私は酷く反発しました。何か一瞬、見透かされたような気になったのです。毒の吹き矢のようなものが、心臓を下から突き刺すような、そんな恐ろしい感覚でした。私は心の臓を守ろうと長老の胸を叩きましたが、長老の右手は尚もがっしりと私を離さず、左手は私の腰を掴んでいて逃れられませんでした。この手からは、きっと東の荒野へ行っても、西の海原へ行っても逃れられないのでしょう。長老の胸の中にいるしか出来なかった時、私はこみあげてくるものを押さえていることが出来ませんでした。お召し物を汚さないように顔を覆うのが精いっぱいで、顔を背けるとそれだけ、私の醜い顔が晒されてしまうので、私は小さい身体を更に小さくして俯きました。

 長老は何も言いませんでした。がっしりとした腕はいつの間にか逞しく頼もしいものになっていて、私が泣きやむまで、夜を止めておくかのようでした。天に権力のおありであった長老であれば、きっとそのようなことも造作もなかったでしょう。私はしかして、ただ長老が何もせずに、一人の人間性のあるひととして、そこにいてくれたことだけが慰めとなったのです。

「苦しかったのです。」

「うん。」

「後悔しました。」

「そうだね。」

「でも誰も、それについて触れてくれなかったのです。」

「それは…。」

 長老は少し考えて、私にとっては初めて、この話題について触れてくれました。

「もう、触れる必要がないからじゃないかな?」

「………。え?」

「だから、もう触れる必要がないからじゃないかな?」

「…意味が分かりません。私は犠牲も何も捧げていませんし…。」

「ふむ、それなら。」

 こちらへおいで、と、長老は暗闇の中、私の手を引いていきました。


 ―――この時を境に、私は大きく変えられたのですが、その話は後に纏めてした方が良いと思われますので、今は語るべきことを先に語りましょう。

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