第十節 会堂にて

 アラビアから戻った私は、ルカニアの青年を正式な弟子とし、また多くの兄弟を得ました。ルカニアの青年は、完全には眼を開かれなかった私の代わりに筆を取り、今もこうして書簡を書いてくれています。この他にも私の言葉を記してくれた者はいますが、この時はまだ、逢っていません。

 ユダヤ教の指導者として華々しい未来を約束された私は既に死に、私はヘブライ語ではなくギリシア語で呼ばれるようになりました。私の身体には、崇高なる十二子の血ではなく、幸いなる受難の血が流れていたからです。

 毎日会堂で教えることは、主が私の口を通して、舌を動かし語ってくださいます。中には、私を悪霊憑きのように言う人も、勿論いましたが、そんなことは何の障害にもなりません。私は日々、主の威光を示すための光の一筋とされたことが嬉しくてたまりませんでした。そしてこの光の喜びを、語らずにはいられませんでした。

 嘗て預言者の一人は、余りの迫害に耐え兼ね、口を閉ざそうとしました。けれども彼は、その口を閉ざしても石が叫ぶことを悟りました。正しく私はそうだったのです。喉が枯れても私は声を出せましたし、例え舌を引き抜かれても、私はものを言えたでしょう。それくらいに、私は光に満ちて、主を知っていました。嘗ての私が、如何に見当違いに神を呼び求めていたのか、それを感覚で知りました。もし、この劇的な変化を上手く伝えられていないのだとすれば、それは決して、この筆を取っているルカニアの青年の無教養の為だとか、私の頭が足りないためだとか、そんな風には思わないでほしいのです。光を掴むことが出来ないように、この変化を語ることは出来ないのです。

 兄弟子もきっと、こんな気持ちだったのでしょう。裁判の罵りの中にも、石の雨の内にも、兄弟子はそうでした。この光を写す水面になりたい、この歌を歌う鳥になりたい、そう思っていたに違いありません。だからこそ、その水面に魚がいなくなっても、石で墜とされても、それでも、光を写し、歌を歌わずにはいられなかったのです。

 兄弟子の立場になって初めて、私は、私が嘗て主から受け取った剣の采配を誤ったこと、その結果の恐ろしさに気が付いたのです。

 しかし、私はそれを口に出来ませんでした。私の導いた人々は皆、私を頼りにしており、霊もまた、私が口を閉ざし、沈黙することを許しませんでした。私は誤魔化すように、激しく捲し立てて喋る他ありませんでしたので、自分の身体を省みることなどありません。全て、医者でもある私の最も愛する弟子に任せていました。

 弟子は、私が出かけたり仕事をしたりする時には、どこにでも付いてきました。会堂を借りて教えを宣べ伝える時にも、勿論そうです。昼はテントを張り、夕は会堂で教え、私は疲れない身体に慄くと同時に、押し迫っている背後の大きなものを見ないようにしていました。

 人混みをかき分けて、私はより前へ、より前へと進みました。耳を貸す者、貸さない者、石を投げる者、持成す者、唾を吐く者、隣に並び立つ者、頭を振る者、とにかく私は彼らを押しのけました。その先に主が歩いておられるだろう、私が一番お近くに行くことが出来れば、主はこの大きなものから私を守って下さるに違いない。そう考えていたからです。

 けれども進めば進むほどに人混みは酷くなり、私は身動きが取れなくなりました。


 会堂で教えている時でした。私はその時、ダマスコにいましたので、ルカニアの青年を始めとする他の兄弟たちを不安がらせないよう、細心の注意を払っていました。時の王が私を、秩序を乱す偽預言者として追いかけ回していたからです。私はなるべく人に恐れを悟らせないように小さくなり、会堂でだけ、胸を張り、振り払うように大声で福音を宣べ伝えていた時、私は見たのです。確かに見ました。

 会衆の中に、兄弟子がいたのです。

 まるで人混みに紛れる様にひっそりとしていて姿ははっきりとはしませんが、兄弟子がそこに存在していたのです。嘗て、私が兄弟子を追いかけていた時のように、私ははっきりとは見えない兄弟子の姿を、はっきりと認識できたのです。

 私は嘗て、兄弟子がしたように、兄弟子を名指ししようとしました。しかし、今まで回っていた口が全く嘘のように動かなくなり、私は心の臓さえも止まってしまい、何もすることが出来ませんでした。衆人環視の中、私と兄弟子は痛ましい過去と現在という形になって相対し、そして兄弟子は、唯そこに、存在するだけでした。私に微笑みかけてもくださいませんでしたし、恨めし気に睨みつけてもいませんでした。

「お師匠様、どうなさったんですか。」

 弟子が私に声をかけたとき、まるで蛇が巻きついたかのように身体の内側が痛み始め、私は見えない血を吐き出し、その場に倒れました。全身の血が喉に行って、詰まってしまったかのようです。会衆のざわめきも、弟子の声も聞こえません。ただ、兄弟子の視線だけを感じていました。思い出していると、こうしていてもあの感覚がまた蘇ってきそうです。

 苦しくて、寒くて、真っ暗な闇の中に放り出されたような感覚。それは、ダマスコへの道のりで私が体験したものよりも強く、私の身体を鞭打ったのです。兄弟子の姿をしたサタンは、私を見下ろし、頭を踏みつけ、胸を何度も叩いて繰り返したのです。

「お前は一体、会堂で何を教えているのか?」

 その言葉は、その後の私にも深い影を落としたのです。


 気が付くと私は、家で弟子の手当てを受けていました。

「疲れがたまっていたんでしょう。明日は一日、出歩かないで眠っていてください。今薬を持ってきますから。」

 言葉早にそう告げた弟子は、さっさと出て行ってしまいましたが、私は自分が酷く掻き乱されるのを感じ、手を広げて祈りました。

 しかし、眼を閉じるとサタンの気配を感じるのです。そしてサタンは兄弟子の姿で、私を見ているだけでした。恐ろしくなって眼を開くと、私は額にじんわりと汗をかき、息がだんだんと細くなって、胸が膨らまない位に吸っても足りない位に細くなって、胸が馬の蹄のように脈打っていきました。何か酷い病気なのかもしれない、サタンの力が私に及んでいるのかもしれない。

 それは、私に信仰が足りないからかもしれない。神への不信ではなく、それは私自身への不信でした。 

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