第十一節 旅路にて

 ダマスコで信用を得た私を、エルサレムに行くよう勧める声が上がってきていました。そこでは、弟子の長や主の従兄弟が活躍しているそうで、これから私がこの道を伝えていくにしても、彼等と知り合うことは大きな事実になると言うのです。弟子も、それに賛成してくれました。

 確かに彼らの言うとおりです。けれども、エルサレムは兄弟子の死んだ土地です。私が、眼を開いてくれた人を騙して殺そうとした土地です。そしてあの律法学者のいる土地です。

 もしエルサレムに上ることで私が主の栄光の故に、兄弟子の様に殺されるのであれば、私は恐れずに戻ります。寧ろ、嘗て主の愛し子を屠った者に、その様な冠を授けて下さった喜びに打ち震えるでしょう。

 しかし問題は、もっと身近な小石のようなものでした。一つ一つは大したものではありませんが、人という水の流れの中では、がらがらと転がって私の足元を崩してしまいます。

「お師匠様、わたくしが傍に控えておりますし、エルサレムにはお師匠様に、寧ろ会いたがっている使徒がおりますので、大丈夫です。」

「私に?」

「はい。主が最後の晩餐をした家の親戚で、キプロスの地主の息子で、教会に多額の寄付をしたものです。異邦人宣教について最も大きな信頼を頂いていて、その方とわたくしは顔見知りです。お師匠様が洗礼を受けたときから、会いたいと書簡で申しています。」

 弟子がこう言いましたので、私は眼を開いてくれた兄弟と一時別れ、エルサレムへ向かうことになりました。別れ際、兄弟は私にこんなことを言いました。

「兄弟、わたしは貴方が主に、真に立ち返ったことを誰よりもよく知っておりますし、貴方に洗礼を授けたことは御心に適ったことであったと今でも思っていますが、この先の貴方の道のりは、決して主に祝された平坦なものではありません。貴方は主の道の為に率先して苦しむことでしょう。しかしそれもまた、主の計らいなのです。ご自分を見失ってはいけません。祈っています。」

 何故私は、自分が苦しむことになるのか、よく分かっていませんでした。私は、裁きの雷を握る主を感じました。その雷を持ったまま私の手を取った、主を感じました。この上尚も苦しめるとは、私は答えのないまま、兄弟子の事で思い煩うと、そういうことなのかと思っていました。しかし、それはすぐに違うと分かりました。

 道中、私を尋ねる人には皆、霊によって答えましたし、時には主の名によって、疲れた人を癒しました。けれども、殆どの人は、私が何か訳のわからない言葉を喋っていると言って、離れて行ってしまうのです。私が怒ったり、悲しんだり、泣いたりすると、彼等は私の事を不信仰で未熟なものだと罵るのです。そしてそれに対して私が不満を言うと、彼等はまた頭を振り、私には聖人君子でいるようにと無理難題を押し付けるのでした。

 私は、主の下で真に人として生まれ変わりました。

 しかし私は、完全には主のお傍にいるわけではありません。主の下に生まれ変わるということは、旧き人の世に置いて死ぬことであり、正しく人は、旧き神と新しき神に同時に仕えることは出来ず、どちらかに仕えてどちらかを殺さねばならないのでした。

 そして私は、旧き世に置いて、生きながらにして死なねばならなかったのです。

 苦しむことも嘆くことも憤ることも、私には許されていませんでした。私は常に潔癖でなければなりませんでした。私の中に湧いてくる、『疲れた、休みたい、投げ出したい』という甘えは封じなければならなかったのです。死者は何も感じないように、私は主の言葉を伝えるだけの屍でなければならなかったのです。

 弟子は私が構えすぎていると心配してくれていましたが、私が完璧にその役をこなせないとしたら、一体どうして兄弟子は死んだのでしょう。私が殺した、最も敬愛するあの人を! あの人の死を無駄にしないためには、私が苦しまなければならない、それは分かっているのに、どうしようもなく私の心は悲鳴を上げて縋りたくなってしまう! 主の与えた試練から顔を背けたくなるのです。


「お師匠様!」

 弟子に強く呼びかけられて、私ははっと頭を上げました。直ぐそこまでエルサレムの門が見えていますが、私の足は完全に止まっています。弟子は少し進んで、引き返したようです。

「申し訳ありません。つい気が急いてしまいました、休みましょう。」

「でも、もうすぐ日が傾いてしまうから。」

「いいえ! いけません。お師匠様、貴方はご自分のお身体の事を誰よりもご存じでない。」

 私はこの言葉に、思わずむきになって掴み掛り、激しく揺さぶり、言い返しました。それまでの鬱憤が、弟子の首にかけられた私の指から弾けて消えて行って、私は今でも、その時の筆舌尽くしがたい快感を忘れられません。立て続けに厄介なことが積み重なったときは、その時の快感に誘惑されます。

「一体主以外の誰が、私の全てを分かっているというのか! お前はたかが医者の分際で、私の何を分かったつもりなのか! 身体か! 眼か! 私はそんな単純な生き物ではない! 私は人間だ! お前と同じ人間なのだ、人を憎みもする、恨みもする、憤りもする人間なのだ! 心を持ち、高度な学問を修めた人間なのだぞ、この私の一体どれほどを、お前が分かっているというのか!」

 全て言い終えるころには、弟子は真っ青になって、指先も冷たくなっていました。その手でそっと私の頬を冷やすように触れられ、私は我に返り、手を離したのです。へたり込んで咳き込む弟子を、テント張りで鍛えた戦慄く無骨な指を、私は唯呆然と見ていました。

 その時、私はエルサレムの外から、人が歩いてくるのを見ました。もう日が傾き、これから暴漢が出るかもしれないというのにあまりにも不用心に、一人で歩いてくるのです。直ぐにそれが、人ならざる者であると分かりました。そして彼は、私にこう言いました。

「お前は一体、会堂で何を教えているのか?」

 私は恐怖で、また息がつまり、その場に倒れ込んでしまいました。

 弟子はすぐに起き上がり、たった今自分を殺そうとした私を横向きにし、上着を丸めて頭を高くして、背中を摩り、私の為に祈りを奉げてくれていました。たった今、自分の首を絞めた私の指を握り、青ざめて血の気が戻らない顔のまま私に微笑みかけました。私が激しく喘ぎ、唾液をこぼすと、それが喉に詰まらないように吐き出させてくれました。

「お師匠様、安心してください。この弟子は、お師匠様が主を宣べ伝える様に、お師匠様にお仕えするように主に召し出されたのです。わたくしは、決してお傍を離れません。」

 その誓いを聞いたのは、その時が初めてでした。私はそれを聞いて、胸に暴れまわっていたサタンが大人しくなるのを感じ、ほっと息をついたのです。

「お師匠様はご存じないでしょうけれど、わたくしはお師匠様をずっと以前から存じ上げていたんですよ。」

「しかし…私はキリキア出身で、エルサレムにずっと…。」

「ええ、そうです。わたくしは貴方の事を話に聞いて、祈りの内に、貴方の弟子になるように主に召し出されたのです。」

 私は不思議でした。律法学者と医者は、接点のない関係です。人を導き、学問を伝える教師と、人の身体に触れ、時に穢れに触れる日陰者の医者とでは、本来ならば目を合わせることもしません。私が不思議そうに黙っていると、弟子は答えました。

「わたくしは、主が真の人として公の生活をしている間から、主の弟子でした。これからお会いする十二弟子の方々に比べたら、ずっと末端の弟子ですが…。ある時、七十二人が選ばれて各地に宣教に行ったとき、わたくしはお師匠様と同門の方にお会いしたのです。」

「…!」

「余りにも空しく空を見ている方で、わたくしは以前、彼とガリラヤで食卓を共にしたことがありました。夜の雨の中、家にも帰らずに木陰で祈っているのを見て、医者としても宣教師としてもわたくしは声をおかけしたのです。…わたくしは、お師匠様の兄弟子様から、お師匠様の事を聞いたのです。」

「…なんということだ。」

 どうやらそれは、お師匠様が身内に不幸があり帰っていたガリラヤから、再びエルサレムへ帰る途中だったようでした。丁度同じ頃、私は話し相手がいなくて不貞腐れていました。

「後に、兄弟子様は助祭様になられ、わたくしに預言を残されました。」

「それは、冠の事か。」

「ご存知でしたか。その通り、赤い冠のことです。そしてこうも言われました。『わたしはこの冠を、最も恵み溢れる罪人の頭より賜った』と。わたくしには未だにその方が何方なのかは分かりませんが…。」

「それは、鳩の姿をしていなかったか? 嘴が傷ついていなかったか?」

「え? いえ、そんなことは仰っていませんでしたが…。」

 もしかしたら、弟子が言っていることは、私の見たあの幻と同じことなのかもしれない。私は一瞬そう思いましたが、幻の意味が分からなかったので、冠の意味も、鳩の意味も、すぐに頭の隅へ追いやってしまいました。

 私は唯、心細い時に口の端に上った兄弟子の事をもっと聞いていたくて、エルサレムを目前にして野宿をすることを承知しました。

 弟子は私のいない時間の兄弟子の事を語ってくれましたが、どれもこれも、私の知っている兄弟子でした。私がこちら側に来たからそう思うのかもしれません。どうして殺してしまったんだろうと後悔が臓腑を突きあがる度、愛おしくなるような懐かしさに私は涙が零れました。死の冷たさを運んでくる風に抱かれて、私はあの若き日の頃の様に身体が熱く燃え上がったのです。

 良かった。兄弟子はやっぱり変わっていなかった。主を愛し、人を愛し、崇高なままの兄弟子でいた。堕落したのではなく、兄弟子は今の私と同じく、旧き世で死者となり、新しき世で生きている。今も主と共に居られ、主と時間を共にしておられる。兄弟子は誰にでも愛され、面倒見が良くて、炎に満たされた立派な殉教者だったのだと。

 けれども、それでも、やはり兄弟子の姿をしたサタンの気配は、私に付きまとったままでした。一体どうすればこのサタンは退くのかと、私は主に祈りました。このサタンを退けてほしいと祈りました。けれど、主は沈黙されました。

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