第九節 光の内にて
私はもう、罪悪に囚われることを止めていました。ただ裁きが下されるまで、しんと待っていようと。私は穢れを外に出そうとするのではなく、只管何も考えないようにしていました。
情け深い主でさえも、兄弟子を殺した罪をお咎めにならなかった。神は私を裁いては下さらなかった。兄弟子の死について、神が憤っているとは仰って下さらなかった―――。私は神に断罪してほしかったのです。兄弟子を殺した報いを受けよと言ってほしかったのです。それほどに兄弟子は、神の前に価値のある人間だったと、そう証してほしかったのです。しかし神は、そうはなさらなかった。まるで兄弟子の死は、とるにたらなかったとでも言う様に。
「ラビ、お客さんですが、お会いになりますか?」
だからその時、全く自然に、はいと応えました。訪れる者が何者か分かっていたのです。その者が携えている物を、私は受け取ろうと、そう思っていました。
「昨夜の約束を、守れないかもしれません。」
足音が近づいてくるのが分かりました。その足音が、神の使命を帯びたものであると分かっていたので、私は手を離しました。青年は何も言いません。ドアが開いて、私は自分の身体が強張るのを押さえられませんでした。足音は少し、音を立てずにいましたが、すぐに真っ直ぐに私の下に歩いてきました。
「わたしの声を、覚えていますか。」
「はい。…あの処刑の場で、私は貴方を騙して殺そうとしました。」
その声は、兄弟子の屍の前で立ち尽くしていた私に声をかけた、あの大柄だけども気弱そうな男でした。私が彼の言葉に偽りなく答えると、彼は私に近づきました。剣を携えているのが分かります。眼は開けていません。ですが、私にははっきりとそれが視えていたのです。
「貴方が携えて来たものを、受け取る覚悟は出来ています。どうぞ、それを私にください。」
「………。何か、誤解しているようですね。」
私が問い返す前に、彼は私の頭に手を置き、想像を超えたことを言いました。
「わたしの兄弟、貴方がここへ来る途中に表れて下さった、貴方の主は、貴方が元通り眼が見える様になり、また、主の光に満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」
すると、私の身体の内から、あの街道で浴びた光よりもずっと強い光が溢れました。その光は太陽のように鋭くなく、水のように柔らかく溢れて、私に幻を見せました。しかし残念なことに、今なお私は、その時見た幻について、凡そ表現できる言葉を持ちません。『素晴らしい』と言う言葉も、『とてつもない』という言葉も、その幻を表現するにはふさわしくないのです。『人智を超えたもの』、『筆舌尽くしがたいもの』とも違います。
とにかくその幻を見た私は、今まで穢れを出すために空っぽにしてあった心に水が溢れ、闇だけの昼も夜もわからなかった眼には炎が映り、何より心の内に、主を感じたのです。
私に内在されたのは、『神』ではありません。『主』です。もはや『神』は崇め奉り、畏れ平伏す存在ではありませんでした。心の中と言う何よりも近いところに居られる、共苦の存在です。そして私と言う、伽藍洞を動かし、その真価を知る『あるじ』でありました。『あるじ』は正しく私の主でありながら、隷の苦しみを共に感じる為に、私の心に宿ってくださったのです。
苦しみも、悲しみも、罪悪感でさえ、私にはありませんでした。私の臓腑を締め上げていた頸木は、音もなく崩れ去ったのです。私の臓腑は自由でした。それ故に、主への感謝を叫ばずには居られなかったのです。
その後、いつか踏みつけた裂いたパンを受け取り、ぶどう酒を口にして、活力を取り戻しました。そして私は、主に命じられたことだけを行い、会堂では主が言ったことだけを叫びました。私と共にやって来た男たちの多くは、私の身に起こった業を見て私たちに従いましたが、中にはダマスコの祭司長の所へ行き、これは一体何がどういう訳なのかと言う者もいました。
私はそれまでの私との決別もかねて、アラビアへ一時退くことにしました。青年は、もうすっかり私が元気になったのを見て安心し、言いました。
「時が満ちたとき、わたくしに聖書を教えてください。貴方様に弟子入りするには、まだ早いようです。」
「ええ、約束します。愛する兄弟。また会いましょう。」
こっそりと見送ってくれた彼は、穏やかに微笑んでいました。この時の私は、健康そのものでした。
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