第八節 祈りの内にて

 その次の日、青年は私の塞がれた目の前でパンを裂き、ぶどう酒を空けてくれましたが、どうしても口にすることが出来ません。辛うじて、水と塩を少しだけ口にするだけでしたので、自分でも身体が弱るのを感じました。けれども私は、多くのユダヤ人が生まれてから一度も、穢れた動物の肉を食べないのと同じように、水と塩の他に何も口にするわけには行かなかったのです。私はとにかく、内に溜まってくる穢れた疑いを、流してしまいたかった。その為に、いかなる穢れも清めも体の中に入れるわけには行かなかったのです。それを、弱っていく、と思っていたのでしょう。青年は本当に、私に付きっ切りでした。私も彼に甘えて、手を離しませんでした。手を離したら、私は魚一匹いない死海の中で、浮かんでいなければいけないからです。痣になってしまうだろうかと思いましたが、私はそれでも、手を離しませんでしたし、握っていてもいいかと確認もしませんでした。

 否定されたり、拒絶されたりするのが何より怖かったのです。

 今までの私は、常に是認された存在でした。律法を学び、掟に従い、神への犠牲の血で満ち満ちた私の人生は、孤独でありながらも、是認された人生だったのです。神と言う絶対的な御方が、絶対的な権威が、私の存在を許してくれている。その確証は私が律法を学び、大人になるにつれて強くなりました。

 恥ずかしながら、私は神の前に正しい人でした。五書を学び、律法を尊守し、神殿を崇敬していました。貧しい人や寡婦から搾り取ったりもしませんでした。取税人のような不正も行いませんでしたし、重い皮膚病の人間には目もくれず、月のものなどで穢れた女性には近寄りませんでした。公の場所で女性と話したこともありません。女性を辱めたことはなかったし、そのような暇もなく勉学に打ち込んでいました。テント張りで得た収入の十分の一をきちんと献げて、週二度の断食を欠かしたことはありません。神殿には、どんな罪人よりも近しい者でした。それだというのに―――。

 『何故、私を迫害するのか』。

 私の信仰が一体どこにあったのか、その一言で分からなくなってしまったのです。私の信仰は、神への愛は、そんなことで瓦解してしまうほどに脆く愚かで弱いものだったのでしょうか。そんなはずはありません。私は今も変わらず、こんな状況になっても、神をお慕いし、神に救いを求めているのです。私の神への愛が歪んでいる筈がありません。神もそれを良しとされたから、私はこうなっているのだと、確信しています。

 そうです。私は一度たりとも、神を否定したことなど無かった! 神に楯突いたことなど無かった! 私はいつでも神だけを見て来た。穢れた者、清らかでない者には関わらなかった。私が一体、いつどこで、神を迫害したと言うのでしょう。そのような恐ろしいことが、このような小さい者に出来るはずがありません。

 ―――ええ、そうです。一人ではできません。神と言う偉大な方に護られた人を、一人では迫害することはできません。私のように、神の光によって目を眩ませられ、息吹によって落馬してしまいます。

 けれど、その悪意が渦となり奔流となり、渦潮となればどうでしょうか。神を穢すことは出来ずとも、一人を殺すことくらいは出来ます。その渦潮は、奔流は、渦は、一体どうやって生まれたのでしょう。一匹の大きな災厄の海獣が、泳いで起こすのでしょうか。そうではありません。

 なんということでしょう! その海獣とは私の事だったのです! 兄弟子を殺したのは、律法学者でもユダヤ人でも、ましてやサタンでさえない。この私だった!

 兄弟子が誤っていたか否かではなく、唯一つの真実として、私が兄弟子を殺した。たったそれだけのことに、私は漸く気が付いたのです。その瞬間の私の事を、今も尚、この時でさえ、青年は語ろうとしません。きっとそれほどに、私は取り乱していたのでしょう。ぶどう酒が発酵するように、私の身体はのた打ち回っていたのだと思います。何を叫んでいたのでしょうか。男たちも、語りません。唯漸く開かれた口からは、『まるで悪霊が憑りついているようだった』とだけ。正しくそうだったのでしょう。少なくとも私は、神に弁解を叫ばずには居られなかった。

 そんな筈じゃなかった、そんなつもりじゃなかった。あの時から、今に至るまで兄弟子を愛する気持ちは変わらない。私は兄弟子を殺したくなど無かった! 殺さなければ、サタンから取り戻せないと思ったから、賛成しただけ!

 けれど青年は、私を責めることもなく、唯手を握って、私が静かになるまで、無言で待っていました。それが一体どれほど、私に希望となったことでしょうか。竪琴の名手が紡ぐ詩編よりも、私には最も良い慰めとなりました。

「とし…。」

「はい?」

「年はいくつですか?」

 既に暖かくなった寝床で、私が渇いた唇で囁くように言った言葉を、彼は的確に拾い上げてくれました。私はその頃には、意味のない瞼を閉じることが出来る様になっていました。剣も、抱きかかえていなくても、枕元にあれば問題ありません。

「医者になって、十二年です。」

「お父上も、医者だったのですか?」

「はい。父は、わたくしに学問をさせて、画家などをさせたかったようですが、わたくしは父の跡をどうしても継ぎたかったのです。人から忌み嫌われる職業ですが、わたくしは父を尊敬していましたので、わたくしを通してより多くの人に、父を知ってもらいたかったのです。おかげで、ギリシア人とユダヤ人の両方の治療が出来ます。」

 青年はとても穏やかな口調で、喋り方も丁寧でした。自分でいうのも難ですが、私は気が昂ると口調が荒々しくなりますし、律法の教師有るまじき量の雑言罵詈を知っておりました。それに比べて、社会的地位の劣る彼の、なんと優しい事でしょう。私が弱きに弱い、人の汚泥を垂れ流していても、彼は私の手を離しませんでした。

「唯一治療できないとすれば、重い皮膚病の人たちだけです。あの人たちは、祭司たちが清くなったと言わなければ、或いはもっと権威のある方が来て癒されなければ、わたくしにはどうしようもありませんから。」

「権威のある方が来ると言うのは、預言にある王のことですか。」

「わたくしは律法には詳しくありませんので、よく分かりません。が、大いなる権威を持ち、悪霊憑きと言われた癲癇の子どもを癒した人なら知っています。貴方様は、律法の先生なのですよね。」

「眼が見える様になったら、お礼に教えてあげましょう。」

「では、明日から貴方様はわたくしのお師匠様ですね。さあもう、お休みください。今夜も一晩、傍でお守りしますから。」

「はい、お休みなさい。」

 握られた手から、私はほんの少しだけ力を抜きました。


 私はその夜、また夢を見ました。情け深い主の使いが、私の上に手を置いてくださり、私の眼を開いてくださるのです。幻が消えてしまうその瞬間、主の使いの顔はどのように見えたのか、余りにも朧で、私には分かりません。

 けれどもその主の使いが、兄弟子ととてもよく似た、ともすれば同質の何かを持っていたことだけは、はっきりと覚えています。私は途端に懐かしくなりましたが、そこに兄弟子はいませんでしたので、名前を呼ぶことはできませんでした。主の使いは私を赦し、受け入れてくれました。

 しかし主の使いは、私が兄弟子を殺したことについては、何も仰ってはくださいませんでした。 

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