第七節 暗闇にて

 翌日、私はダマスコを遠くに見つけ、益々馬に鞭を入れようとしました。ところが、私の馬はもとより、他の男の馬たちも疲れ切っていて、思う様に進めず、私は苛々していました。相変わらず私の耳の周りには、切っても切っても虫が湧いて、うるさくて適いません。

「ラビ、そんなにいきりたっておられては、逃げられてしまいます。」

「喧しい! 次に口を開けば、唇を削ぎ落すぞ。この剣は、神に与えられた剣なのだ。地獄に落ちるかもしれないぞ。」

 私がそう怒鳴りつけると、男たちはまた黙って目を反らしました。距離を置こうと思って、私がもう一度鞭を振り上げた、その時です。

 突然辺りが光に包まれ、私は目が眩み、驚いて暴れた馬から落ちてしまいました。何事が起ったのか尋ねようとして、私は立ち上がろうとしましたが、強かに身体を打ったためか、全く動けません。男たちを呼ぼうとしましたが、すぐにそれは無意味だということを悟りました。昨夜夢枕で、鳩になっていた私を抱いていたあの温もりが、私を包んでいるからです。しかしあれはサタンの誘惑であったはずで、私はだからこそ、助けを呼ばず、神の名によってサタンを退けようと意気込んだのです。

 ところが聞こえてきた声は、想像とは全く違うものでした。

「私の隷、最も小さい者よ。なぜ私を迫害するのか。」

 声は、私が普段使っているヘブライ語で話しかけて来ました。しかし私は、この謎々のような言葉が分からず、頭の中が真っ白になりました。まるで光によって、頭の中までも眩んでしまったかのようです。理屈ではありません。私はこの御声の主は神であると、すぐに分かりました。そして私は、私が一番聞きたいことを、勝手に喋っていたのです。

「主よ! 貴方は何方ですか。」

 すると御声は答えてくださいました。

「私は、貴方が迫害しているナザレの大工である。」

 私は混乱しました。ナザレの大工と言えば、兄弟子を誘惑した憎い男です。神はその男とは対極にいる御方です。それなのにこの御声は、自分はナザレの大工だと言うのです。私は訳が分からなくなりました。

「主よ、どうしたら良いでしょうか。」

 それでも私は、御声が神であると確信していました。そしてもしかしたら師の言っていた通り、神の敵になってしまったのではないのか、どのように償えばよいのかと思い、このように尋ねました。ところが、またも御声は不思議なことを仰いました。

「起きて町に入れ。そうすれば成すべきことが知らされる。」

 神は私を裁くことなく、一方的にそう言って、光を隠されました。光を隠された私は、真っ暗で何も分からず、立ち上がるのが精いっぱいでした。

「ラビ、ラビ! お怪我はありませんか。一体なんだったのでしょう、今の光は? かみなりでしょうか。」

「ラビ、わたくしどもはどうすれば良いですか。」

 どうやらあの御声は、私にだけ聞こえていたようです。私は手探りで男たちに捕まり、どうにか立たせてもらいました。今の光で、驚いた馬たちは皆逃げてしまったようで、まだ男たちが混乱している声が聞こえます。

「町に…ダマスコに…連れて行ってください。」

「ダマスコの祭司の家ですか。」

 私はその時、違う、と直感しました。

「違う! 町に入るだけでいい…そうするだけでいい…。」

 私はそう言って、懐に剣が入ったままなのを確認しました。私の眼が眩んでいることに気づき、誰かが良からぬことを考えるかもしれないからです。

 手を引かれて、初めの一歩を踏み出すのは、とても怖い事でした。何故なら、今の光で大地が裂け、目の前に千尋の谷があっても、私には分からないのです。また、今の光で山が泣き出し、激しい水が音もなく流れていても、私には分からないのです。他人に手を引かれて歩くことが、これほどの恐怖を伴うものだなどとは知りませんでした。


 私がダマスコに入ることが出来たのは、日もとっぷりと暮れたころだと言います。私たちは、ある金持ちの家に、招かれました。直線通りに面した家で、私を持成してくれましたが、私はその家で出された物は、パンもぶどう酒も口にしませんでした。恐ろしかったのです。パンには毒麦が使われているかもしれないし、ぶどう酒も、異邦のぶどうで作られたものかもしれません。寝床に行くにも、私は手を引かれなければなりませんでした。その寝床でさえ、私にはそこが屠殺場でないかどうか確かめる術がありません。剣を抱いて、朝までふさがれた目を開いている他ありません。祈ろうにも、私は神に逆らってしまったという恐怖で顔を上げることが出来ませんでした。裁かれる罪を分かっていながら、裁判官の前に踊り出る悪人はいません。私は大きな無花果の葉で身体を隠すことも出来なかったのです。

 一晩明けても私の眼が開かず、私が何も口にしないので、男たちが必死になって、ある人を連れてきました。

「ラビ、ラビ! お喜び下さい、この町一番の医者を連れてきました。ルカニアから来ている、ピシディア出身の青年で、教養も深く、既にたくさんの病人を治しています。」

 正直言うと、私は医者にこの眼が開けると思っていませんでした。なので、初めは渋ったのですが、男たちが代わる代わるその青年の素晴らしさを語るので、私は会ってみることにしました。一晩経っても眼が開かないこと、落馬したことなどを話すと、落馬の下りで若者は驚いていました。

「どうしてすぐに、わたくしに診せてくださらなかったのですか。わたくしはもう四十日も前から、ここにおりましたのに。」

 暗闇の中で聞いた彼の声の輪郭は、とてもはっきりしていました。私の手にそっと触れて、優しく語りかけてきたその声は、鳥の羽のように柔らかく、私の心に一筋の光を齎したのです。

「恐れることはありません。神の御旨(みむね)の前に正しい人は、誰もがその救いに与ることが出来ます。わたくしが、目が開かれるまでお世話をしますから、まずは何か飲んでください。ぶどう酒がだめなら、せめて水と塩だけでも。」

「毒が入っていないかどうか、私には確かめられません。」

「わたくしが、ちゃんと見ています。なんだったら貴方の為に、今井戸から水を汲んで参りますよ。」

 流石にそんな奴隷のようなことはさせられませんでした。いくら彼が医者と言えど、そこまで卑しい仕事はさせられないと、私は慌てて撤回しました。しかしそれでも私が、毒が怖いと言うので、彼は妥協して、なんと召使と共に水を汲みに行ってくれたのです。実に一日半ぶりに口にした水と塩は、私の心に思った以上に大きな安らぎを与えてくれました。私は張りつめていた緊張が一気に解け、暫くルカニアの青年と二人きりにしてほしいと言いました。

「私の眼はどうなってしまったんでしょう。」

「どこも、悪いようには見えません。少し打ち身が酷くて、身体のあちこちが捻挫しているようですが…。わたくしには、これは一時的な―――言ってみれば、神の思し召しのように見受けられます。」

 どきりとして、私は震えだしました。青年の表情は見えませんが、きっと戸惑っているでしょう。青年は私の手と背中を摩り、すぐ隣で、赤子でもあやすかのように言いました。

「何も怯えることはありません。あなたはいつでも神の御前にいるのです。不安なことがあるのなら祈りましょう。わたくしも、あなたの祈りが聞き届けられるように祈ります。」

 その言葉は、私には恐怖以外の何物でもありませんでした。

「主よ、憐れみたまえ。救い主、憐れみたまえ…。」

 宥めるように唱えた言葉は、私を咎める言葉ではなく、私の減刑を望む言葉でした。私は意味も分からず、彼の言葉を繰り返しました。師の言葉を軽んじた過去の自分を心底恨みながら、私は確りと、青年の手を握り、必死になって言葉を繰り返しました。そうしなければ流されてしまうからです。

 兄弟子は何のために殺されたのか。兄弟子は騙されていたのか。

 答えは出ているのに、私は認めたくありませんでした。その時私は、それ以上に苦しまれた御方について何も知りませんでしたので、認めるわけには行かなかったのです。

 認めてしまえば、私の心の扉を叩く裁判官が、分かり切った判決を下してしまうからです。 

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