第七節 夢枕にて

 私は迫害を始めた日、妹の家に帰ることを止めました。ナザレ派の幹部の中に、熱心党出身の者がいると聞いていたからです。彼らは愛国心を隠れ蓑にした反乱者ですから、私は妹や甥を巻き込みたくなかったのです。志を共にする仲間と寝食を共にし、私は記憶の限りの集会所を襲い、男女を問わず縛り、牢に入れました。兄弟子と言う前例がありましたから、大祭司たちは、私達が正しいと思って、どんどん人を寄越してくれましたので、余りに抵抗する者や、尚も証言しようと煩い者、裁判にかかる権利を持たないと明らかな者―――つまり罪人や異邦人やローマの市民権を持たない者などは、殺してしまいました。エルサレムにいた人で、凡そ彼に従う者は、皆死んだか、牢に行ったか、逃げたかしたので、私は再び律法学者を訪ねました。大祭司に掛け合い、逃げた弟子たちを捕まえる為の信任状を手に入れる為です。エルサレムには、もう主だった弟子は一人も残っておらず、ナザレ派そのものへの打撃は小さいと見えました。ここより北、アンティオキア辺りまで行けば、主だった弟子がいるはずですが、そのためにはまず、中頃にある街を押さえようということになりました。私は逃げ切られてしまうと言いましたが、律法学者が言いました。

「だって、きみ! ここからアンティオキアまで一体どれだけの距離があると思う? まずはせめて、ダマスコまで行って、それで落ち着きなさい。いくら神の力がきみに満ちていても、馬が倒れてしまう。」

 律法学者の言うとおりでした。不本意ではありますが、私は取りあえず、ダマスコまで行くことにしました。諸会堂に宛てた手紙を携えて、私は沢山の屈強な男たちを従え、馬を駆りました。一刻でも早く、ナザレ派の最長老の首を落としたかったのです。

 男たちは私が力み勇んで、夜も馬を駆らせようとするので、毎晩眠るよう私を諭しました。しかし、目を閉じればそれだけ、ありありと兄弟子の無残な屍を思い出すのです。眠るには余りに惨憺たる禍々しい姿でした。荒野には私の怒りの剣を受ける獣は一匹も居らず、私は剣を岩に突きたて、呪いの言葉を呟き続けました。そして時には、サタンに惑わされた兄弟子を想って泣きました。男たちは皆、私が鬼気迫る様子で剣を振り回しているのを知っていたようで、昼間、私が馬にどんなに鞭を入れても何も言うことはありませんでした。

 彼等もまた、唯見ていただけだったのです。そして私も、彼等に力を借りようとはしませんでした。私にとって、派閥の違う男からの借り物である彼らは、所詮借り物でしかなく、あの律法学者の言葉を借りるならば、『ナザレ派を潰すための駒』などとは、必要最低限の接触でいたかったのです。

「ラビ、剣を研がせてください。刃毀れしてしまっています。」

 ある夜、余りにも私がうるさかったのか、男の一人が私にそう言いました。私の憤りの全てを受け止めた剣は、実際ボロボロで、誰かの耳を削ぐことさえ出来そうにありません。が、その時私は、非常に虫の居所が悪く、癇癪を起して、男に生身の剣を投げつけました。

「この数日、碌に眠らず馬を駆っておられます。ダマスコの街に入る前に、倒れてしまいますよ。」

「うるさい! うるさいんだ、とにかく! 祈るにも、眠るにも、何もかもがうるさいんだッ!」

 朝な夕な、私の周りには常に羽虫が飛んでいるようでした。それを振り払うには、私の持っている剣はあまりにも小ぶりで、太刀筋も頼りないのです。じっとしていられず、早くダマスコに行き、兄弟子の仇を討ちたい気持ちでいっぱいでした。

 ―――兄弟子を殺したのは、私だったのだと、お笑いになりますか。ですがあの時の私にとって、兄弟子はどこまでも被害者でしたし、私もまた、兄弟子と言う愛する人を奪われ、師の下を去らざるを得なくなった被害者だったのです。憎むべきは、顔も見たことのないナザレの大工と、その道に従う者達であって、兄弟子は彼らに誑かされたと思っていたのです。兄弟子が自分の意志で律法と神殿を捨てるはずがない、そう思っていました。

 あの時、私の身体を満たしていたのは、本当に神の力だったのでしょうか。私の心に、愛はあったのでしょうか。今でも分かりません。おそらく、私の弟子も、そのまた弟子にも、分からないでしょう。私の怒りは一体なんだったのでしょうか。兄弟子を奪われ、独占欲を傷つけられたものによるものだったのか。それとも兄弟子の信仰や生き方を否定した、ナザレ派の教えへのものだったのか。そしてその怒りの中に、ほんのカラシダネほどの、神の義が犯されたことに対する怒りがあったのか―――。

 いつの間にか喚き疲れて、私は久しぶりに深い眠りにつき、夢を見ました。不思議な夢でしたので、その後誰にも、この夢の話はしませんでした。


 私は鳩でした。首から銀貨を下げた、一羽の白い鳩でした。鳩は、じっと十数人の男達を見守っています。彼等は委縮し、小さくなり、おどおどとしていて、頻りに爪を噛んだり、歩き回ったりしながら、緊張を和らげているようでした。どうやら彼らは隠れているようです。私の主人らしい人が、権威を持って命じると、彼等の頭上に、不思議な炎が灯り、彼等は素晴らしい光をいただいて、今までの青白い顔が嘘のようになって、外へ飛び出していきました。それを白い鳩の私は、ぽつんと見ていますが、私の身体を、私の主人が優しく抱いて、羽根を撫でてくれているので、私は羽のように笑いました。

 炎を受けた男たちが、人々に向かって何か演説をして回っている間、裏方でせっせと働く別の男がいました。男は食事の配分や、席順、いざこざを諌めたり、不満や悩みを聞いてやったりして、炎の男たちが演説に集中できるように働いていました。それなりに敬われている筈の男の服装は、ごく普通の庶民のもので、特に権威がある男とは思えません。しかし、彼もまた、私の主人から不思議な炎が与えられて、彼はその炎に包まれて、活力を得ているようでした。

 やがて、彼もまた会堂で演説を始めました。そして時には、背中に背負った炎を他の人に分けたり、漁火のように燃える炎をより一層燃え上がらせ、人と喋ったりしていました。いいえ、喋っているのではありません。あれは討論です。討論している時の彼は、激しい炎に包まれていながら、実に涼しい顔をしています。一方相手の方は、次第に口が開かなくなっていき、終には黙り、真っ赤になって罵声を浴びせて帰ってしまいました。

 私は主人に、彼への使いを頼まれました。私の嘴に、茨で編んだ冠を咥えさせたのです。茨の棘が私の舌に刺さり、茨は赤く染まりました。しかし、行って来いと言うので、私はそれに従い、彼の下に舞い降りました。

 遠くからでも、一際恵み豊かに燃え盛るその人は、すぐに見つけることが出来ました。彼は大層驚きましたが、私の嘴から赤く染まった茨の冠を受け取ると、鳩の姿であるはずの私にこう言いました。

「恵み溢れる方、この先貴方を、誰もが罪人の頭と呼ぶのでしょうが、正に貴方は救世主の十字架に近い方。貴方の光を受けることが出来て光栄です。」

 そして冠を頭に被り、天に向かってこう言ったのです。

「主よ、私の霊をお受け取りください。」

 兄弟子の祈る姿に、私は思わず毛を逆立てました。

「|退≪しりぞ≫け!」

 穏やかにそう微笑んだ彼に、私はそう叫びました。彼の炎に照らされていたはずの辺りはいつの間にか真っ暗で、弾ける焚火と、跳ね起きた何人かの男が、こちらを不思議そうに見ていました。

「ラビ、どうしましたか、悪い夢でも見られましたか。」

「ラビ?」

「…寝ぼけておられるのですか? 明日にはダマスコに着きますから、良く休んでください。」

「ああ…、そうか。そうだった…。」

 私は深い溜息をつきました。サタンに誘惑されていたようです。人が神の炎に包まれる訳がない。それはサタンの齎す自惚れです。私は今度こそ誘惑されないように、聖書を頭の中で反芻し、眠りにつきました。

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