第六節 神の御前にて

 出来ることなら、私はまた、兄弟子と話がしたいと思っていました。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、それは事実です。私はこの期に及んでも、兄弟子の救いを望んでいました。私は兄弟子を愛していたのです。それなのに私は、彼を殺す計画を持ち出しました。それは事実ですから否定しませんが、それでも、私は兄弟子を愛していて、それが故に、彼を殺してでも、サタンの下から取り戻したかったのです。後になればなるほど、理解できない位に、私は切羽詰り、剣を握りしめていました。苦しみを断ち切りたかったのかもしれません。兄弟子の愛した信仰と、広めている教えは、全く対立するもので、私はそのどちらにも興味はありませんでした。ただ兄弟子が、私の名を呼んでくれて、私と話をして、共に師の教えを学んで―――今は昔となったあの日々の繰り返し、それだけで良かったのに、神は私に、剣をお与えになったのです。

「訴えの通り、間違いないか。」

 大祭司が兄弟子に確認すると、兄弟子は手と口を広げました。

「兄弟であり、父である皆さん、聞いてください。」

 その時、兄弟子は不自然に振り向き―――私を見ました。確かに兄弟子はその時、私を見たのです。その眼は、今までのどんな眼よりも恐ろしいものでした。私はこの時、その眼を『恐ろしい』と表現しましたが、実際は、もっと別種の、全く新しい眼差しで、他に適切な表現が思い浮かばなかったのです。逃げ出したくなるような恐ろしさではありません。凍り付くような、動けなくなるような、そんな『もの』でした。頭の中の物思いを吹き飛ばされたようになり、兄弟子の説教など聞いている余裕はありませんでした。ただ、兄弟子の熱意、人々の殺意、大祭司の怒りは、はっきりと伝わってくるのです。兄弟子の言葉は、何か見えない力で覆い隠されているかのように私には届きませんでした。

 そして兄弟子は、趣旨の分からない長い説教を終え、また私を見たのです。すると私の身体から、沢山の感情が溢れて来ました。まるで兄弟子の眼には、魔力があるかのようでした。兄弟子のその時の眼は、『ゆるし』でした。それは、私が再び感情を持つことへの許しだったのか、それともこれから私が行おうとすることを予見しての赦しだったのか、今でも分かりませんが、きっと、両方だったのでしょう。

 そして兄弟子は、自ら死刑宣告を行いました。

「貴方方はいつも、神に逆らっています。貴方方の先祖が逆らったように、貴方方もそうしているのです。一体、貴方方の先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、『正しい方』が来られることを預言した人々を、殺しました。そして今や、貴方方が『その方』を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

 ―――貴方方は、わたしの広めている教えを否定し、嘗(かつ)て預言者を殺した人々と同類に成り下がったのです!

 兄弟子はそう言いたかったのでしょう。そしてその場にいる誰もが、そのように受け止めました。人々の怒りは言い表しようもありません。なぜなら、そこにいる人々は皆、自分は神の御前に出て恥ずかしくない、罪のない人々だと思っていたのですから。

 兄弟子はふと、空を見上げました。相変わらず、空は曇っています。しかし、兄弟子は空を指差し、こう言いました。

「天が開き、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。ああ、鳩が一羽…。…―――。」

 ああ、私の愛する人、一体どうして、そこまで堕ちてしまわれたのか!

誰かが殺せと言いました。誰かが死刑だと言いました。誰かがサタンだと言いました。誰かが都の外へと言いました。誰かが石を取れと言いました。誰かが私に、脱いだ上着を渡しました。下半身を埋める必要もなく、人々は兄弟子に石を投げ始めました。人々はただ、殺すことしか頭になかったし、捕らえようとする必要がないほどに、彼を殺そうとする人々は大勢いたのです。空は相変わらず真っ暗で、今にも雨が降り出しそうでした。

 その時、私は一体何をしていたのでしょうか。思い出せません。ただ、人混みの向こうで、大小問わず石を投げられ、血を流し、衣を裂かれ、罵声を浴びる兄弟子を見ていました。私は、石ではなく剣を握っていました。

 初め、兄弟子は顔を手で覆っていました。辱めに耐える様に、顔を覆っていたのです。けれど指が潰れ、爪が割れ、腕が折れ、肩を打たれ、徐々に頭を覆っていることが出来なくなりました。素顔を晒した兄弟子は痛みに呻いていましたが、嘆いてはいませんでした。それは贔屓目に見たからとか、私が罪悪感の故にとか、そういうことではありません。兄弟子は苦しんではいましたが、嘆いてはいませんでした。

 私がただ、見ていただけのように、兄弟子はただ、苦しんでいたのです。

 鼻が潰れ、唇が切られ、徐々に顔の骨が折れて、輪郭は失われて行きました。先に傷ついた腕や指は、鬱血して腫れ上がり、砂は血を吸い込みきれず、既に血溜まりになっていました。人の身体とはこうも醜くなれるのだと、兄弟子の身体は皮膚、筋肉、脂肪と―――医者などではない私には詳しくは分かりませんが、とにかくそう言ったものが、ところどころ、混ざり合って、落ちて行き、骨が露にされていきます。兄弟子はまだ生きていました。きっと声も出せない位に弱っているのに、気丈にもまだ立っていました。

 神の敵を辱め、処刑している興奮で、何人かの異常な男たちは、既にこれが神の反逆者への処刑であることを忘れて、異常な物思いに耽ったり、奇声を上げたりしていました。兄弟子が悲鳴を堪え切れずに、僅かに口を開いたその瞬間、大きな岩が飛んで行って、兄弟子の前歯を叩き折りました。要領を得始めた人々は、自分の狙った場所に石を当てていきます。それは頭だったり、顔だったり、腹だったりしました。腹に当てる意味はないのですが、もう目的を見失い、我欲に走った者は、そうやって悪戯に兄弟子を甚振るのです。兄弟子はもう限界だと思ったのか、外れた肩と折れた腕を掲げ、何かぶつぶつと呟いていました。私にはそれが聞き取れませんでした。人々の叫び声はそんな小さなものではなかったのです。顎を砕かれ、眼球を潰され、血の涙を流し、兄弟子はついに膝を折りました。跪いているようにも見えました。そしてもう何も見えないだろうに、私の方に顔だけ向けて、まるで遺言のように叫んだのです。

 しかしそれも、私には聞こえませんでした。自分の手で、耳を塞いでいたのです。兄弟子の最期の言葉を、私は聞くことが出来ませんでした。

 大きな石が兄弟子の胸に当たり、兄弟子は今度こそ地面に突っ伏しました。そして血の混じった咳をしました。最後まで頑なで、命乞いをしない兄弟子を笑い、人々は更に、更に激しく石を投げました。もう兄弟子は倒れているので、投げると言うよりも、落とすと言った方がいいかもしれません。息をすることが出来ない位に弱り切った兄弟子に、止めを刺そうとする者はなかなか現れませんでした。皆楽しんでいました。神の敵を屠ることを楽しんでいました。

 私でさえ、一歩も動けなかったのです。私は何もしませんでした。剣を持っているだけで、何もしませんでした。

 石も投げませんでした。止めも刺しませんでした。祈りも奉げませんでした。涙も見せませんでした。

 私は、本当に何もしなかったのです。


 民衆がその場を離れたのは、雨が降り出し、罪人の血が自分の足についてしまうと気づいてからでした。蜘蛛の子を散らすように、人々は穢れた血を避けて、足の埃を落とし、私から上着を受け取って、離れていきました。

 兄弟子の身体は酷いもので、頭はどちらが顔なのか分からない位に潰され、指や耳などの細かい部分は全て欠損し、僅かに残った肌は全て紫色に変色し、骨が突きだし、腸が出て、服以外で兄弟子を見分ける方法はありませんでした。

 私はその時に思ったのです。兄弟子はやはり、間違っていたのだと。本当に正しい人であれば、過去の偉大な人や、義人の召使のように、苦しまずに天に上げられる筈であると。こんな死に方は、サタンが好むような残酷な死に方です。もし何も知らない人がこの姿の兄弟子を見たら、誰もが、嘗て神を深く信仰していた男の成れの果てだとは思わないでしょう。強盗や不貞、若しくは獣と交わった鬼畜の末路だろうと。権力を奪われた王でさえ、このような無残な死は遂げません。

 こうすることでしか、兄弟子を救うことは出来なかった。更に人を惑わせ、更なる罪を重ねる前に、殺すしかなかった。私は自分の足元に、雨によって質量の増した血が流れてくるのも気にせず、立ち尽くしていました。

「あの。」

 振り向くと、そこには私よりも少し大柄な、けれども気弱そうな男が、亜麻布を抱きしめて立っていました。何人かの女たちは、もう目も当てられない位に成り果てた兄弟子の事で悲しんでいました。

「なぜ貴方はここに立っているのですか。もしかして、彼の教えを聞いていた人ですか。」

「………。ええ、そうです。」

 嘘ではありません。私は兄弟子が人々に不思議な業や知恵を示している間、ずっと尾け回していたのですから。

「彼を葬りたいのですが、女たちはこの有様で、とてもじゃありませんが手伝えません。どうか貴方も手伝ってくださいませんか。」

 その時、私は閃きました。私は彼に歩み寄り、涙を隠すような素振りをして言いました。

「私は足が弱く、とてもこの方を運べません。しかしこの足でも、同志を呼んでくることはできます。少しここで待っていてくれますか、腕節のいい男たちを連れてきます。」

「それは心強い。では待っています。」

 私は急いでその場を離れ、律法学者の家に行きました。私が血相を変えて飛び込んできたので、他の使用人たちはまたも驚いていましたが、律法学者は穏やかでした。

「どうしたんだい? まさか君も、首を括る縄を探しに来たのかな。」

「確かに縄は探している。兄弟子に付き従っていた者達が、彼の遺体の前にいる。今奴らは、私が手伝いを呼びに行っていると思って待っている。奴らを縛る縄が必要だ!」

「…ははは! 愉快な男だね、きみは本当に! いいよいいよ、使いたまえ! ぼくの持っている全てを、きみに預けよう。男達も馬も棒も剣も、きみの思うとおりにしなさい。ナザレの大工に従う者は、一人残らず殺すがいい!」

 その日私は、愛する兄弟子を堕落させたナザレ派を迫害する者となりました。手始めに捕まえようとした男と女には逃げられてしまいましたが、私は八方に手を尽くして、獄の中へたたき込んだのです。 

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