第五節 裁きの場にて
私たちは律法の専門家であり、ユダヤの代表的指導者です。知識のない民衆、知識の曖昧な民衆を煽ることは造作もありません。私の友人も、そうやって数年前に、ナザレ派の開祖を葬り、彼の高弟の一人を死に追いやりました。私たちはローマの支配下にありましたから、裁判をしたり、誰かを処刑したりするには総督の許可が必要です。そして総督は、自分の任期の間、自分の収めている地域の人々が反乱を起こすことが何より怖いと、私たちは重々承知していました。そんなことをすれば、いくら辺境の地の総督とはいえ、社会的地位を奪われてしまうからです。だから、誰かを裁判にかけたり、陰謀を謀ったりするには、民衆を暴動寸前まで煽り、総督に直談判させるのです。いつでも大衆の力というものを権力者は恐れます。私は三大ラビの中でも右翼的思想で有名な方についた、私の知人の律法学者を訪ねました。彼こそ、ナザレ派の高弟を死に追いやった一人です。噂では彼が直接、その高弟を誘惑したのだとも聞いています。
「誘惑しただなんて。ぼくは、彼に提案しただけだよ? まさか穢れた銀貨を持って返しに来て、自棄を起こして首を吊るなんて思ってもいなかったね! きみほど頭が良くっても、そこまで計算できないんじゃないか?」
「お前を責めるつもりはない。お前は全く、正しかったんだから。」
「それに今、ぼくたちを誘惑しているのは、きみのその舌だ。何ぞナザレ派の事で話があるというから、かの『ラバン』の所を逃げ出してきたのかと思ったくらいだよ。きみ、まるで悪霊みたいな顔!」
くくくっと笑う彼を見て、私は声を荒げました。
「こんな時に! お前のようにヘラヘラと笑っていられるか! 神への冒涜が、賛美だと、民衆が信じている、こんな時に!」
私は酷く興奮して机を何度も叩きました。杯は引っくり返り、皿は床に落ちてしまい、彼も両脇を上げて驚きました。こちらの様子を伺っている人々が、ビクッと隠れるのが分かりましたが、そちらに怒鳴っている余裕もありません。私は如何に、兄弟子が堕落し、人々にとって害なすものであるか熱弁を振るいました。
「兄弟子は変わってしまった。嘗てのように律法を尊守し、神殿を敬い、夜毎祈りに生きていた兄弟子ではない。あの人は最早神への反逆者、サタンだ。サタンに取り込まれ民衆を扇動している! サタンの仲間はサタンだ! あの教えはサタンから来たものだ。現にその教えを始めた男は十字架で死んだ。自分は神の子だと言いながら、自分は人を救うと言いながら、自分自身を救わず、死んだのだ。私たちが殺したんだ! そして弟子共は魔術を使って墓石を退かし、遺体を盗み、ぬけぬけと復活だの何だのと訳のわからないことを吹聴してまわり、無学な我らの兄弟を誘惑して堕落させている! だからお前も、あの教えが如何に、この無知な民衆にとって有害なものはわかっている筈だ。そうでなければ今お前は、長い衣を着て家で食事をとれる筈がない! 恐ろしさのあまり、生贄を奉げ続けて神殿から出て来られない筈だ。そうだろう? あの男が罪人で悪霊憑きでなければ一体なんだったと言うんだ、私達は、霊的にも政治的にも私刑を行ったばかりか、ともすれば神の声を伝える預言者を、再び殺したことになる。そんな恐ろしいことをしておきながら、平然としていられるわけがない、そうだろう!」
「きみ、ちょっと落ち着きたまえよ、そんな真っ赤な顔をして。」
「私は冷静だ! 理論的に物事を喋っている。もしそうでないならお前が平和呆けしている!」
「ほら、とにかく座りなさいよ。」
「あの男を殺した以上、あの男の教えが滅びなければ、私たちが罪人だと、民衆に裁かれるんだ!」
一際大きく机を叩き、私は激しく息をつきました。しんとした沈黙が少しの間流れ、やがて彼は、くくくっと笑い始めました。
「くくくく…あそこの、ラバンの連中は、皆腑抜けばかりだと思っていたけれど…、くくく、やっぱりきみはなかなか面白い。良いだろう、大祭司に掛け合ってみよう。ここまで言ったのだから、きみはあの男が復活したなどと言っている連中を、殺す覚悟位出来ているのだろう?」
「もちろん。兄弟子を殺すための剣も持っている。」
私はギラリと懐から剣を見せました。家にあったものですが、これは確かに、あの夢の中で、神から与えられた剣です。
「それでいい。ふふふ…きみとその男の事は聞いているよ。随分と可愛がってもらったんだってね。他の誰かに殺されるくらいなら…って?」
「………お前。」
「無理に聞こうとは思わないよ。仮にここできみを罪人に定めても、ぼくたちはナザレ派を潰すための駒を失うだけだから。…それにきみは博学だから、これから先も、ぼくたちと共に民衆を導ける。有能な男をサタンに引き渡してしまうのは惜しいからね。」
他の誰かに殺されるくらいなら、私を愛してくれた兄弟子を、この私の手で。貴方はサタンに取り込まれてしまったけれども、それでも私は貴方を愛していたと、それを伝えるために。
そう思ったのは確かです。罪に穢れた兄弟子の身体から、呪われた血が全て注ぎだされた時、その躯を抱きしめるのは私で良いと、そう思っていました。
こうして、私が教会から兄弟子を奪うための準備は、着々と進んでいきました。
その日、空は今にも降り出しそうな曇天でした。その日も私は、兄弟子を尾けていました。兄弟子は、この日ばかりは私に話しかけず、惜しむ様に人々に自分の教えを広めていました。兄弟子の様子はいつもと変わりありませんが、自分が殺されるかもしれないということに気づいていない筈がありません。聡明な兄弟子の眼は、曇っていたのでしょうか。
私と律法学者たちは、万全を喫して、兄弟子に挑みました。私も、同じキリキア州出身の者をかき集めたりして手伝いました。しかし兄弟子は何かに乗っ取られたかのように、私達の用意したキレネ、アレキサンドリア、キリキア、アジアの人々を論破していきました。最後の一人が押し黙ってしまって、やはり、私は知恵において兄弟子を凌ぐことは出来ない、サタンの側から連れ戻せないのだ、と歯軋りしていると、件の律法学者が私にそっと言いました。
「こうなったら仕方がない。彼には宗教的にも死んで頂こう。ぼくは、民衆と長老を取り込んでくるから、きみはラバンの家に行って、同門の弟子たちを呼んでおいで。こう言うのさ、『あの男が、ぼくらの祖先の解放者と、神とを冒涜する言葉を吐いた』とね。」
私は言われたようにしました。師の家で、その時ばかりはいつも私に無関心な弟子たちも、根本は皆、神への信仰の故に学びに来ているのですから、神を冒涜する兄弟子を放っておく訳にはいきません。ましてや、皆兄弟子を好いていましたから。弟子たちは棒や剣を持って、我先にと外に飛び出していきました。
ところが、たった一人、静観なさっている方がいました。師です。
「先生も、早く来てください。」
「…私は公の場で、彼らについては慎重にと言ったはずだが。」
「ええ、そうです。しかし神を愚弄する者が、律法学者から、ましてや先生の下から出るようなことがあってはなりません!」
「神を怒らせるのかもしれないのだよ。」
「神の怒りは、私達ではなく兄弟子に向いています。丁度一週間前の事でした。私は夢枕で、蝮と獣のいる荒野に佇んでいるところを、神の剣に助けられました。神の剣は私に与えられたのです。そして荒野に棲む獣を、サタンを滅ぼせとご命令なさったのです。」
「…お前は、そんなことは一度も言わなかった!」
師は大変驚いていました。それはそうでしょう、私自身、今初めて言ったのです。
「私はその次の日から、あらゆる手を使い、兄弟子をサタンから連れ戻す努力をしました。皆快く引き受けてくれました。その間、私を阻むものは、全て神が取り除かれました。それでもお疑いになるのですか。」
「………。」
師は深く、深く、考え込みましたが、それでも結局、首を縦には振りませんでした。
「私は、神の敵に定められるくらいなら、温いものでありたい。」
「…わかりました、もう行きます。ありがとうございました。」
私は、もう師の下には戻らないつもりでした。師を尊敬しているからこそ、このまま私がここにいれば、師の信仰の妨げになると理解したからです。
兄弟子は捕らえられました。そして最高法院で偽証人によって、やりすぎとも思えるくらいの罪を並べらたてられました。私は民衆の中から兄弟子を見ていましたが、兄弟子の顔つきは、明らかに今までのそれとは違っていました。その時は、その表情に恐ろしささえ感じ、懐の剣を握りしめました。
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