第四節 荒野にて
先に言ったとおり、私の師は穏健派でした。全ての混乱や改革が、神から来るものであれば栄え、神への反逆者、つまりサタンからくるものであれば滅びると悟っておられたので、世の動静にも私たちは無関心でした。しかし、近頃総督が罷免されて、ユダヤ人たちが反乱を起こしてしまい、唯でさえ、ナザレ派という、私達を罵る新興団体が世を掻き乱しているというのに、社会はますます混乱していきました。その上そのナザレ派は、最近ますます訳の分からないことを言って人々を惑わしており、私達の門からも既に何人かの弟子が奪い取られていました。
既に兄弟子が去って数年が経過したにも関わらず、私は日々の物足りなさから、ますます不愛想になったと思います。『あいつは片思いしていた男を掻っ攫われて腑抜けになっちまったんだ』と陰口を叩かれても、私は何も言い返さなかったくらいです。自分でいうのもなんですが、短気な私が、兄弟子を侮辱されても、怒る気がしませんでした。否、正確に表現すると、私は弟子たちの言っている意味が分からなかったので、『片思いしていた』とか『男』とか『掻っ攫われて』とか、それの意味することが分からず、点と点が繋がらなかったのでした。とかく私をこき下ろしたい他の弟子たちは、全くつまらなかったようで、徐々に私に興味を失っていき、終には、私は初めからいない者と同じようになっていました。
彩のない私の世界には、ただ涼とした風が吹き荒び、私から上着を剥ぎ取りました。砂の詰まった石板に書かれた文字はもう読めず、雨と風に晒された書物は腐りました。師は私を励ましてくれましたし、叱りもしましたが、全て風の唸りに交じり、何も聞こえなかったのでした。
荒野に棲む獣にも随分詳しくなりました。蛇の血を呑もうとしたこともありました。私はその蛇の血が、知恵の実のように甘露であると知っていたからです。しかし臆病者だった私は、蛇に踵を噛まれるのが怖くて、結局蛇がちらりちらりと舌を出すのを見つめているだけでした。
私は今、青い緑の生える水辺にいるので、もう荒野の事は思い出せませんが、私がついに、その蛇の血を呑んだ時のことは覚えています。私は多分、あの時真に、人間になったのです。凡そ、人祖から生まれた者の中で、人祖以上に人間らしかったのではないでしょうか。私は荒野で、光る権威を持った天の使いを見たのです。
その使いは、お仕えしている王の名によって、人々を導いていました。脚の萎えた者は牡鹿のように駆け回り、耳の塞がれた者は己が声で賛美を奉げ、目の見えない者は神の光を見、罪に穢れた者でさえも、清く新しく生まれ変わらせていたのです。血の罪に穢れたサマリア人に救いを述べ伝え、選ばれた神の民に悔い改めを勧めていました。その使いはそれでいて腰が低く、決して王座を狙おうとしていませんでした。
天の使いは、エルサレムにいました。在ろうことか、私はその使いを知っていたのです。なんということでしょう、一体どれほど私が絶望した事か! 後にも先にも、この絶望は誰にも理解し得ません。事もあろうに、事もあろうに、こんな事が起こり得てしまうだなんて!
どうして、どうして、どうして! 裏切り者、反逆者! サタンの隷! ああ、なんということか!
―――もう、お気づきでしょう。天の使いとは兄弟子でした。兄弟子は私達から離れたばかりか、私達を憐れんでいたのです。神に誰よりも近い私達よりも高い場所から。兄弟子は誇り高い祖先の血を捨てたサマリア人や、神から選ばれなかった異邦人共と食卓を囲み、私達を名指しして、訳の分からない事を喋り散らかしていたのです。この上ない屈辱でした。兄弟子は三大ラビの誰にも師事していない、無名のナザレ派なぞに帰依し、剰え私達を見下していたのです。そして兄弟子は、私が荒野で蛇の血を呑んだことを知っていて、しかもそれを公衆の面前で暴露したのです! 人々は名前も顔も知らない私に向かって、頭を振り馬鹿にしました。兄弟子は、人々がこのような侮辱をするだろうと言うことを分かっていながら、私の秘め事を暴露したのです。それは明らかに、私への敵意から来るものに違いありません!
以前の兄弟子ならこのようなことはしませんでした。事実、兄弟子がここを離れる前に、他の弟子たちがふしだらな陰口を叩いていた時も、私の繊細な行動の意味をくみ取り、それを立ててくれた人です。兄弟子は、それくらいは器用にこなす人でした。他人の面子や自尊心というものをよく理解していて、それを軽んじたりしない、高潔な人でした。兄弟子は堕落したのです。私の知らないところで、知らない男の教えに靡き、知らない人になってしまいました。私には、酷い衝撃でした。あのような素晴らしい人の人格を変えた、ナザレ派が憎いと思いましたし、同時に兄弟子のように賢い人をも堕落させうるナザレ派は、我々ユダヤ人の為にならない、今ここで我々が正さなければ、神の怒りを買うと、何度も師に訴えました。
しかし、師はその事ばかりは何も答えてくれませんでした。公の場でも、放っておきなさい、と仰り、個人的には肯定も否定もなさらず、静観も干渉もなさりませんでした。師は、一切の責任を、私に負わせました。
私は何とか兄弟子の眼を覚まさせようとして、虎視眈々とその様子を観察していました。その時、毎度毎度、兄弟子は言霊一つで不思議を行ってしまうのですが、それ以上に恐ろしいことをしました。
「きみ、道を開けてあげなさい。」
兄弟子がそう言うと、私が隠れていた、目の前の大柄な男が、兄弟子の言うとおりに退きました。どうやら彼は遠くからも兄弟子が見えるようです。私は外套で顔を隠していましたが、兄弟子は私に向かって、こういったのです。
「そこにいる一番小さい方、此方に来なさい。わたしは、君を待っていた。今宵、君も共に食卓に招きたい。」
それはつまり、兄弟子を慕う他の罪人たちと同じように、食卓を囲むと言うことでした。この上ない侮辱に、私は顔が真っ赤になりました。同時に恐ろしくなって、その場から走り去りました。確かに私は胴長短足で、体もずんぐりむっくりしていますが、それよりも兄弟子が私に対して、『一番小さい方』と呼びかけたことが恐ろしかったのです。それは、私の名前だったからです。兄弟子は、そこに私がいることを分かっていたのです。そしてそれは、一度や二度ではありませんでした。たとえ人混みに紛れていても、後ろに回っても、木の上に隠れても、どこにいても兄弟子は、『そこにいる一番小さい方』と言うのです。兄弟子は、サタンにいかさまを手伝わせているに違いありませんでした。そうでなければ、兄弟子は背中や頭に目がついているに違いないのです。何れにせよ、兄弟子には人外の力が働いていることは明らかでした。
「なあ、あの助祭様は、今にいなくなると、そう思わないか?」
民衆の一人がそんな話をしているのを、私は偶然にも聞いてしまいました。私は逃げていた足を止め、思わず彼らの後についていきました。
「お前もそう思う? ナザレ派の最長老よりも、今や勢い付いているものね!」
「一体いつまで、処刑された男に拘っているんだろう。あそこまで達観したお方なら、もう自分の教団を作ってしまった方がいいに決まっている。」
「赤い冠の噂、知っている?」
「おお、知っているぞ。だから俺も、危ないなあと…。」
そこまで聞いて、私はもう居ても立ってもいられず話しかけました。どちらに転んでも、このままでは兄弟子は罪人になってしまいます。
「なんだお前。赤い冠の噂、知らないのか?」
「はい、知らないのです。一体どういう訳なのですか。」
「あの助祭様は、ナザレ派の幹部の一人なんだそうだけど、つい最近、預言をなさったんだ。『わたしは主に、赤い冠を与えられ、わたしはそれを受け取った』と…。意味は分からないが、もうすぐ召し上げられるんだろうな、旧約の召使のように。」
「おれ、あの助祭様のこと、気に入ってるんだけどなあ…。」
「分かりやすくっていいよな。パリサイ人と違って!」
「なあ、アンタもそう思うだろ?」
私は絶句してしまいました。兄弟子のあまりにも知らない部分が多すぎることにも、そのような幻を見てしまったことにも、何もかもすべてが、兄弟子がサタンや蛇に絞め殺されていくような、そんな気がしたのです。私は彼らに答えることもできませんでした。私は唯、家に帰って泣きました。そして夢を見ました。
そこは荒涼とした土地で、正しく私の心の風景でした。蝮や獣がそこら中から私を狙い、空では禿鷹が私の上を旋回しています。太陽はなく、しかし夜でもありません。夜のような暗い雲の下にいるのです。私は怖くなって、そこから逃げ出そうとしましたが、どこへ逃げればいいのかわかりません。前も、後ろも、右も、左も、本当に何もないのです。古木の影すらありません。そして地平線は濁っていて、曖昧でした。私は両手を掲げて神に祈りました。
「神よ、何故私を試すようなことをなさるのですか。私が、このような場所で貴方を罵ると思っておられたのですか。隷はいつも変わらず、貴方の声を待っています。」
私はその言葉で、この場に神が御姿を現して下さると確信していました。しかし、私が聞いたのは、神の荘厳な御声ではなく、獣の咆哮だったのです。まるで私を拷問にかけようとするかのように、獣は鋭い爪と牙で襲いかかってきました。思わず私が頭を抱えてしゃがみこむと、すぐ真上で、骨の砕ける音がしました。そして、私の頭に、何か滴って来たのです。それは、獣の涎と血でした。神の剣が、獣の胸を貫いていたのです。私はその剣を獣から引き抜きました。獣の血に濡れた剣は、暗雲を掃い、光り輝く天の黄金の光を受けて、輝きました。
「神よ! 賛美いたします。この剣で持って、私は貴方の為に戦います。」
それが神の御旨なのだと、私は信じて疑いませんでした。
兄弟子は変わりました。もう私の知っている兄弟子ではなかったのです。サタンと取引した裏切り者でした。神への反逆者でした。それならば私は、師の教えを受けた者として、高潔なる神の子の子孫として、やらなければならないことがありました。嘗て神に成り代わろうとした男を、ケルビムが追い出したように、私は思い上がった兄弟子を、神の約束の内から追い出さなければなりません。
私は決意したのです。兄弟子を殺すよう、民衆を扇動することを。
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