第三節 オリーヴ山にて
その頃、私は以前のように、兄弟子にずっと纏わりついていることが出来なくなりました。というのも、余りにも私が兄弟子を慕うので、他の弟子たちは妬み、私が兄弟子に対して、ふしだらな考えを持っていると噂していたのです。兄弟子は公然と否定してくれましたし、師も何も気にしていないようでしたが、私はどんな理由であれ、敬愛する兄弟子や師が侮辱されるのが嫌だったので、わざと距離を置きました。傷心を癒やしているのだろうと、兄弟子も私の考えを理解してくれていたのか、よく外へ出かける様になりました。私の意思を尊重してくれたのは嬉しいのですが、それでもやはり、寂しさは拭いきれません。私は振り切るように、益々勉学に打ち込みました。それなのに、他の弟子たちは一層煩わしくてたまりません。師が、外へ出て隣人を探して来なさいと言いましたので、私自身も、外へ出かける様になりました。
しかし街には、私と昼食を共にできる様な人は、やはりいませんでした。街にいたのは、罪に穢れた人や、病人や、取税人ばかりだったのです。私の隣人となれそうな人は、ごく限られていました。
「…ありがとうございました。」
その日も、一人で私は弁当を広げる場所を探していたのですが、見知った声がひそひそと聞こえたので、思わず路地に隠れました。兄弟子の声だったからです。兄弟子は後ろ姿でしたが、誰かと話しているようでした。旅人達の様です。身なりからして、兄弟子と一緒にいるのは侍者でしょうか。兄弟子の声があまりにもひそひそとしていたので、私も思わず息を潜めていました。
兄弟子は何か深刻な面持ちで、オリーヴ山へ向かわれました。よく見ると、兄弟子は手ぶらです。昼はもう食べてしまったのか、それとも昼も食べられない位に気落ちしているのかと、私は心配で後を尾けました。
荒涼としたオリーヴ山には、身を隠す場所もありません。振り向けばすぐに見つかってしまいます。兄弟子はしかし、一心不乱に山を登って行きました。と、山の方から一羽の白鳩が飛んできて、兄弟子の胸で羽根を休めました。生贄用だったのでしょうか、嘴の折れた哀れな白鳩を慈しんでいるお姿に声をかけようとも思ったのですが、白鳩が飛び去ってしまうとすぐに、祈りを奉げ始めました。兄弟子が何を祈っているのかは分かりませんが、私も、兄弟子の祈りが聞き入れられるよう、祈りました。しかし正直な話、お腹が空いていて、あまり集中できませんでした。それなので、兄弟子の方が先に私に気がついてしまいました。
「君が遣わされてきたのかい?」
「いえ、街で姿をお見かけしたので…。」
いけないこととは思ったのですけど、と、私は言い訳がましく言いましたが、兄弟子の期待していた応えは、それではないようでした。溜息をついて、昼食を分けてほしいと言ってきました。願ってもいないことだったので、私はパンを裂き、兄弟子と共に山に座り、エルサレムの街を見下ろし、少し遅い昼食にすることにしました。
「君に…。」
「はい。」
「君にとって、隣人とは誰だい?」
「神を愛するユダヤ人です。」
私は自信を持ってそう言いましたが、兄弟子は浮かない顔でした。これは師の教えでもあったので、私は何の迷いもなく答えたのですが、それは間違いだったようです。今となっても、この時どう答えればよかったのか分かりません。
「わたしは…。ヘレニストだけれども、君にとって隣人かい?」
「たとえ貴方が、エジプト語を話しても、アラム語を話しても、ヘブライ語を話しても、それこそ東方の言葉を話したとしても、貴方は私の大切な隣人です。あのような如何わしい噂をお気になさってるんですか?」
「うわさ? ああ、あの嫉みに満ちた山鳩の囀(さえず)りのことかな。」
「そうです。そんなことでお悩みなら、先生に直談判した方がいいに決まってます。」
「ははは。違うよ、そんなんじゃないよ。この間、若いラビがなかなか面白いことを言っていてね。考えさせられたんだ。」
「はぁ…。」
口では笑っていても、兄弟子の顔は憔悴していました。考えさせられたなんて、そんな生ぬるい言葉では表現しきれないくらいの苦しみがあったのでしょう。もしかしたら罵声を浴びせられたのかもしれません。私はけれども、それより先は言えませんでした。私は、口では兄弟子と師と、超えたことがありません。兄弟子を黙らせたと言うその説教を、聞いた私が更に躓き、兄弟子の前に横たわってしまうかもしれないからです。兄弟子は裂かれたパンを口にして考え込んでいるばかりで、場の空気は只管悪く、私は屠殺場で迷子になっているかのような気分でした。
「ガリラヤにね。」
「はい。」
「帰ろうと思うんだ。」
「はい…。…ええ!?」
思わず私は口の中のパンを吐き出しそうになってしまいました。慌ててパンを呑み込み、一体どういうことかと兄弟子を問い詰めました。私は兄弟子を失いたくありませんでしたから。あまりに私が興奮して問い詰めるので、兄弟子はパンを落とし、私はそれを踏みつけてしまいました。
「落ち着きなさい、破門されたとか、そういうわけじゃないんだよ。」
「それなら一体どうして!」
「暖簾分けだよ。君も知っているだろう? ガリラヤなんかには、頭が良くても貧しくて学問を修められない若者が沢山いるんだ。そういう子たちに、わたしが師匠の教えを伝えたいと思っただけだよ。」
「何も貴方じゃなくたっていいじゃないですか! それこそ他の兄弟子でも…。あ、貴方が行くことはない!」
「わたしはガリラヤに地の利があるから、わたしが一番適任だよ。それ以前にこの話は、まだ先生に言ってもいないんだよ。」
それを聞いて、私は少し冷静になりました。師が兄弟子を手放すはずがない、その時は本当にそう思ったのです。少なくとも次の刈入れの時期を迎えられると、私は信じておりました。
「何を動揺しているんだい? 『我らは神の中に生き、動き、存在する』と、詩人も言っているじゃないか。どこにいても、わたし達は一緒だよ?」
「それなら、どこにいても同じはずです。私は、貴方に去ってほしくない。」
「あはは、熱烈だなあ、照れちゃうな。実直なのはいいことだけどね、もう少し言動に気を付けたまえよ。山鳩たちは、どこにでもいるのだからね。」
しかし時は満ちていたのです。刈入れの時期が来る前に、兄弟子は私の前から去って行かれました。
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