第二節 ラバンの家にて

 今にして思えば、不完全な私達人間が、完全なる御方である神を喜ばせようとは何とも不届きなことですが、その時の私は、一体どうしたら神が喜んでくださるのだろうと、いつでも答えを追い求めていました。師は教えに熱心で、真夜中まで五書を開いていることもしばしばで、周りの弟子たちが船を漕ぎだしても、大抵は私の喧しい質問の嵐で目を覚ましていました。後の噂では、彼等は私の事を、『頑固一徹で無遠慮な奴』と言っていたそうですが、確かに私はそんな男でした。知りたくて、知りたくて、仕方がない。そう思ったら、猪突猛進、答えのありそうな場所には手を伸ばさずにはいられないのです。そしてそれを邪魔されると、非常に不機嫌になりました。

「―――我は古の日を思ひいで、汝の行ひ給ひし一切のことを考へ、汝の手の御業を思ふ。我汝に向かひて我が手を伸べ、我が魂は|燥≪かわ≫き衰へたる地の如く汝を|慕≪した≫へり―――あ。」

「一息つきなさい。」

 私は、師が眠ったにも関わらず、五書を読みふけり、その息抜きに詩編を読んでいました。その夜、妹夫婦が甥を連れて少し遠くへ出かけると言うので、師の家に泊まっていたのです。その中に、私の兄弟子である、あの人がいました。

 この人はユダヤ人ですが、ギリシア語が喋れます。つまりギリシア化したユダヤ人、ヘレニストでした。実際、彼はギリシア人宜しく、議論好きの哲学好きで、師の教えを熱心に学ぶ一人でした。他のヘレニスト同様、より良いユダヤ人である為に、律法に厳しく、神殿を崇敬していました。私と違うのは、彼はいくつか私よりも年上で、私がいつも激しい議論を好むのに対し、いつも静かな眼でどこか遠くを見ていることです。彼の姿が無い時は大抵、どこか静かなところで、何かの音を聞こうとしているようでした。何を聞いているのかと聞いても、分からない、ただ何かを聞きたい、と曖昧な返事をするだけだったのです。弟子の中でも、最後まで私の議論に付き合ってくれるのも、彼でした。

「もう少しだけ。」

「明日も早いのだから、いけません。」

 そう言って、彼は私の手から巻物を取り、元あった場所に戻してしまいました。

「全く、一体何が君を、そこまで駆り立てているんだろうね。」

「神への愛でしょうか。」

「そんな貪欲な愛され方をしたら、言えるものも言えなくなってしまうよ、いくら神でも。」

 そう言って、彼は私の眉間に人差し指を突きたてました。これは彼の癖で、大抵は呆れていたり、微笑ましく思っていたり、好ましく思っていたりする時にする癖でした。彼は若い弟子と壮年の弟子の中間的な存在であり、若い弟子たちの兄貴分でしたので、年下の弟子を諌めたり、愛でたりする時も、こうしていました。特に年齢的にも肉体的にも最も小さかった私を、特に可愛がってくれたと、今でも自負しています。

「しかし、近頃エッセネ派の洗礼者が投獄されただろう? 彼も君のように、それはそれは熱心で余計なことを口走ったから、あんなことになったのではないかな?」

 エッセネ派と言うのは、私達から分かれた考え方を持つ集団のことで、律法や日常の掟よりも、修行し心身を磨く人々です。それ故、私達と彼らは団体としても個人としてもあまり接点はありませんでした。

「荒野に引きこもるような現実逃避型と一緒にしないで頂けませんか。私はあのように、権力に何が何でも逆らうような物言いはしません。したいとも言いません。」

「そりゃ、彼だってしたくなかったと思うよ。でも言わざるを得なかったんだろう、それを駆り立てる物があったから。」

「それは何でしょう。」

「さあ? わたしにもわからない。先生に聞いてみたら? わたしより、君の方が先生に聞きやすい…。ああでも、明日にしなさい、先生はもうお休みだから。」

 わたしも寝るとしよう、と、兄弟子はまた私の眉間を突っつき、部屋を出ました。集中が途切れた私は、どっと眠たくなり、机から離れたのでした。

「…おやすみ、なさい。」

 兄弟子に、もう聞こえていないでしょうに、私はそう言わずにはいられませんでした。そして昂った意識のまま、床につき、目を閉じました。明日の朝は何を教えてくれるのか、そう考えていると気も静まり、いつの間にか眠ってしまうのです。


 もうお分かりでしょう。私は彼をとても深く愛していました。

 弟子としても、ユダヤ人としても、人間としても。師の他に、私が誰か優秀な人間を一人選べと言われたら、私は真っ先に彼を指名します。彼は人柄も良く、物静かでした。もしかしたら、弟子の中で明らかに異質な私が心配だったのかもしれません。彼は心配りが出来て、誰にでも好かれて、公正な人でした。始め私に声をかけてきたのは、私が孤立するのを憐れんだからかもしれません。しかしそれでも私は良かったのです。なぜなら、ありふれた知識で満ちた孤独な世界に、彼という私よりも遥かに優れた方が現れ、私の名前を憶えてくれているのですから。他のどんな無能な弟子に嫌われても、彼に認められれば、私は満足でした。それくらいに、彼と言う人の存在は大きかったのです。

 誤解しないで頂きたいのですが、私は決して誇大妄想狂だったわけではありません。ただ事実として、私は他の弟子よりも、師の教えを覚えるのが早く、夜遅くまで起きて朝早く起きることが出来たのです。そして私の周りでは、それを優秀と表現するので、その型に当てはめれば、私は優秀な弟子でした。しかし、それは同時に、私は師以外の誰とも答弁をすることが出来ないと言う孤独でもあったのです。他の弟子は、私の言っていることの意味がわからなかったからです。その孤独は、覚えが遅く、夜早く眠り朝遅く起きる弟子には、理解できない孤独です。私は何の悪意もなく、ただ孤独でした。

 その孤独な地に降りてくださったのが、兄弟子だったのです。

 もう私は、孤独ではありませんでした。兄弟子と有意義な語らいが出来ます。忙しい師の代わりに―――というと誤解がありそうですが、兄弟子はいつでも、私に応えてくれました。どんどん兄弟子や師と深く答弁することにより、周りからますます孤立していきました。私は不思議に思いました。兄弟子は誰にでも愛されるのに、私はどうやっても何をやっても、他の弟子たちからは疎まれます。私が一体、何をしたというのでしょう。師の下に来たからには、その教えについてより深く理解し、得たものを共有しようとするのは、当たり前の事ではないのですか? 私たちは野生の動物ではないのです。得た食物を分かち合う理性が神から与えられているのにも関わらず、何故、知の暴利を貪るのでしょう。空しいとは思わないのでしょうか。

 食事の支度をしている召使たちをぼんやりと眺めながら、他の弟子たちが離れた隙に、私は師に耳打ちしました。

「先生、彼は今日、帰ってきますか?」

「さあ、そろそろのはずだけれど。」

 思えば、この夜こそが、全ての始まりだったのかもしれません。深い井戸の底にいた私は、その光に気が付いていませんでしたが、この時、既にもう太陽は昇り始めていたのです。

 その時、兄弟子はいませんでした。親戚に不幸があったために、故郷である北の方へ行っていたのです。話し相手もいない晩餐は非常につまらなくて、私はいつも以上に無遠慮でした。食事が終わって、他の弟子たちに師を取られてしまって、ましてやその話題が興味の持てるものではなかったとしたら、やる事は尚一層ありません。私はさっさと屋上に出て、祈りを奉げるのが日課でした。さすがに、すぐに帰るのは師の面子に関わるからです。

 屋上を、荒野から吹いてくる冷たい風が包んでいました。凍えそうでしたが、私は下へ戻る気にもなれません。エッセネ派に出来て、私たちに出来ないことはない筈ですから、上着を握りしめ、私は膝をつき、両手を天に向けました。


 暫くの間、私は熱心に祈り続けていましたが、ふと、その姿勢はまるで、神からの恩寵を求めているような姿勢だと思い、祈りを中断しました。もう随分と長いこと祈っていたらしく、我に返った私の身体はガタガタと震えて、膝は硬くなっていました。その割に、私は自分が何を祈っていたのか、思い出せません。頭がぼんやりとして、酷く眠たいのです。

「…ちょっと! 大丈夫!?」

 あまりにも私が長いこと戻ってこないのを心配したあの人が、様子を見に来てくれていなかったら、本当に凍えていたのでしょう。私は今の今まで帰還を待ち続けていた彼の姿に、夢を見ているのかと思いました。彼は急いで自分の汚れた上着を取り、私を包むと、身体を摩り、厳しく呼びかけました。騒ぎを聞きつけ、他の弟子も上って来たようです。少し騒がしいような気がしましたが、私の視界と鼻腔は彼でいっぱいでした。

「…お帰りなさい、遅かったんですね。」

 ほっと私は笑いかけました。芯まで冷え切った身体のどこかが、温かく感じられたのです。

「あ、ああ…。たった今、エルサレムについたんだよ。遠くからでも、君が屋上にいるのがわかったから…。ああ本当に、こんなに冷えるまで外にいるなんて!」

 兄弟子が、帰って来たのでした。


 私は一応、帰ると言ったのですが、師はそれを許してはくれませんでした。とにかく今夜一晩は泊まらなければならないようなので、私は妹の所に使いを出してもらうことにしました。他の弟子が帰り、静まり返って、うつらうつらとしていると、ふと人の気配がしました。灯火を持った、師でした。

「起きているか?」

「はい、起きています。」

 師は灯火を枕辺に置き、ふっと吹き消しました。話しやすくするためでしょう。

怒られてしまうかと思うでしょうか。そうではありません。師は私がこのように無鉄砲をすることには慣れていますので、本当に冷たくなっていないかどうか、確認しに来ただけでしょう。

「少し、タルソスに帰った方がいいのではないか? 随分と…。寂しい思いをしているようだから。」

 ぎくっと私は息が詰まる思いでした。事実、私は寂しかったからです。でも、それは家族とは関係のないことでした。むしろタルソスに帰れば、余計に私は寂しくなって、それこそ心が凍え死んでしまうでしょう。

「違います。それはあの…、あの人がガリラヤに行っていて、話し相手がいなくて…であって。」

「彼が? お前は、そんなに彼と親しかったのかね。」

「妙な意味はありません。ただ、あの人しか私の話し相手になれないからです。」

「………ふむ。」

 師は少し、何か考えて、私に言いました。

「いずれにせよ、少し彼とは距離を置いてあげなさい。ガリラヤで、何かあったようでね。少し疲れているようだから、あんまり足繁く通ってはいけない。お前は、私の弟子なのだから、私のところに来なさい。今更、他の弟子たちに気後れするようなお前でもあるまい?」

「はあ…。」

「何、余裕が出てきたら、彼から話しかけてくれる。長い人生には、大きな岩もあれば小さな小石も、あるものだ。山を退ける為の試練が与えられているのに、邪魔をしてはいけない。」

「わかりました。」

「お前も、あんなに凍えるまで思いつめる前に、私に相談しなさい。お前の師匠は、そんなに不甲斐ないかい?」

「そんなことはありません。」

「私もそう思っている。それじゃあ、起こして悪かったね、もう休みなさい。」

「お休みなさい。」

 そう言って、私は眠りにつきました。

 翌日からなるべく話しかけないようにして、遠巻きに兄弟子を見ていると、いつもと変わりませんでした。否、変わらないようにしていると言うべきでしょう。思い返してみれば、遠くを見つめる癖は頻繁に出てきていたし、溜息も多かったし、質問や受け答えを受け流すことも多かったようでした。でもそれも、私が意図的に自分に話しかけてこないと気が付いた兄弟子が、一週間ほどで話しかけてきてくれたので、すぐに忘れてしまったのです。

 私としても、敬愛する兄弟子の|顔≪かんばせ≫が下向いてしまっている原因を知ろうとは思いませんでした。それを語ってほしいと言えば、確かに兄弟子は語ってくれるでしょうが、その時、彼は俯いてしまうからです。 

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