第一節 獄中にて


 この書簡が貴方の下に届くとき、私はきっと貴方と喋ることは出来なくなっているでしょう。本来ならば私は面と向かって貴方にこの言葉を伝えるべきだったのでしょうが、これらの事が全て隠されていたことは、全て御旨のままのことなのです。貴方は承知できないかもしれませんが、事実その通りで、この書簡はしかるべき時に貴方のところにあると思います。永きに渡る時を経ても、しかしそれでもどうにかして、私はこの言葉を貴方に伝えなければならないと思いました。どうか私のこの言葉を貴方の心に収めてください。


 私は、人の喜ぶ顔が好きでした。

 私は兄弟のだれよりも頭が賢く生まれたので、早くに、さる高名なユダヤの先生に師事しました。既にエルサレムに私の妹が嫁いでおりましたし、ギリシアのアテネやアレキサンドリアなどに学問を学びに行くのは、高潔たる我がユダヤの血が許さなかったのです。純粋なユダヤ人である私達一族が、何故我等父祖の地を辱めるローマや異邦人に教えを乞いに行かなければならないのか、と、皆と同じように考えていました。

 私の門出を何よりも祝ってくれたのは母でした。息子が首都エルサレムの先生の下へ行く、と、近所の人に触れ回るほどです。父ももちろん、喜んでくれましたが、どちらかというと父は、やはり自分の業をより多くの息子たちに継がせたかったようで、少し寂しそうでもありました。しかし父もまた、敬虔なユダヤ教徒であったので、私がユダヤの学問を修めることを快く思ってくれました。

 私の話を始める前に、前提として、私は私の友人や親戚について、何も恥じることはないと言うことを話しておきましょう。今から書くことはそれくらい貴方にとって衝撃的だからです。

 私の親戚には、聖書の律法の前に恥ずかしい人は誰もいません。それは律法を学んだ私の眼から見てもそうですし、不肖の息子である私から見てもそうです。私の祖先はユダヤ人で、父祖の末子の民から生まれました。かつてはエルサレム王国の北ガリラヤ地方、ギスカラに住んでいましたが、時の権力者の指示に従い、奴隷としてギリシアの地方都市、キリキア州タルソスまでやってきて、そこに住みました。更に時が流れて、私の祖先は奴隷から解放され、信教の自由を得、ローマの市民権も得て、私の代までそれを継承しました。父はテント職人を生業としており、また、母と共に熱心なパリサイ派でした。近頃はナザレ派の出現によって、パリサイ派もサドカイ派も悪く言われる始末ですが、この点においても、私は両親を恥じることはありません。私の師は最高位の『ラバン』の称号を持っておりましたし、穏健派でありました。

 つまりこれから私の著すこと、それらすべては私と、私を導いてくださったお方の御旨に起因するものであり、両親や親戚は全く関係ありません。私は今や、イスラエル十二部族の父が一子、十二番目の息子が末裔というユダヤ人の十二分の一の人間が持つ誇りよりも、神が選んでくださったというこの小さな器があるだけで、霊的イスラエルという何よりもの幸福に与ることが出来ます。

 さて、私は今、不安と恐怖に押しつぶされそうでもありますが、内なる力が私の芯を守るかのように押し上げてくれている今なら、話せそうな気がいたします。それは、私が抱える棘の事です。

 この棘について、私はあまり人に話したことはありません。私が最も愛した弟子でさえ、必要最低限の事も聞いていません。だから、この書簡で私は初めて、棘の事を話すのです。

 私が先に、何ら血に罪はないと申し上げたのは、この事の為です。この棘は、私の生まれながらの棘ではありませんでした。ある時、というきっかけもありませんでした。本当に突然に、私の身体に突き刺さり、肉の芯まで届いて抜けなくなってしまったのです。

 しかし、その棘が何であるか、どうして私に突き刺さったのかは、理解しているつもりです。

 前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。私の、棘についての話です。


 先にも述べたように、私は非常に、人の喜ぶ顔が好きでした。両親、兄弟、親戚、隣人、教師、彼等の喜ぶ顔が見たくて、私はいつでも、考えに考え、考えふけっているのが好きでした。そしてその考えに基づいて行動し、彼らが喜んでくれると、私はとても満ち足りた気分になれたのです。そしてそれが思い通りにならない時は、顔を真赤にして、癇癪を起こしました。

 そして、たった一人、どうやっても私が喜ばせられない方がいらっしゃいました。

 その方こそ、神だったのです。 

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