著者コラム―サブカルチャーとしてのユダ・イスカリオテ

 我が国において、「イスカリオテのユダ」が広く知られるようになったのは、太宰治による名著「駆け込み訴へ」が大きいであろう。西洋では、ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」における主役抜擢の例もある。そして現代のサブカルチャーの、ありとあらゆる小説や漫画で「イスカリオテ」という文字が見られるようになっていく。それは裏切りの使徒としてのものだったり(例『聖☆おにいさん』)、裏切りという特性から名付けられたものだったり(例『HELLSING』)、親しみのある宗教用語としてのものだったり(例『イスカリオテ』)、様々である。

 何故、「ユダ・イスカリオテ」という名は、これほどまでに浸透し、受け入れられるのだろうか。

 同じ「反逆者」という意味なら、サタンでも良い。宗教用語として使うなら、メシア(ギリシャ語)の方がより高名であろう。しかし、サブカルチャーにおいて、多くの娯楽作品において、これらの言葉は使われない。イスカリオテという言葉には、どのような魔力があるのだろうか。

 思うにそれは、「イスカリオテのユダ」という存在が、あまりにもファジィであり、そして我々よりも劣って見えるからなのではないだろうか。

 メシア、というのは、あまりにもなんだか強くて尊い。メシア、というよりも、日本人、特に音楽に造詣が深いのであれば、『メサイア』と言った方が馴染みあろう。ヘンデルを初めとした多くの偉大な作曲家が、救い主イエスを讃える合唱曲を作っている。『ハレルヤ』『アーメン』も、意味を知らずとも、合唱曲から聞いたことがあるという人は多いだろう。ベートーヴェンによる名曲『第九』は、我が国ではクリスマスにおいてよく流されている。

 その故に「メシア」は、なんとなく小難しく教養のある言葉のように思われるのかも知れない。

 一方でサタンはどうだろうか。『サタン』『ルシファー』『デーモン』『デビル』は、全て別の意味である。サタンとは、『反逆者』を意味するもので、本来は悪魔だとか魔王だとか、そんな意味は持っていない。ルシファーとは、『暁の輝ける子』という意味で、これはイザヤ書に出てくる表現なのだが、時の王ネブカドネザルの失脚を風刺したものである。その詩的で美しい描写が、あまりにも多くの人々の幻惑を生み出し、ルシファー=魔王という図式が出来上がっていく。デーモンとは、『ダイモン』から発生した言葉で、意味は『悪しきもの』くらいの意味である。魔物、というニュアンスも含むだろう。キリスト教から見て異教である『ダイモン』という神の名前から訛ったという説も見たことがある。デビルとは、正しく『悪魔』なのであるが、その語源を見ると、サタンのギリシャ語訳「ディアボロス」であることが分かっている。ところが、この『ディアボロス』の更なる語源は、ラテン語のデウス、サンスクリット語のデーヴァから来ていると言われており、この二つの単語は両方とも『神』を意味している。ここでは、キリスト教の神に対抗する『神』だから、悪魔であるという解釈で良かろう。

 このように分解すると、成程日本のサブカルチャーはどの「悪」もお望みでない事が分かる。

 「サタン」とするには、日本の青少年達は自由に伸び伸びと、大人になる過程を楽しみすぎている。「ルシファー」とするには、あまりにも貴族っぽくて王さまっぽくて、うじゃうじゃ居るような気がしない。「デーモン」はちょっと雑魚くさくて、「デビル」はなんだか抽象的に過ぎる。

 このように考えると、多くのファンタジー小説がこれらの単語のニュアンスを独自に設けているのも当然なのかも知れない。

 それを思うと、「イスカリオテ」という単語が持つ唯一性、神秘性は、実に丁度良い。

 単語そのものの意味が分からないながらに、聞けば一発で「裏切り」というメタファーが浮かぶ。実に素晴らしいことである。自称無宗教が多い日本でさえこの認知度なのだ。

 では、「イスカリオテ」の使い勝手の良さはさておき、何故「裏切り」という美徳に反するものがこんなにも愛されるのだろう。

 思うにそれこそが、人の弱さなのではないだろうか。

 誰だって裏切られれば哀しい。裏切ってしまうのは気持ちよくて、後味が悪いものだ。

 けれどももし、その罪悪感を律儀に背負っていく第三者を見たならば、きっとその人は自分の罪に向き合った、美しい心を手に入れた人物のように見えるだろう。それは、日本社会という秩序団体を裏切った犯罪者が更生した時によく似ている。

 人は、他人の傷を見ている分には、どのような罪も美しく見えるのだ。そしてその罪について燃え上がる義憤の炎は、黄金を生み出す。その黄金は、いかなる理屈もはじき返すもの―――即ち、『正義』である。

 イエスは神である、というのはキリスト教の主張であるが、イエスが神の子だろうと悪魔の子だろうと、裏切りは裏切り、裏切りという行為は悪い行いなのだ。しかし、もしイエスが悪魔の子であるとすれば、その裏切り者は、悪の支配下から抜け出した聡明な人間たり得る。

 サブカルチャーが提供するのは、後者のような人間であること、また、そのような者である。

 日本に限らず、現代社会は情報過多に過ぎて、人々は迷妄しがちだ。その迷妄するきっかけになるツールによってでしか、本著を読むことが出来ないというのは、麗しき我が同胞たるクリスチャン諸兄には皮肉に見えるのかもしれない。

 しかし、私はその迷妄の中に、黄金を提示しよう。ユダ・イスカリオテが手にしたものが銀貨三十枚であるなら、私はここに、金の延べ棒を三十本提示しよう。

 蒙昧なりし諸君、貴君らは、この黄金を何に使っても良い。

 この黄金を知識とし、知性のミョルニルで他人の口を砕いても良いし、黄金をくべた火でヘパイストスに鎧を作らせてもいい。自信の財産として蓄え、なにかしらの財を得て富むのも良いし、施すのも良い。全て、それらは正しい。

 友よ、貴方のしようとしていることを、今すぐにするのだ。

 イエスがそれを止めなかったように、我々はそれを、とめてはならないし、やめてはならない。それらによってもたらされるあらゆる悲嘆は、信じようと信じまいと、それを顧みる存在があることを、私は知っている。その苦しみが、生まれなかった方が良かったとすら言えるほどに激しいことを見越している人が居ることを、私は知っている。

 しかしそのような存在は、貴君らが自身に気付いて欲しいとは思ってはいない。貴君らがしたいと思うこと、しようと思うこと、それら全ての過程と結果を、その存在は知っている。知っているからこそ言うのである。「やれ」と。

 我々は多くの裏切りを、知るところと知らぬところで重ねている。大なり小なり、それらはつみかさなっていき、そうして得た一つの哲学の共有を求めて、サブカルチャーに『その言葉』を求めるのだ。―――『裏切り者のユダ・イスカリオテ』。彼に対する感情は、また同時に、それらの感情が自分の中にあり、また大きなウェイトを占めている事を示しているに他ならない。裏切る事の悲しみ、裏切る事への怒り、裏切る事への憧れ、裏切る事へのロマン、裏切りというドラマ、それらを『悪』と断罪するのはあまりに簡単だが、それではあまりに、人は不自由だ。

 そんな時、彼がいる。「唯一神」を裏切った絶対悪である彼が。彼の行いと比べれば、どのようなドラマも、ピカレスクにこそなれ、断罪されることはない。

 全ての罪人の頭はパウロである。しかし罪人という言葉は、日本人には馴染み浅く、ともすれば無礼な物言いである。

 故に、私は『彼』の尽きることのない興味と学的関心へ最大の敬意を表し、こう記すとしよう。


 ―――全ての悪童・悪人の頭こそ、かの裏切り者、ユダ・イスカリオテである。 

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