和名解説―主役編
「わたし」
真名:イスカリオテのユダ―多くのオタクを魅了し続ける永遠の「悪」
「ユダ(Judas)」とは、ヘブライ語で「賛美」を意味する言葉です。イスラエル十二部族(後述)の一人の名前であるので、由緒正しい名前です。事実、十二弟子の中には、もう一人、「タダイ」と呼ばれる弟子がいましたが、彼の本名は「ヤコブの子ユダ」であったと言われています。一方で、こちらは「シモンの子ユダ」です。
多くの識者を悩ませてきているのが、『「イスカリオテ」とは何か?』 という議題です。現在は「カリヨト村出身の男(Iscariot)」という説が一般的であり、また拙作もこれに準拠しています。カリヨト村はエルサレムの近く、つまりイスラエルの南にあるとされていますが、その正確な位置は分かっていません。
それを考えますと、今日、ユダ萌えの民が多く支持し関心を持っているもの、事実と矛盾はズヴァリ、「ユダは何故裏切ったのか」でしょう。
これには、少々聖書の歴史が関連します。
そもそも、聖書とはどのような本かというと、旧約聖書と新約聖書に分かれています。旧約聖書は「クズを律する為の話(モーセ五書・大預言書)」「クズい民草の歴史の話(小預言書)」、新約聖書は「イエスが律法学者と殴り合う話(福音書)」「使徒達が金欠とお互いを殴り合う話(パウロ書簡)」に分けることが出来ます。これら全てを合わせると、六十六個の項目が出来るのですが、この中のどれ一つとして、原本は存在しません。あるのは写本だけです。
最も新約聖書の原本に近いとされる古典ギリシャ語の新約聖書では、「裏切った」という単語は出てこず、「引き渡した」という言葉が使われています。
厨二病であれば誰もが通る道であるラテン語に翻訳された際に、この「引き渡した」が「裏切った」に変化するのです。現在の形の聖書が出来たのは二世紀(AD一五〇頃)であることを考えると、世代としてはイエスの「孫弟子」が聖書を編纂したことになります。つまり、「裏切った」というのは、福音書家マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの書いた言葉ではなく、寧ろ彼等の考えや感情を受け継いだ人々が、「奴はイエス様を裏切った挙げ句に自殺した」という事実を、聖書に込め、その伝統を持つ人々がラテン語聖書を作ったと見るべきでしょう。
もしそうだとすると、ユダが「裏切った」というのは、某英霊召喚ゲーム風に言うところの、「無辜の怪物」であるとも言えるわけです。私達のロマンにクリティカル威力がアップしますね。
さて、そうなると「裏切った」というのが弟子の主観だとして、それが「十字架に付けた」ことだけが裏切りとは考えにくいのです。ここは聖書を引っ張ってくると余計にごちゃごちゃしますので、簡潔に並べます。
まず弟子達の長であり、我らがラスボスこと初代ローマ教皇ペテロですが、こいつも裏切り者です。しかも、ユダは後悔してイエスの処刑を止めるように懇願し、それを拒まれて絶望し、自殺をするわけですが、こいつは三回も「あいつは知らない」と言います。これは「ペテロの離反」として有名な場面ですが、こやつ、大泣きするだけで自殺するどころか、イエスを処刑する流れに逆らいません。ていうか、その場から逃げ出します。そのままおめおめと生き延びた挙げ句、福音書の一部では、復活したイエスに三回も「ごめんちょ」と謝り、その度に祝福されています。表出ろ。
クズは他にもおりまして、十二弟子でこそないですが、福音書家マルコも、この時逃げ出した使徒の一人であったと言われています。マルコによる福音書によれば、彼は否定こそしていませんが、麻の服を脱ぎ捨てて逃げ去ったと書かれています。つまりパンイチですね。なんでこの時代の人はやたらとパンイチになるんでしょうね。
ご存じの通り、ユダの他に特別な恩寵を与えられた弟子は十一人いた訳ですが、どいつもこいつも逃げ出します。唯一、伝統的にヨハネ(天空城砲撃を撃とうとして大目玉を食らった人)だけが、聖母マリアとともに十字架の元にいて、マリアの世話を頼まれたと言われています。が、それが書かれているのはヨハネ福音書だけです。自演乙。
このように見てみますと、自分のしでかしたことの大きさに最も向き合ったのはユダであり、それについて自分なりにけじめをつけたのもユダです。ということは、何か別の「裏切り」が、弟子達の中で認識されていたことも考えられます。
各福音書のユダに対する扱いは酷いのですが、その中の一つに、「お金を不正に使っていた」という記述が出てきます。彼は会計を任されていたので、帳簿を誤魔化していたという疑いです。彼がものの目利きに優れていたことは、ナルドの香油を「売れば給料三〇〇日分」とすぐさま計算し、非難したことからも分かります。大切なイエスの門出(物理)の準備を、金銭感覚で穢したユダの行いは、イエスの復活を見た後の弟子達から見れば、酷く俗物的で、また低俗なものに見えたのかも知れません。
しかし同時に疑問も残ります。それは、「そもそも何故ユダが不正をしていると知っていたのか?」です。
十二弟子の殆どはガリラヤ地方、つまりイスラエルの北部の、それも漁村の出身です。マタイ福音書を書いたと言われている十二弟子の一人マタイは、元取税人ですので、金勘定が出来たのは間違いありません。また、取税人はローマへの税金を取り立てる人なので、ローマの言葉、つまりラテン語が喋れています。それでいて計算しつつ、自分の私服も肥やし、且つ人々にバレていたとはいえ、殺されない程度に広く薄くだまし取っていました。これは何もマタイに限ったことではなく、当時の取税人は当たり前のようにやっていたことでした。ということは、少なくともマタイは、ユダが不正をすれば分かります。
漁師であるペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ以下数名は、恐らく数の概念はありますが、計算をすることが出来たかと考えると疑問です。
そもそもユダヤ人は、今でこそ世界的に頭が良く、数字に強いというステレオタイプを持っていますが、それは国土を持たぬ民の生存戦略、民族としてのアイデンティティによって成せたものです。事実、旧約聖書は、当時の人々は全て、身分に関係なく諳んじる事が出来ました。それを難しく解釈するのが律法学者の仕事です。しかし彼等が受け継いでいた「旧約聖書」の中に、算術は出てきません。漁師達は取れた魚を数える必要がありますから数は数えられたでしょう。ですが、計算が出来たかというと疑問です。事実、サークルマネージャーの骨林頭足人は、四半世紀生きてきて未だに、教えてもらう時期、学校に行っていなかった為、割り引き計算と割り増し計算が出来ません(バラしてごめんね☆)。ということを考えると、やはり計算が出来たのはマタイくらいであると考えるのが妥当です。要するに言ったもん勝ちに似ているところがあります。
さて我が嫁の罪を初見殺しの福音書家に押しつけたところで、次の「裏切り」について考えたいと思います。
それは、「自殺」です。
始めに言っておきますが、この「自殺」は、現代日本における自殺とは意味が異なります。現代における自殺は、全て平等に慰められるべきであり、彼等を救えなかった我らを咎めるべきであり、死を選ぶほどに追い詰められ、尚救いの手を差し伸べられなかった彼等に、イエスの救いだけでも与えられるように祈るのが常識です。まあプロテスタントでは時々それをしない宗派がありますが、その辺りの解釈違い萌えを論じていると本が一冊作れるのでこれに関してはキリスト教宗派擬人化BLで書こうと思います。
これから論じる当時の「自殺」は違います。そもそも、イスラエル民族的には、自殺をすると民族が滅びます。というのは、耐えがたい屈辱や悲しみの中、祖先の絶望や悲嘆を口伝していったのがイスラエル人です。つまり、絶望に負けるということは、イスラエル民族のフルボッコ大列伝に対する否定です。この程度でへこたれていては、イスラエル民族は滅びてしまいます。それ程の苦難の歴史を辿っているのが、イスラエル民族です。
彼等の神(YHWH)は、当初罰する守護神として描かれますが、時代が下り、イザヤ(幻を書き留めた結果カルトに利用されまくってる預言者)の時代になると、「神さまはきっと助けて下さる、だから頑張ろう」という表現が出てきます。これはイスラエル民族がバビロンに捕らわれているときに書かれた書「哀歌」の頭に出てきます。絶望に負けて自死を選ぶと言うことは、「神が救うことを信じなかった証拠」と考えられていたのです。また他にも、亜熱帯のイスラエルに住む人々は、「腐敗」、つまり「穢れ」を恐れます。死体は穢れの最たるモノなので、自ら穢れたモノ、つまり神が嫌う(と、当時の人は考えていた)モノになるということは、神を拒絶する行いですので、この方面からも、彼等が自殺を疎ましく思っていたことが推測できます。
つまり、弟子達は神の存在を信じるのなら、神の子キリストが死しても、必ずや希望があることを信じ、生きなければならなかったのです。ところがユダは、それを放棄し、自殺しました。つまり、ユダの「裏切り」とは、神に対する道徳的な裏切りという意味です。
いずれの「裏切り」を取っても、私達のイスカリオテのユダが、孤独な解釈をされているのが分かると思います。
さて、そこで終わるのが普通なのですが、生憎とわたくしぱうらは腐教家ですので、ここに解釈を加え、何とか我が嫁を救えないか、試みました。
その結果、私は「ユダのみに与えられた恩寵としての裏切り」という点に落ち着きました。
今日の日本の教育思想に繋がる中世カルヴィニズム(現代日本で言うカルヴァン派、長老派と呼ばれる人々)から生まれた思想、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」通称「プロりん」によれば、我々は誰が死後、救われ、救われないのか、決まっているという「予定説」という概念があります。これについても萌えを語り出すと本が一冊作れるので詳しいことはキリスト教宗派擬人化BLに任せます。予定説は「何をやっても救われる人」「何をやっても救われない人」という両極端な恐怖を生み出しました。そこで当時のカルヴィニスト達は、「そもそも救われる人なら救われるようなことしかしないんじゃね?」という、いわば仏教における因果応報の真逆の救いを見いだしました。私はこの説を、ユダに当てはめたのです。
キリスト教のジョークに、こんなものがあります。
「終末が来た。魔王ルシファーが、どれだけの人間が地獄に堕ちたのか、わくわくして地獄の蓋を開くと、誰も居なかった」。
つまり、イエスの十字架によって、誰しもが天国に行っている、ということを現すジョークです。決してルシファーいぢめではありません。人間が赦さない罪であってもイエスは赦す、それを表現したジョークです。もしそうであるならば、ユダが地獄に行っていることは矛盾します。何故ならエジプトのキリスト教であるコプト教会では、イエスに十字架刑を下したピラトが聖人になっているからです。その理由は、ズヴァリ、「キリストの十字架を手伝ったから」に他なりません。ならば、イエスの十字架を手伝ったユダが、聖なる人でない理由はありません。
ちなみに、「聖人認定」は、あくまでも人の組織が行う格付けです。特に日本には二次元に聖母がいっぱいいますし、同人誌界にも神がいますし、公式からの神供給など、我々オタクは様々な「聖なるもの」に囲まれています。しかし万人のオタクに向けて共通の聖母や神対応や神供給があるわけではなく、一部のクラスタにとって、それらが「聖なるもの」なのです。ですから、ユダクラスタのカトリック信者がユダを聖人として書いていても問題はありません。
………え、ないよね? ないよね? まあ、破門されたら地獄行きとかじゃないからこのスタンスは変えるつもり無いんだけど。
さて、ユダの死を意味あるもの、つまり、それ以外の結末ではいけなかった理由として、私は詩編の引用をしました。この部分は当時の私が、イラストの添え物にする聖句を探していたときたまたま見つけ、「ユダのことじゃん!!!」とテンションが上がり、書き留めていたものです。私の全ては貴方の書に記されている。生涯を歩み始める前に、私の日々は定められていた。は、大変エモエモのエモなので、ことあるごとに私も引用し、いくそす。の活動方針に添えています。聖句の解釈は千差万別なのでここではあくまでも「この話の場合」を前提に、引用意図について解説します。
話の始めに出てくる「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」は、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と、当時の言語で伝えられているもので、イエスが十字架上で述べた言葉の一つです。この詩は一見絶望の詩に見えます。ぱうらもそう質問しました。しかし本編に引用されているように最後まで読んでいくと、この詩は寧ろ信頼であり、「お見捨てになったのですか」という言葉は、一種の言葉遊びに似たジョークである事が分かります。この聖句は、人としてのイエスがYHWHに言った言葉として引用しました。(イエスとYHWHの関係は次項)
それに対し、応えたユダは、「神の計らい」を歌います。この詩は教会のミサで歌われるものの中でも有名なもので、私個人としてもとても好きな節です。
ユダに関して、聖書は多くの場所を割いていません。つまり、ユダを弁護するものは、全て神学者の考えに基づくものです。2世紀頃、今日「ユダの福音書」と呼ばれるものを予期していたかのように、ユダがイエスに依頼を受けて裏切ったという解釈が出ましたが、これは異端として排斥されました。他にも色々理由はあったので、この件においてのみ排斥の理由になったわけでは無いのですが、それについて語り出すと本がry
ユダが何をし、行ったのか、それらを後世の我々が知ることは出来ません。彼を弁護するとしてもそれは感情論です。だからこそ、ユダの全ては貴方の書に記され、そしてその生涯はイエスに「こんなに辛い思いをするなら生まれない方が良かった」と言わしめるほどのものを歩むように、と、定められていたのです。これはユダにとって大きな救いです。自分が犯した罪、即ち神の子への冤罪、愛を説く人をテロリストとして引き渡す行為、そして自死を含め、全ての苦しみは定められていたこと、自分はそれをやり遂げたのですから。
そして、その誉れは、キリスト教が続く限り、人の弱さがある限り、罵詈雑言に埋もれます。しかしそれでも良いのです。ユダは、自分の行いが神の御心に添っていたこと、そしてそれを完遂したことを確信して死にます。キリスト教としては、イエスが復活してからが大切な話なのですが、『カリオテの男』では、その部分が描かれていません。それは当然なことで、ユダだけが、復活を見聞きすることなく、復活という希望を新しく知らされることなく、既に希望と神との一致を確信しているので、彼はイエスの復活を見ても見なくても、同じ結末になるのです。つまりユダの自死は、この世でやり残したことはなく、後は神の御許に行き、神と一致するだけ、というステップの意味になっているのです。
「カリオテの男」では、このようにして、イスカリオテのユダを救済しました。
✝
「先生」
真名:イエス・キリスト―絶対善でありながら、悪を内包する愛の神
この作品での先生は、キリスト教を名乗る上でなくてはならない「神であるイエス」が特に強調された姿です。偶にキリスト教を名乗りながらイエスは神ではないと言っている団体がありますが、それについては教派擬人化で語り尽くそうと思います。
この作品は、ユダの内情により近く寄り添った作品なので、意図して「容貌が想像出来ない」ように努力しました。つまり魂と魂、霊と霊のセックs交流ですね。なので、台詞もその後のいくそす。文学で見られるほど生き生きしていないはずです。
最もこれを書いた当時、私自身が、「神としてのキリスト」をあまり実感していなかったのもまた事実です。私にとって長く、イエス・キリストとは余計なことをしてカルトをばらまいたおっさんだったので、改まって書こうとするとかなり模索する形になりました。
さて、「唯一神」にあるイメージとして、「残酷な現実を創った神」という側面は、拭いきれないものがあります。私もそうでした。なので、今作のイエスは「神についての教師」としての側面を重視し、よりユダとのプラトニックセックs心の関係を大事にしたのです。つまり、今作についてのイエスとは、「ユダが憧れる存在」であり、それ以下でもそれ以上でもありません。ただユダが愛し、執着し、愛されたいと思った存在がたまたま神の子と呼ばれ、十字架の運命を担っていた、という解釈です。その意味で、いくそす。文学処女作としては、私ぱうらのカトリシズムに最も近く、即したものであるとも言えるでしょう。
さて、イエスの生涯、基キリスト教の文学としては、この物語は決定的に欠けた部分があります。それは「復活」です。復活がなければ、キリスト教はキリスト教として成立しません。キリスト者達は、皆イエスが先に提示してみせた復活の救いによって集うからです。
そもそも、イエスはテロリストです。
「裏切り自殺論」でも述べたように、イスラエル民族は口伝で自らの歴史を語りました。実際に旧約聖書(=口伝の内容)を読んでみると、ちょっとミスをしたイスラエル人によって、一家離散ならまだ良い物の、普通に死にます。ブラック過ぎます。何故かというと、これはイスラエル人が国持たぬ流浪の民としての秩序、守り神ヤハウェとの契約として、常に聖なる民族であることを求められ、そして実行してきたからです。民族の中で一人でも違反者が出れば、それは守護神ヤハウェの怒りを買い、民族が途絶える。そんな絶対的な支配者にして強力な無双の守護神、それがヤハウェなのです。
そのような風潮の中、イエスがしたことは何かと言えば、穢れに触る、権力者に楯突く、律法にケチを付ける、しかもそれを民衆に広める。とんだ思想家です。しかも厄介なことに、そのようにすべきと言われていた穢れを癒やすイエスは、民衆に大いに人気になります。民族の歴史に詳しく、また民を導かなければならない祭司達は、確かに自分達よりも優れた教師として現れた無名の大工を妬みました。しかし同時に、こいつをのさばらせておいた時の神の怒りは計り知れないという、民族を憂う愛国心も確かに存在したのです。彼等は民族を護る為、その秩序を護る為、イエスのような思想家が出るのならば、須く殺さねばならなかったのです。はいそこ、過去の預言者から何も学んでないとか言ってやるな本当のことだから。
そうなると、もう一つの残酷な神が現れてきます。それは、「子なる神を見殺しにし拷問しさせた父なる神」という恐ろしい親子像です。誰だ愛の神とか言った奴。
今作では三位一体という難しい教義ではなく、「父なる神=子なる神」という点について、とりあえず認識が同じであれば、解釈違いの溝は防げるので、この辺りについて特に解説しておきましょう。
まず、父なる神(ヤハウェ)と、子なる神(イエス)は、全くの別人です。しかし、一つの存在です。我々ヲタクの文化にも、似たようなものがありますね。………こらそこの腐女子、知らない顔をしない!
つまり三位一体とは、3PのBLCPなのです。
ヤハウェが受けでもイエスが受けでも聖霊なる神(こちらはまた別の機会に)が受けでも、腐女子としては大いに違いがありますが、三人が揃って一つのカップリングであり、そのカップリングの中に綺麗だったり汚かったりする愛による結びつきがあるのが三位一体です。そして、一人でも欠ければ、それは3PBLCPにはなりません。ユダが愛したのは、この内の一人であるイエスであり、同時に「神」という一つの大きな攻め(または受け)と掛け算されているのが、今作におけるユダです。ぱうらはイエスはスパダリ総攻め逆ハーだと思います。
さて、ここで三位一体を汚く理解したところで、問題に戻りましょう。即ち、「ヤハウェは何故イエスを殺させたのか?」。ヤハウェがバッドエンド厨というのもあたらずとも遠からず。
人間となった神イエスは、ハナから十字架刑によって死ぬことを運命づけられていたわけですが、はいそこの厨二病お静かに! 実はイエスにも、この十字架から逃げる意思も、自由もあったのです。しかし最終的には、ヤハウェの判断に同意し、十字架にかかります。ということは、イエスの目的とヤハウェの目的は、同じであるということです。ヤハウェは一人息子(今はこの認識で構いません)を惨殺させることで、イエスは自ら惨殺されることで、あることを、落命をもってして証明したかったのです。
それは、「神の憐れみが届いた」ということです。
先ほどから何度も述べているとおり、イスラエル民族は受難の民です。イエスが生きた時代も、ローマ帝国の圧政に苦しんでいました。某エロゲーで言うところの赤剣ちゃまのちょっと前の時代です。その為イスラエル人達は、長く嘆きの歌を歌い継ぎ、歴史を伝えていきました。
しかしイザヤの時代になると、神の憐れみを期待するように、それを信じるようにという考えが出てきます。丁度バビロン捕囚の辺りです。そしてイスラエル人達は、それを待ち続けました。いずれ来ると理解しながら、いつ来るか分からない、それは供給を待つマイナーヲタクにも通じる辛い信頼です。
「もうそれは来た、待たなくて良い」という現れが、イエスの十字架です。
イエスは先にも述べたように、多くの穢れに触れました。逆に言えば、それは排斥しなければ民族の秩序を乱すとされていた者への人権回復です。イエスはその教えの中で、決まりを守る事よりも大切な、隣人愛を説きました。それは宛ら、コミ○におけるヲタクの団結力にも似ています。コミ○の為に働き、コミ○の未来のために働くという意味で、イエスはコミ○スタッフと言っても良いでしょう。問題だったのは、コミ○の未来と運営に携わり、次代に継がせていく使命があるイエスが、「同士よ」と言ったの彼等が、徹夜組だったことです。
コミ○を運営する上で、徹夜組が紛う事なき悪であるのは周知の事実です。それによって出店料が上がったり、近隣住民が迷惑を被ったりしているのは、ヲタクあるまじきマナーの悪さです。ヲタクの趣味は、公式様のお目こぼしで成り立つ危ういもの。その故にマナーは徹底して守らなければ、全てのヲタクの活動が制限され、場合によっては公式様からのお触れにより禁じられて途絶えるかもしれません。
しかしイエスは、コミ○のマナーを守ることよりも、他の参加者がどんなに迷惑に思うかよりも、徹夜組に「大丈夫? 水飲む? カイロ要る?」と言ったのです。無論、イエスはコミ○のマナーを蔑ろにしたわけではありません。そこにヘバってるヲタクがいれば、一般入場者もサーチケもスタチケもスタッフも関係なく、水を与え、カイロを配るのです。イエスから見れば、一般入場者もサーチケもスタチケもスタッフも徹夜組も、真夏と真冬に大騒ぎしてるヲタクという点において全く等しい存在だからです。
このように例えれば、イエスがどれほど危険なことをしていたのか、分かるでしょう。同時に、イエスはコミ○のマナーという律法を軽んじていた訳でもありません。そこにヘバってるヲタクがいるから手を貸しただけ、助けただけなのです。当時のコミ○、じゃなかった、イスラエル人は、徹夜組を徹底的に排除し、倒れてもそっぽを向き、マナーを守れる人間だけで社会を構成していました。それこそがコミ○、じゃなかった、イスラエル人が続く為に必要なことだったからです。現代の我々では、徹夜組も一般参加者も等しく笑顔になれる方法は模索状態であり、転売や情報の錯綜など、お互いにいたちごっこをしている状態です。でもイエスには、徹夜組を一般参加者にしてしまう秘訣があったのです。つまり、一般参加者、徹夜組、転売ヤー、通販待機組、チケット入場組、スタッフと言ったあらゆるヲタクの分類をとってしまうこと。それが出来る者、即ち救い主です。
イエスはそれをどうしても、どうしても示したかった。長きにわたるコミケスタッフと徹夜組による攻防、転売ヤーと通販待機組のいたちごっこ、それらを解決し、お互いの垣根や遺恨を取り除き、一つの大きな秩序を持ったヲタクというカテゴリで彼等が仲良くヲタ活をしていくこと。それを命がけで示したものが、十字架なのです。
人の組織や社会では、人は排除でしか一致出来ません。Twitterのブロック機能など最たるものです。しかしそれは、本人が平和になるだけであって、少なくともイエスから見た解決ではありません。しかしイエスは神です。ノートに書かずとも、望んだことを叶える事が出来ます。だからイエスは、悪を悪と名付けず、善を善と名付けず、全てを救うことを望み、そしてその証として、当時の権力に逆らい、命を張って示したのです。
このようなスケールのバカでかい存在に恋をする者、或いは恋をされる者、いずれ恋に落ちる者、生涯敵対する者、彼等のことを、人はこう呼びます。
「人類」と。
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