太宰治の「駆け込み訴へ」を広角にした印象、かつそれ以上の満足感

流麗な文章で読みやすかったです。

太宰治の「駆け込み訴へ」を高解像度にしたような感じを受けつつ、「駈込み訴え」では得られなかった満足を感じています。
(もちろん、描かれるユダ像というのは違うわけで、それの好みというのもあるかもしれませんが。「イエスに非常に好意を抱いている」という解釈が共通していたので、このように感じたの思います)


太宰の「駆け込み訴へ」は、ユダを視点にしながらあくまで人間の情を描いているのに対し、この「カリオテの男」は、ユダの情を表現しつつ、「それらを回収していく、壮大な歴史と神のわざ」を思わせるという点が違うのだと思います。そして、それが私にとっては非常に好ましいのだと。


太宰の「駆け込み訴へ」は、太宰が当時寄せていた政治運動への想いを重ねて描いている…と言う批評を読んだことがあった気がします。だとしたらやはり太宰の「駆け込み訴へ」の読み方は、これをもってして聖書や周辺の歴史を再解釈する、といった営みのための文学ではないのだろうな…と思います。


多くの文学は「それが書かれた時代背景を学ぶ」ために(も)読まれると認識していますが、

「駆け込み訴へ」もそういった読み方をするか、あるいは多くの二次創作の如く人物の感情へのフォーカスを楽しむ、といった読み方をするか、どちらにしてもスケールが限定的になるため、いまいち没入できませんでした。

(←というか、文学史的に考えると、これは「告白」という文学形式を太宰がやってみたかったから書いた作品なのではないか?と仮説を持っていますが、浅学の思いつきを出ません…)

そういうことを踏まえると「カリオテの男」はそれらよりももう少し大きなスケールの世界を垣間見させてくれる作品だなと…。



とにかく、「カリオテの男」は、文学作品的にも優れているし、仮に聖書の二次創作だと定義したとしてもとても質が高くて、とても好ましく感じました。(私は「原作の主張が十分に踏まえられている」「それらの主張を、原理的でなく原則的に伸ばすことができている」「納得感のある行間の読み方をし、それが表現されている」といった二次創作が好きです…)

駄文のレビューでお恥かしい限りです。