第九節 夜明の男

 預言者とは、神の言葉を預かり民に語りかける神の代弁者である。そのため、多くの場合民衆に虐殺されて殉教する。死なないために口を噤めという助言に対し、『私が黙ると石が叫ぶ』とまで言った。預言者となることは、神から処刑宣告をされるのと同等の重圧を科せられることだった。だとすれば、先生が仮にただの預言者だったとしても、先生は殺される運命にあったのだろうか。

 先生は祈りに出かけられるとき、大抵さみしい場所に行かれる。それは山だったり、湖畔だったり、荒野だったりするが、わたしは今夜、恐らく自分の死について、先生が祈っているのはオリーブ油を絞るゲッセマネの園だろうと思い、差し向けられた群衆をひきつれてそこへ向かった。

 わたしの心は、静かだった。遠くにゲッセマネが見えてきたときも、先生と共にいる老人と漁師たちとを見つけた時も、わたしは至極穏やかだったが、先生の表情が、わたしを恨んでも怒ってもいないのだと気がつき、激しく動揺した。群衆たちはわたしの合図を待っている。弟子たちは、裏切り者のわたしを警戒している。

「先生。」

 わたしは一歩、先生に近付く。先生はわたしが先生のところへ行くのを待っておられる。わたしは一歩一歩近づいて、そっと先生の左の頬に口づけた。左の頬は、いつも先生がわたしを愛でて下さるときに触れる場所。私にとっては、くちびるよりも、指先よりも、ずっとずっと関係を近く感じ取れる場所だ。先生も幼い頃にここに口づけされたことがあろうし、わたしと知り合う前の弟子の誰かがここに触れたかもしれない。

 それでも、ここはわたしのものだ。わたしと先生が確かに愛で結ばれていたことを思い起こさせる無垢な場所だ。

「お元気で。」

 例えその責め苦が、一日のような千年であっても。

 例えその天罰が、わたしだけに下るものであっても。

 わたしは貴方を愛しています。こうして涙もなく、貴方を辱めようとする男達を引き連れていても。

 わたしは確かに、確かに貴方を愛しています。これからも、これまでも、きっとこの先も。

 先生がこれから辿る道を知らなかったわけではない。だがそれでもわたしの口からはその一言が出た。先生はそれを聞きとられ、わたしに尋ねた。

「友よ。何のために来たのですか。」

 ああ先生、何故そのような愚問をなさるのですか。わたしは貴方に命ぜられた事を、貴方の御心の為に為したのです。

 先生は受け入れておられたのだろうか。わたしを選んだ時から、わたしが、このような行動に出ることも。それによって、自分がどうなるのかも。群衆が、先生へ手を伸ばす。

「触るな!!」

 ところが、老人の弟子がいつの間に持ったのか、剣を抜いて、群衆の一人に斬りかかり、耳を落とした。短い悲鳴が上がる。わたしは先生を見つめたまま後ろに下がった。先生は老人を咎められ、彼の斬り落とされた耳を手で覆い、癒された。

 そして、先生は言った。

「わたしは毎日、神殿で座って教えていたのに、貴方方は、私を捕らえなかったのです。」

 民衆の暴動を恐れ、先生に手を出さなかったのは賢明な判断だ。しかし、本当に神を侮辱したと怒っているのであれば、そんなことを気にせず捕らえただろう。偽善者たちは神を冒涜したという名目で、自分たちの気に食わない人間を、より鮮やかな善行によって屠ろうと考えていたのだ。

 先生はそれを知っておられた。だからわたしを促したのだ。

「しかし、全てこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」

 その時、弟子たちは悲鳴を上げてその場から逃げ去った。恐らく歴代の預言者の末路を思い出したのだ。抵抗もしていないのに、先生は群衆に縛られ、大祭司の元へと引きつられて行った。

 わたしはただそこに立ちつくし、先生が祈っていたのであろう岩に触れ、夜空に向かって叫んだ。

「我が神よ! どうか教えてください。どうしてわたしは救われなかったのかを!!」

 遠くになっていく先生の背中は、振り向くことはなかった。

「私の先生、私の神! わたしは貴方を愛していたのに、貴方はどうしてわたしを愛してくださらなかったのですか。」

 わたしは、岩に突っ伏して泣いた。


 それから何度か、わたしは先生が気になって、麻で素顔を隠して先生を追いかけたが、何度も捕まりそうになり、結局先生のお顔を見ることも出来なかった。

「やあ、探したよ、きみ。」

「!!!」

 ギクリとして振り向くと、あの熱心党の一人だった。

「何だい、そんな羊飼いみたいな格好をしてさ。きみの先生の行く末が気になった?」

「要件は何だ。」

「おお、そうだった。これだよ。」

 そう言って、彼はわたしの手をとり、そこにチャリンと音のする袋を置いた。

「これは。」

「銀貨三十枚。約束の報酬だよ。」

 わたしは不快感に顔をしかめた。

 約束? 報酬? わたしはお前達に約束したのではない。お前達の為にやったんじゃない。わたしは全て、あの方の為にしか、動いちゃいない。お前達が見栄と嫉妬の為にあの人を凌辱しようとしているのとは違う。

「そんな顔するな、きみ。きみの名前は、きっと異邦人の国でもこの国でも、あの先生の弟子の中で最も有名な弟子として受け継がれるだろうよ。異邦人の国では、反乱分子を鎮圧する手助けをした英雄としてね。」

「きさま。」

「それに、その報酬は何が何でも受け取ってもらわないと。ぼく達に火の粉がかかってしまう。きちんとした契約じゃないと思われると、ぼく達の国造りに障害になるのだから。」

 わたしはギリリと歯をこすった。わたしにとっては酷い侮辱だった。わたしは叫んだ。

「先生がこの先、この国にも、異邦人にも、未来にも、障害になるはずがない!」

「本当にそう思うなら、きみはあの時、ぼく達の前に来なかった。」

 ぐっとわたしは言葉を失った。事実を突き付けられて、ぐらりと頭が揺れた。先生は確かにわたしを選ばれたけれども、本当は他の行動を期待しておられたのではないのか。あの時振り向いて下さらなかったのは―――。

「きみはもう、立派な裏切り者なのだよ。」

 裏切り者。

 今更、もう遅い。先生はもはや、次の安息日を迎えることはないのだ。わたしは裏切り者。金と先生を天秤にかけたのだ。金と、自分の師を天秤にかけた裏切り者なのだ。

 それならば、この金を在るべき場所に返さなくては。わたしは何も言わずにその場を去った。向かうのは神殿だ。

 遠くで、鶏の鳴く声がした。もうすぐ夜が明ける。


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