第二章(1)
A高校の門をくぐってもう三年目になる。いよいよ進路を考えなければならない不安に、三年前はどう立ち向かっていただろうかと考えながら、新しいクラスへ入っていった。
三年前はどこかの高校を受験すればいいだけの話だった。一応進学校で名前の通っているA高校なので、やはりどこかの大学へ進学すればいいだけの話ではあるが、全国の今年十八歳になる人々の中に、その選択をしない人がいる。そういう人の割合が、三年前より増える。思い至ったとき、中学卒業後すぐに仕事を始める人々について考えることは、三年前なかったと栄太は思った。それはなんだか世間知らずで失礼だったような気がした。
「走りの速さに若さが反比例してるね」
いつも騒がしい宇佐(うさ)が、にやにやとしながら栄太の席までやってきた。こいつとだけは一緒のクラスになりたくなかった、そうちらりと考える。放っておいたほうがいいと判断し再び思索にふけっていると、思い切り頬をつままれた。
「授業始まるの、だるいんですけど」
「俺に言われても」
「誰に言えっていうのよ」
「誰に言っても変わらないな」
はー、おじいちゃんだよ。もう栄太、あんたもうおじいちゃんだ。そんなことをぶつぶつ呟きながら、自席に戻っていく彼女の後姿から漂う寂しさに、栄太は気づくことができた。女子との距離感が掴めるようになったことは、確かな果実ではあった。この三年間で、恋人との付き合いとから得たものだった。
栄太は宇佐に感謝の念を抱いてはいたので、仕方なくいくばくかの奉仕の精神を持とうと、
「大丈夫だよ、みんな授業はだるいもんだから」
「いつもは口きいてくれないのに、珍しいね」
ニコニコとして宇佐は栄太のほうを向き直り近づいていった。
「そうか? 俺もたまには学校に来たくない日ぐらいある」
宇佐は足を止め、空席を見つめた。優の席が用意されている事実は鎖のように、栄太と優とをきつく縛り付けていた。冷たいその鎖のにおいを、はじめにかぎ取ったのは、宇佐だった。
「まだ続いてるの?」
栄太がうなずくのを確認した宇佐は、再び優の席を見た。期待――どうかこのままこないでほしい、そういう期待が、栄太には見て取れてしまう。そこでホームルームの予鈴が鳴った。
部活動はうまくいっている。少なくともこれまでに味わったことのないような爽快感を、栄太は勝利から得ている。
この前、県で一番の成績を収めた。代替わりして初めての大会から、二年生最後の大会までの間に著しいタイムの伸びがあった。特に、冬場の身を切るような寒さをこらえての自主練習が効いた。
「平常授業開始って最高だね。だってたっぷり部活できるもんね」
単純な宇佐を栄太がなじると、細かいことは気にしちゃだめー、と上機嫌な返事。その後も何か言っている宇佐を無視し、荷物をまとめてグラウンドへ向かう。
宇佐は女子バスケ部のキャプテンを務めている。快活な性格がチームに明るい雰囲気をもたらすが、高校競技向きの厳しさを持った目を持たなかった。楽しいけど勝てない。新人戦で少しはそのことの悔しさをにじませながら栄太にこぼすとき、彼は宇佐になんと言っていいか分からなくなる。勝とうという意志が弱すぎる。そう言っても、彼女は知ってる、と返してくるだろうから。
意志が弱い――意志が弱いとは、そもそもなんだというのも栄太には分からない。
良くない思考のめぐりが、脳内で起きていく。優のことに思いを馳せても仕方がないと分かりつつ。彼女は学校に来ることができないのは、意志が弱いからなのだろうか。ただただ、さぼっているということなのだろうか。学校にこれないことは、それだけで負けだろうか? いや、もうやめよう――
最近は部活動が特に活発になって、厳しい練習の中でそれを考えている暇はなかったので、ある意味救われていた。栄太は練習のとき、自分が前に進んでいるのだという気持ちを確信できた。進路に向けて、今後の大会で好成績を残すことは、プラスになる。栄太は地元の、成績では遠く及ばない大学を、スポーツ推薦で受けようとしていた。年末の駅伝大会に出場する選手たちが、雲の上の存在とも言えないのではないか、そう考えていたが、思い上がりでもなかった。それだけ栄太は力をつけた。
陸上部の全体部長を務める片田が軽く挨拶をする。彼の指揮のもと、組織はどんどんと洗練されていっていた。一応、A高は陸上の有名校で知られていたが、伝統を大切にする部にありがちな、無駄にだらだら時間だけを使う練習を効率化していった。それは見事に奏功して、部員に活気ができ、メリハリのつくおかげで各々の学業の成績も向上した。
「これからの試合だからな、全部が決まるの。でもこれまで通りやれば大丈夫。みんな今日も頑張っていこう」
言葉の節々に片田らしい優しさがあった。
栄太はウォーミングアップをはじめると、早速ビルドアップ走に入った。自分の中でも厳し目に練習メニューをこなして、優のことを、つかの間でいいから忘れていたかった。
「栄太、最近張り切りすぎ。肩の力抜いていけよ」
「ああ、ありがとう」
「……練習終わったら付き合えよ」
「すまんな、今日は忙しいんだ」
特に予定があるわけでもないが、片田にはずっと気を遣われっぱなしだったので、悩みを打ち明けるには気が引けた。
「――いいか栄太。君の走りの速さなんて、この際どうでもいいんだ。君の実力は大会でしっかり証明されているから大丈夫だと思ってる。大学へ行ってもやっていけるだけの力はある。けどな、俺は君の気持ちがいつ折れるか分からなくて怖い」
部長、と後輩の声がした。片田は言い残して、部活見学に来た新入生たちのところへ部活紹介をしに行った。
「知ったような口をきかないでほしいな」
気持ちがいつ折れるか分からない。そんなことは、よく知っている。自分の一番身近にいる存在が、そうなってしまったのだから間違いない。栄太は自分の精神力を過信しているわけではなかった。ストレスが溜まってイライラすることがある。うまくいかず落ち込んで、一日中寝て過ごすこともある。
しがらみから逃れ忘れ去るために、走りに打ち込んだ。いつもより集中できた気がする。皮肉なものだった。練習終わりに疲れがどっと押し寄せ、重りの付いた足枷がはめられている気分だった。
帰り際、片田にもう一度遊びに誘われたが、断って、家に帰ろうとした。校門へ向かっているとき、担任の橋本先生と出くわした。
「おーちょうどいいな」
橋本に呼ばれ、職員室を訪れた。手に渡されたのは、大量のプリントだった。
「これ、柳井に届けておいてくれないか。家が近いんだろう?」
「はあ、いいですけど……」
「助かるわー」
栄太は橋本とのそりの合わなさを、進級した初日に感じ取った。クラス全体で成長していこう、とか、受験は団体戦だ、などという言動が特に苦手だった。栄太はプリントの束をちらりと見ただけだが、一つ、プリントではなく封をした手紙を見つけて、思わず詰問した。
「これなんですか」
「柳井が、学校に来てくれるように」
橋本の口ぶりには、特に隠し立てする必要もないだろう、という風な割り切りがあった。
「そういうのは、お節介だと思います」
不登校の生徒を抱えているクラスの担任というのでは、職員内の評価に響くからですか。栄太はそう言おうとするのを自制して、言葉を選んだつもりだった。
「柳井も、きっと来たくなくて学校に来ないんじゃないだろうし」
栄太は黙り込んだ。自分が橋本を偽善者と断じることはできないと思っていた。彼女の問題に介入できる人間は、実はいないのかもしれなかった。
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