第二章(2)
優は三年生に上がってから、ずっと学校に来ていない。
二年生の終わりまで、全くそういうそぶりを見せなかった。これまでの優の学校生活は、もちろん栄太には優が学校に来ない理由が、まるで分からないのだった。
「今日は来てくれたんだ」
優は家にやって来た栄太に屈託のない笑顔を向けた。
「はいこれ、おにぎり。お母さんが作ったやつ」
栄太は差し出されたおにぎりを手に取って食べた。表面の塩味が程よくておいしかった。
「お母さんは?」
「パート。週六で入ってる」
優の母親は結婚後退職したが、例の件以来、看護師のパートに戻っていた。
「忙しそうだね」
「ま、仕方ないよねー」
へらへらと笑って、優。それが本心から出た言葉ではないことを、栄太は分かっていた。
優が学校に来なくなった直接の原因は、両親が離婚したことにある。そう本人は言っているし、一因ではあるのだと栄太も思う。
「ね、栄太今度水族館行こう!」
「今度って、来週か? 日曜日は休みだけど」
「決定」
いま、強引な優の笑顔に陰りは差していない。くさくさする気を紛らわすわけでもなく、心底から自分と遊ぶことを楽しみにしているだろうと察せられる仕草が、栄太を逆に悩ませていた。明日には、優が学校にいてもおかしくないような気がする。
担任の橋本の手紙は、なんというか、重いのではないか。帰りの電車の中、橋本に内緒で一度封を開けた手紙には、事態を重く受け止める意味の文面と、一度面談がしたいという旨が書かれていた。
彼女に直接、プリントの束を渡せそうになかった。栄太は優がお菓子を取りに言っている間に、優の学習机の引き出しの中にそれを黙ってしまい込んだ。
「一応聞いてもいいかな」
微笑みを返しながら首をかしげる仕草が、栄太には眩しかった。だからこそ、これから話すことが喉につっかえる。けれどなんとか、
「さすがにそろそろ、学校に来ないわけを教えてくれないか」
「……んー」
優はすこしだけ顔をしかめた。唇を尖らせ、しかし何も聞かなかったように、
「水族館の近くに、おいしい中華屋さんがあるって。だから朝は九時ごろ出発ね、おにいさんにもよろしく言っておいて」
「まあ、兄貴は断らないだろうけどさ……」
栄太の胸には、優が明らかに学校に関する話題を避けていることが伝わっている。それに対し、強引に学校に来させるつもりもない。
学校に行けないことに、うしろめたさを覚えている節はない。不登校の人は何か嫌なことがあって、それを引きずって悲しい気持ちになったり、孤独が寂しくて落ち込んだりするもののはずで、栄太もその表面の笑顔の裏を探ろうと必死なのだった。
「ね、ね、水族館行った後はさ、ここの喫茶店行ってみない?」
優は心底楽しそうに見える。不登校を、満喫している、とでも言えばいいだろうか。
「さっきから笑ってない! 楽しみじゃないの?」
「それはもちろん、楽しみだけど」
「だけど?」
「いや、何でもないよ」
優はちゃんと、将来のことを考えているのか。そう聞くことができなかった。
「夜遅いし、明日も早いからそろそろ帰るわ」
「うん、頑張ってるね。ファイト!」
ありがとう、という言葉代わりに、僕は優の頭を軽く引き寄せた。もどかしさが胸で煙のようにくすぶっていた。
――離れないで……ずっと、一緒にいて。
栄太が離婚の事実を聞いたときの、優の声だった。見捨てられるかもしれないという不安からか、彼女の両腕は震えていた。それを確かに感じ、共感しながらも、憤りの感情を栄太は覚えた。怒りの構成要素は二つあった。多忙と偽って家にあまり帰らず、不倫をしていた優の父親に対する怒り。そして傲慢なことかもしれないが、今まで家庭の事情についてほとんど相談をしてくれなかったことへの、自分の頼りなさへの怒り。当然ながら、家のことを栄太に相談したところで何の変わりもないし、できることはなかった。ただ、ずっと一人で家庭が壊れることへの恐ろしさに耐えていたのだと思うと、栄太の中で無意識の庇護欲がふくらんだ。
栄太は家に帰ると、スマートフォンをチェックする。宇佐からの連絡が届いていて、返信をした。
『すまん、次の日曜日は予定ができたから、自主練は休む』
『デート?』
『ああそうだ』
『楽しんできなよ!』
妙なキャラクターのスタンプとともに、そう返事が返ってきて、張りつめていた気持ちも少し和んだ。宇佐は心底、優しいやつだった。少しだけ、宇佐の優しさを脳裏に浮かべていると、睡魔がすぐにやって来たので、すぐに食事を済ませ、風呂に入ると、眠りにつこうとした。
ショートメッセージで連絡が入っていることに気づいたのは、そのときだった。担任の橋本からだった。栄太は何か悪いことをしたか、と恐る恐るそのメッセージを開いた。
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