第一章(1)

 山奥の、全校生徒が百名にも満たない小学校に入学した栄太は、学校から特例が出たので車で送り迎えしてくれるという両親の提案を断り、毎日徒歩で通学した。三十分ほどかけて登校する児童の分団に合流するので、毎朝六時に起きた。彼の長距離走の才能が開花したのは、この徒歩通学で足腰が鍛えられたというのが大きいのだが、本人には特に思い入れはなかった。車で無遠慮に、自然の匂いや空気を味わうことなく進んでいくのが、なんとなくせわしないと感じていただけだ。六年間、徒歩通学を通したが、覚えているのはゆったりした山の自然、それから体育の授業で長距離走が早かったことくらいだった。

 当然の成り行きで、市内の中学校に入学すると陸上部の門をたたいた。毎日学校の終わりに走ることができるだけで、幸せだろうと思った。

 入学した一年生の中では一番早かったが、上級生には歯が立たなかった。それを、さして気にしなかった。いずれ彼らのようになればいいし、放課後数時間早くなるためだけに走り続けることは必ず実るだろうと確信していた。

 ただ、小学校のころは悪くなかった学校の成績は、部活動でくたくたになりその後歩いて家まで帰った疲労から、まるでぱっとしなくなった。もともとやる気はないのだが、中学初めの定期テストで散々な点数を取って、いよいよ彼はバス通学に妥協した。もっとも最寄りのバス停から、彼の家まで歩いて二十分はかかるのだが。

 バス通学を始めた日さっそく、帰りのバス停で優と鉢合わせた。

「こうして二人でバス乗るの、久しぶりだね」

 優が言いながら、栄太の後ろの席に座った。異性の幼馴染と話をするのは照れ臭くなる年頃であった。小学校のころは、ほとんど彼女と接点を持っていなかった気まずさもある。それであいまいな返事をして、優のほうを向かなかった。

「栄太と全然話さなくなってたね」

「ん」

「学校でも、隅っこの席でずっと校庭を眺めて」

 偶然にも、栄太と優は同じクラスになっていた。授業中、白い土のグラウンドを眺めている自分に、時折彼女の視線が注がれることに気づいていた。

「部活動が待ち遠しいんだ」

「なんだか羨ましい!」

 優が投げやりな調子で言う。彼女は自分の本心をごまかすことが最近増えたように思う。

「クラスで浮いてるって言いたいんだろ」

 中学校に入学して早々、彼女は社交性を発揮して、一週間でクラスに溶け込み、中心となる派手目のグループに属していた。それが嫌味ではないだけの品も、あった。

 栄太は皆が友達に飢える四月を、没交渉的に過ごしたので、孤立していた。一匹狼のつもりなのあいつ、そんな声を聞いた気もする。

「駄目だよ、栄太が大人びてて、周りがみんな幼く見えるのは分かるけどさ」

「え?」

 栄太は自分でも思ってもみないような間抜けな声を発した。

「俺が大人びてる?」

「そうでしょ、だって栄太、変なこだわりとかなさそうだし。もてたいとか、ちやほやされたいとか、思わないの」

 いつになく優が言いづらそうにしているのを見逃さないではなかったが、なんと声を書ければいいか、栄太には分からない。彼にとって、変なこだわりがなく、下心のない清純な人とは、優そのものだったからだ。

 しばらく沈黙していると、

「小学校の時、ずっと見てたもん。栄太が走るの、好きなこと」

 そうだったのだろうか。栄太はやはり、心当たりがなく、気まずさで頭を掻いた。

「そういう正直なところが、栄太のいいところだよ!」

 栄太は苦笑いした。その後、深くため息が出た。喉のうちで凝り固まった何かが、彼女の支えによって吐き出されたかのように。

「栄太、最近疲れてるね。たまにはゆっくりしなよ?」

「まあ、部活忙しいし……てか、おかんかよ」

 それもそうだね、と言いながら、このやろ、と栄太を小突く。優の手が触れたわき腹がくすぐったく、制服から何とも心地いい、さわやかな香りがした。

 満たされた気分がした。久しぶりに、優とまともに話をした。

「羨ましいって言ったのはほんとだから」

 いつになく、しっとりした声色で優は言った。

「目標にできるものがあって、それ以外に目もくれない、へとへとになってもやり抜くって、なんかかっこいいよ」

 傍目にも分かるほど、栄太は赤面した。

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