序章(後)
少し経った。その日も幼稚園のバスは、園の近くに住む子たちを下ろした後、舗装のひびから雑草が飛び出しているような坂道に差し掛かる。彼らの家は市のなかで、かなり山奥に位置していた。栄太の家から幼稚園まで、二十分はかかる。栄太の家まで二人きり、車内でおしゃべりするのが常だった。
だが、この頃優はあまり話したがらなかった。両親での付き合いがあった日以来――つまりあの絵を見た日以来、優は栄太につんけんした態度を取り続けていた。栄太は彼女が褒めてくれないことが面白くなく、隣同士の座席に座りながら、一言も話しかけていなかった。バスは山道を登っていく。外の景色が、見慣れた緑のそれに変わり、林の茂みに目を楽しませていた。バスはばてることなく走り続ける。
栄太の家が見えてきた。降りる支度を始めると、栄太の真似をするように優も支度した。家の前に、母親が立っていて、バスが停車しドアが開いた。
「降りるの?」
優はうん、とにこやかに返事をした。母親も、実は今日遊ぶ予定があって、と添乗する先生に告げている。今回だけですよ、と先生。栄太には、優が何を考えているのか分からない。
「これ、返すね」
栄太の部屋に入ると、優はリュックの中にしまっていた絵を取り出した。栄太の絵の上から、赤や紫といった物騒な色のクレヨンで、掻き消すような筆跡で線が描き殴られていた。
「ごめんね、どうしても、ぐちゃぐちゃーってしたくなっちゃって」
優が申し訳なさそうに言った。
「どうして」
「だって……なんかずるいんだもん。私もそういう、集中できるもの、ほしいなって思うんだもん」
「優ちゃんはほら、すごいじゃん。みんなのリーダーになってて」
「そんなことないよ……」
優はそれきり黙った。しばらくして、リュックからクレヨンを取り出して、お絵かきを始めた。シマウマの絵だった。
「これはね、栄太くんなの」
「え?」
「シマウマになりたいって言ってたよね、だからシマウマになった栄太を想像して書いたの」
「そうなんだ、ありがとう」
どうも、もやもやした。
「イライラしててごめん、絵もごめんね」
大丈夫だよ、栄太はそう言いきれなかったので、黙っている。
「でもすごいんだよ。シマウマの体力はすごいんだから」
栄太は強がりのようにそう返した。
時間が過ぎた。もう帰るね、と優の母親に迎えの電話を入れるためにリビングへ行った。栄太の母親は、送っていくよ、と彼女に言った。栄太は一人で留守番をすることになった。
やりきれない思いが胸にぐるぐると渦巻いていた。彼は走りたかった。あこがれを絵にするだけでは足りないような気がした。そう思うが早いか、彼は家を飛び出して、家の前の坂道を下り方面に思い切り走った。スピードが出て、五歳の子の細い脚は、体重がかかる度に痛みを覚えた。彼は夢中になって足を回転させるが、彼の目に映る景色の移り変わりが、遅い。自分にはこれだけ、このスピードでしか走れないのだという現実を見て悲しくなるも、不思議と足を止めたくはなかった。道が平坦なところに差し掛かり、息も荒くなって苦しい。それでも、栄太はその小さな体で、小一時間駆け続け、幼稚園の前まで走りついたのだ。送迎バスが、ちょうど帰ってきていた。幼稚園の前の細い道路をのろのろと走るさまは、疲れ切っているように見えた。バスはついに彼を食べることなく見逃した! 自分は食べられるシマウマ。けれど、走り続けることが楽しいシマウマだ。胸に自信が満ち溢れた。すぐあと、栄太は力尽きて道端に倒れ込んだ。丸く大きな空が見える。道路の舗装は熱く、栄太の汗を乾かしてむっとしたにおいを発する。それが、心地いい。バスの添乗の先生が、心配して駆け寄ってくる。栄太は笑っていた。大口を青い空にぽっかりと見せて笑っていた。
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