第一章(2)

 優の振る舞いは、歳に不相応なまでに大人びているとはいえ、その根幹は、幼稚園のころと変わらない。

 周りの人間をまきこんで大きなことをするのが好きで、ひらめきのセンスがあり、やや仲間から外れてしまう子にも優しく笑いかける。

 中学生男子の間で、彼女の話がないはずがなかったのだ。これまで彼女の周りには、恋愛ごとに疎い人間がたまたま集まっていただけだった。短く髪を切りそろえ、小さなかわいらしい顔にそれは絶妙に合致していた。これは栄太の趣味嗜好だが、彼女の顔の小ささが際立つショートヘア、長いまつ毛に、ぽつりと浮かぶような泣きぼくろを頭に思い描くと、何ともたまらない気分になる。

 狭い校区の中学にありがちなことだが、色恋の話はすぐに伝播する。誰かが交際を始めると、次の日には学校中の噂になっていることを覚悟しなければならない。それで、優をひそかに好いている人間が行動を起こさないのを栄太は知っていた。男同士の、下品なクラスの女子評を、栄太は窓際で適当に流していた。あまりいい気分がしない。

「私、誰とも付き合わないよ」

 冗談めかして笑いながら、優はバスの中で栄太に言った。胸元に、さわやかな香りが漂っていた。たまに、誰誰が優に告白して振られた、そう聞くたびに胸騒ぎがしていたのが事実である。


 栄太は期待の新人として陸上部でもてはやされた。一年生の中でめきめき頭角を現し、上級生たちにも練習にプレッシャーを与えられる存在となっていた。練習終わり、人よりも一周だけ多く走ってから帰る彼の姿を、顧問はしっかりと見てうなずいていた。記録会での成績も、素晴らしかった。春ごろには、地区の一年生の中でベスト4に入るだけの実力がついていた。

 しかし、栄太の長距離のタイムが良かったのは、二年次の部活動の代替わりごろまでだった。

 風を切って走るのが楽しくて仕方がないので、勉学がおざなりになった。地元の国立大学の三年生になっていた涼平が、栄太の勉強の面倒を見ていたのだが、ついに彼はさじを投げた。近くの公立高校のどこにも受からないかもしれない、と両親にもくぎを刺され、栄太は涼平の車の送迎で市街地の塾に通うことになった。無機質なコンクリートの建物に吸い込まれて、人工的な学習にいやいや手を付けるのが苦しく、車内ではいつも頭痛がした。

 そこで、見知った顔に出会った。

 なぜ、どこで知り合ったか思い出せないでいると、彼が話しかけてきた。

「柳井ちゃんと幼馴染なんだって」^

 そう言えば、と栄太は思い至った。確か陸上の記録会で見たことがある。隣町の中学に通う、短距離走の選手だった。

「なんで知ってるんだ」

「応援席で、直接聞いたから。なあ栄太くん、優ちゃんを紹介してよ」

 名前も名乗らず、彼は馴れ馴れしい笑顔を向ける。それで思い出した。確か二百メートルで一位を取っていた選手だった気がする。石井(いしい)と言ったか。優に応援に来てもらった記録会といえば、ついひと月前の、二年生主体の新人大会のはずだ。

 どう断ればいいものか迷っていると、彼女と目の前の下品な笑いを浮かべる――年相応なのだろうが、ひどく醜く見える石井とを、引き合わせたくない自分に気づいた。自分が関わることではないかもしれなかった。栄太は彼に優の連絡先を教えた。

 部活終わりには待ち合わせた場所に必ず兄の車があった。彼はほかの部員より一周多くグラウンドを走ることをやめ、車にいやいや乗った。

 塾講師が入試対策の講義をしている間の退屈を、栄太は優のことを考えて過ごした。

 勉強には何の魅力も感じなかった。

 一生懸命勉強をして大学に入った兄は、たがが外れたように遊び呆け、口癖のように「就職したくない」と漏らしていた。夕食の場でそれをたしなめる両親も、どこかその言葉に賛同しながら、冗談めかして否定するような調子だった。今、勉強をすることが、そう言って怠ける将来のために勉強をするのだとしたら、そんなものはいらないと栄太は思った。

 けれど優は、真面目にそれに取り組んでいた。勉強をして、何か偉大なことを成し遂げる、そんな雰囲気を栄太は感じ取っていた。彼女に対する期待と羨望の気持ちがあった。彼女のようにはなれないし、どう考えても、走ることしか考えていない自分よりは彼女のほうが優等生なのだと思う。

 それだけに、あのバスでのひと言の意図が栄太にははかりかねた。

 自分がうらやましいと言った? なぜ? 俺には、走ることしか考えられない。栄太の心にも、中学生となって、将来への憧れや不安が産まれている。スポーツに携わる職業をしたいと、漠然と思っている。ただしかし、彼の若くして頑固な脳は、自分が競技者となる姿しか、イメージできなかった。もちろん簡単なことではないと分かっていた。走りが不調の時、寝る前の布団でずいぶん悩み苦しんだ。そうした夜は、自分の取り柄が走ることにしかないということに身もだえするのだった。

 すぐに、タイムが伸び悩み始めた。同級生のひとりが、彼のタイムに追いつかん勢いだった。それに、短距離の部であるが、その年の夏、二年生にしてブロック大会に出場した片田(かただ)のことが気になった。彼はあの大会に出場して、顔つきが変わった。来年は全国に出ようという気持ちの強さが出ていた。彼の存在が部活動に張りを持たせていて、練習に臨む部員の表情が引き締まった。

 栄太はその波にどうしても乗れずにいた。勝つことに対するこだわりが強いわけではなかったからだ。しかし、まわりがぐんぐんと力をつけていき、タイム差が狭まってくることで、足がすくむような感じがした。

 着々と成長していく肉食獣たちに、いつ追いつかれるかという恐怖。それを克服しようと、栄太は意識的に考えを変える努力をした。この部活動では、いやそれだけではない、競技をしていく上では、周りを食らう勢いでなければやっていけない。薄々気づいていたことだった。

体中がその思いにとらわれ、脚がうまく回らなくなった。次々と、彼の打ち立てた記録が塗り替えられていった。そうしてからやっと、自分が走るときの気持ちよさは、やはり無意識に自分が速いということからの優越感であったのだと気づいた。その実感は栄太をひどく傷つけた。くだらないと思っていたはずの気持ちが、実は栄太の根幹をなしていたのだ。練習の手を抜くようになった。走ることが楽しくなくなった。

しかし彼は走りをやめようとまでは思わなかった。長距離という競技にすがりつくように、みっともないとも自覚しながらも、惰性で走り続けていた。中途半端な心づもりで続けた部活動で、中学時代、才能はついに花開かないだろうという予感が、時折布団の上の栄太を縛りつけた。

夏前最後の記録会も、思うようにいかなかった。栄太は引退試合となった短距離走の選手たちと一緒に、泣いた。周りの選手は衰えた草食獣を見るように一瞬ちらりと栄太を見て、骨ばった貧相な血肉を目の当たりにし、その後見向きもせず追い抜いていった。栄太は脂肪の少ない骨ばった自分の手に、若さをもはや感じなかった。干からびた手の甲に涙を落としても、潤いに満ちることはなかった。心身ともに老いさらばえた気分で、それから過ごした。


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