【005】<2004/12/xx : Mikhail side> アンブラとミハイル~シルヴィー報告

「一つ報告があるんだけど」


 ミハイル=ワシリエヴィチ=オルロフは、直通の電話に出た途端聞こえてきた声に、すぐさま相手が誰だか判った。

 独特の、気怠そうながらも決して艶が落ちていない声。

 もう二十年近い付き合いになる相手、アンブラ=ゴットリープ=ウルリヒ。

 悪魔の頭脳を持つ、考えられる限り世界最高峰の研究者、それが電話の向こうにいる彼女だ。


「聞いてる? 何か反応したらどう」

「ん、あぁ、すまないな……、報告とは?」

「S-01のことなんだけど」

「あぁ……、例の被験体か」


 コードネームS-01。

 その宛われた名前と別に個人名もあるが、今はミハイルには思い出せなかった。

 アンブラが任されている研究所に於いて、初めての成功体と云えるモノ。


「欠陥が克服できたのか?」


 ミハイルはさほど期待に胸を膨らませはしなかったが、それでも一応は声を弾ませてみせる。

 欠陥。

 そう、成功体と云えるモノなのだが、一つだけ重大で致命的な欠陥があった。

 ただ、次の言葉を聞いて、ミハイルの思考は凍結した。


「脱走した」

「……」


 ──な、に……?


 心の中でそう呟くのが精一杯。

 まさに放心状態だった。


「……」

「心停止?」

「……い、いや……、大丈夫だ」


 漸く活動再開した頭で、言語活動も開始する。


「脱走しただと? どうやってあの包囲網を……」

「それだけの化け物だから、あの娘……、問題は人を殺せないという点だけ。良い証明になったでしょう」

「まぁ、な……」


 苦々しく頷く。

 ここのところブルガリア関係で色々動いていた彼としては、またブルガリア人か、と思わずにはいられない。

 S-01は、十数年前にブルガリア政府から貰ったモノだった。


「行き先は掴めているのか? いや、脱走はいつの話だ」

「数日前」

「……何故もっと早く連絡しなかった、と、咎めても無駄のようだな」

「私という個を理解してくれていて助かるわ……」

「何処に行ったか掴めているのか?」

「そこらへんの情報網はしっかりしたものよ、ウチの所員のコネって凄いわね……。シチリアに密航で入ったみたい。変な男二人が護衛についていたらしいけど」

「シチリア?」


 シチリアと言えば、イタリア半島の長靴の先端から少し離れて浮かんでいる島。

 ポエニ戦争の舞台になった地としても、アルキメデスの島としても、マフィアの島としても有名だ。


 ──何故シチリア島に?


 そう思うのも無理はないことだが、今ミハイルの頭にあるのは、それより別のことだった。


 ──何というタイミングだ……、アレクセイを向かわせたばかりではないか……。


 アレクセイ=セルゲヴィッチ=フセスラフ。

 一応はミハイルと並ぶ地位にある男だ。

 ロシアマフィアの中でも、世界に名だたるのはアレクセイの方であろう。

 それだけ表沙汰にも出ている、目立ちたがり屋の男だ。

 内実はといえば、ミハイルとは比べものにならない能力の低さだが。

 ただしかし、比べる相手が悪すぎるというのもある。

 アンブラ同様に、ミハイルも傑出し過ぎた才能の持ち主なのだ。


「どうしたの?」

「……いや、報告は助かった。それで、名前は何と云ったかな……」

「アンブラ」

「いや、君の名前を訊いているのではない」


 変わらぬ調子で言われ、ミハイルは憮然として切り返す。


 ──私が耄碌したとでも思ったか。


「冗談よ」

「……??」


 普段冗談など全然言わない淡々とした女性なだけに、ミハイルは疑問符を複数浮かべざるを得なかった。


 ──彼女の冗談を耳にしたのは、新世紀に入って初めてのことだな……。


「機嫌が良いのか……?」

「さぁ……、どうなのかしら。それで、名前、ね」

「あぁ、S-01……、名前は何だったかな」


 少しの沈黙の後──煙草を吹かしたようだ──、彼女はその名を告げた。


「シルヴィー=スビシュトフ」

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