【004】<2004/xx/xx : Silvie side> 水槽の中の脳
ド ク ン
心臓が跳ねる。
ド ク ン
それは違う。
ナ ニ ガ
文法が違う。
ド ク ン
心臓は跳ねさせられる。
ナ ニ ニ
心臓は脳に跳ねさせられる。
ド ク ン
脳は私にあるのでしょうか。
タ ブ ン
それは確実ではない。
ド ク ン
確実という現象はきっと非実。
ダ カ ラ
私は逃げられる。
ド ク ン
施設は堅牢。
ダ ケ ド
私は逃げられる。
ド ク ン
私は行かなくてはならない。
ド コ ニ
私は“外”に行かなくてはならない。
ド ク ン
私は“水槽”の“外”に行かなくてはならない。
施設は私にとって小宇宙。
それは頭蓋骨が脳味噌にとって小宇宙なのと同意義的で。
脳味噌は外に出ない。
私も外に出ない。
脳はクオリアを頭蓋骨の中だけで考え得て、外に出て実感することはない。
私もクオリアを此施設の中だけで考え得て、外に出て実感することはない。
脳が外に出たらどうなるだろうか。
答えは決まっている。
脳は人間の肉体の宿主だ。
宿は死ぬ。
私が外に出たらどうなるだろうか。
答えは決まっていない。
不定。
どうでもいい。
どうにでもなる。
私の代わりはいる。
人間の肉体にとって脳の代わりは無いけれど。
施設にとって私の代わりなら幾らでもいる。
否。
寧ろ、私よりも優れた人達はいっぱい在る。
パトナムという人の論文を読んだ。
『水槽の中の脳』という論文。
その表題通り脳科学についての思考実験論文。
哲学でもあるけれど。
でも、哲学と脳科学は密接不可分な関係にあると思う。
思想一般と脳科学は、過広義的でもある。
その論文から受けた刺激。
思い浮かんだ着想。
刺激を受けるのも着想を思い浮かばせるのも、私であって私でない脳味噌の役割だけれど。
私は脳味噌でないし脳味噌は私ではないけれど。
私は脳味噌を包含するし。
脳味噌は私に包含される。
話が逸れるというのは何の役割なのだろうかという疑問も湧くが、置いておく。
脳は己を律し切れていない器官なのか。
はたまた脳とは別に脳に影響を与える器官があるのだろうか。
置いておく、と云ったのに疑問が次々と浮かんでくる。
頭を振って、深呼吸。
物理学的脳科学と、言語・クオリア的脳科学とでは決定的に違うものがある。
それはそのまま、式で処理できるものかどうかということ。
パトナムの論文は後者に属するわけである。
私が施設から外に出たらどうなるのだろう。
微睡んでいる私が明確な覚醒を体験して、“日常”に戻るのだろうか。
それとも、漠然とした“外”が待っているだけなのであろうか。
私にとって“外”は幾つもの意味を含有している。
“建物”の外。
“施設”の外。
“水槽”の外。
一つ目。
単純に物理的に“建物”の外。
その“外”がどのような概念か、私には想像できない。
私は識らない。
覚えていない。
幼い頃、私は“外”にいたらしい。
しかし、私の記憶に“外”は無い。
ぼんやりとした、憧憬だけが有る。
二つ目。
個人の解放という意味においての“施設”の外。
私はこの施設内で、個人として扱われることはない。
人、ではない。
番号を宛てられ、機械として扱われる。
機械に成りきることができたのなら、私はここから逃げ出そうとも考えつかなかったろう。
この二つ目には、一つ目の物理的意味も自然に含有されている。
三つ目。
次元を超えての“水槽”の外。
この世界は空想的世界であった。
私はそのことを施設から出ることによって認識する。
私は“水槽”から出る。
その私を待っているものが何なのかは、稚拙な想像を巡らせるほかない。
パトナムの思考実験では否定されているが、私が“水槽の中の脳”だったらどうしようかという恐怖心もあるけれど。
それでも、この施設で実験体にされ続けているよりは幾分かいいと、判断する。
この場合、何に於いて“幾分かいい”のか分からない。
この三つ目には、一つ目の物理的意味と二つ目の個人解放的意味も自然に含有されている。
あぁ。
言葉を幾ら並べたところで。
私の決断は堅くも軟らかくもならない。
これ以上変化しない。
行こう。
“外”が私を待っている。
否。
それは文法が違う。
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