轢き逃げした僕と轢き逃げされた俺と

雑務

轢き逃げした僕と轢き逃げされた俺と

−−何も覚えていない......


「お前がやったんだろ!」

 僕は今、取調室にいる。目の前にいる強面の警察官がやたらと机を叩く。コンクリートで覆われたこの空間には、物理的にも精神的にもひんやりとさせられている。僕はどうやらひき逃げをしたらしい。しかし全く記憶がない。ここ数時間の記憶が....いや、数日、数ヶ月なのかもしれない。最後の記憶は部屋でレンタルビデオショップで借りたスウェーデン映画をビール片手に......いや、レンタルしたドナルド・フェイゲンのCDを聴いていたんだっけ。とりあえず僕はひき逃げなんかやっていないし、やっているのかもしれない。


「早く白状しろ!」

 そんなことを言われたって思い出せないものはしょうがない。しかし防犯カメラはバッチリと捉えていたようだ。僕のおしゃれな緑色のセダンが酔っ払いをはねとばすのを。緑のボディに鮮やかなクリムゾンレッドが映える愛車が山の奥の方に停めてあったらしい。残念なことに犯人は僕でほぼ確定みたいだ。ただ、暗かったため防犯カメラに僕の姿がはっきりと映っていなかったのが唯一の救いだ。


「死体はどこにやったんだ!」

 どこって......?


「お前、本当に記憶がないのか」

「どうやらそうみたいで......。捜査に協力したいのは山々なんですけどね......。僕、量子もつれに関する論文を完成させようと頑張ってて、僕のおかげで量子コンピュータの完成に一歩近付く予定だったんですよ、それが知らないうちにこんなとこいて......。なんなんでしょうね、僕の人生」

「それはもう二回聞いた。カツ丼でも食べて頭に栄養を回せば記憶も戻るかもな。......記憶喪失のふりしてるだけだろうけどな」


 −−カツ丼......そ、そうか!!


「実は、記憶に残ってる最後の夕食がカツ丼なんですよ」

「それがどうかしたのか?」

「確か財布にレシートが.......あった! えっと.......。ほら! このレシートの発行日時が11月26日22時21分、今日が27日ってことは昨晩からの記憶が飛んでるんですね......。まあそれはどうでもいいんですけど、事件があった時間が11月26日22時20分でしたよね。つまり、僕は事件が起きたときカツ丼屋にいた、これってアリバイになりますよね!」

「そんなレシートいくらでも偽装できるだろ、量子なんたらを研究してるくらい頭いいお前ならな」

 

 だが、確かにカツ丼を食べた記憶はある。あんな美味しい肉は生まれて初めてだった。今、目の前に出されたカツ丼に全く食指がうごかないほどに......。まさに身体中の血がみなぎってくるような......! しかし、それとは対照的に嫌な記憶も蘇りつつある。甲高く響く乾いたブレーキ音と赤いシャワーを浴びるフロントガラス。僕は本当の本当に......。


「そ、そうだ、死体! 死体が行方不明なんですよね? 山にもないし、僕の家にもない。ってことは誰か他の犯人の家にあるんじゃないんですか?きっと他の誰かが車を盗んでったんですよ」

「うーん......。それは根拠として弱すぎるぞ」

「そ、そうだ、車の鍵......! いつも財布に入れてるんですよ、それが......ほら、財布の中のないっ」

「だからなんなんだ、いい加減あきらめたらどうだ?」

「もうよくわかんないですよ......。なんで......。何も悪いことした覚えないのに......。」

 

 そのときだった。一人の若い警官が入ってきて状況は変わった。頭が真っ白になる、オセロで全滅させられた気分だった。

 

「被疑者の自宅から死体が発見されました!」

「どこにあったんだ!? 家宅捜索したときは見つからなかったはずだが......。」

「屋根裏部屋のクーラーボックスの中からです!」

 


 気分が悪かった。記憶がどんどん蘇る。あの日、僕は......。




 


 確かに............確かにあの日、僕は轢いた。あのとき、何も考えられなくなった僕は、咄嗟に死体を車のトランクに乗せた。火事場の馬鹿力というものだろう、素早くやってのけた自信がある。それから......えっと......ひどい頭痛がする。そして強烈なめまい。脳がその後のことを思い出すことを拒んでいるかのようだ。だが、砂嵐の中から徐々に映像が見えてくるように記憶が鮮明に蘇ってくる。トランクに乗せようとすると、死体だと思われたの口がゆっくりと動き出し、


「許さないからな」


 と、言ったのだ。かすかな声であったが、脳内に直接語りかけてくるようにはっきりと聞き取れた。青ざめた僕は慌てて運転席に飛び乗り、一目散に自宅へと向かった。何度もあの声がリフレインする。自宅へ到着するとを台所へ運んだ。必死すぎてどう運んだのかは全く覚えていない。そしてあの脳に響く恐ろしい声で語りかけてくる。


「呪ってやる」


 次の瞬間、僕はの喉を包丁で突き刺していた。震える手で、恐ろしい声を奪うように深く......。そしてナイフを握る拳をくるっと反すと、クリムゾンの水たまりが広がり、意外と簡単に肉の塊は抉り取れた。僕は、僕のデニムジーンズが返り血で染まっていることに気づいた。幸いなことにの趣味の悪いパープルのズボンはそんなに血を浴びていないし、浴びたとしてもあまり目立たないだろう。僕は、今履いていたデニムジーンズをゴミ袋の奥の方にねじ込み、のズボンを脱がして履く。ポケットには牛丼屋のレシートが入っている。


 そのとき、僕はこの状況の打開策を見つけたような気がした。木を隠すなら森の中、肉を隠すなら肉の中だ。実際にはなんの解決にもならないことぐらい分かっていた。しかし、何か行動をせずにはいられなかった。アドレナリンが分泌されているのだろうか? よくわからないが、そのときの僕に躊躇はなかった。

 

 肉塊を口の中に放り込む。案外いけるぞ......。妙にハイになっていた僕は、炊飯器にあったご飯をお椀に盛り付けて、試しに指を切り落としてその上に乗せてみた。訳が分からなくなっていた僕は、あぐらをかいたまま、耳を切り落とし、さらに頰をえぐり取りご飯の上に乗せてはかき込んだ。身体中の血がみなぎってくる......。このまま全て食べてしまえば......死体を完璧に隠せるぞ......。

 

 だが、何事にも許容量というものはある。顔の一部と右手を食べただけで満腹だ。クーラーボックスに詰めようと思ったがそのままでは明らかに入りそうになかったので、僕は1時間以上かけて解体を行なった後に詰めた。しかしなぜこんなにも力がみなぎるのか。その日の夜は一睡もできなかった。何度も込み上げてくるものを抑えるため、4度の手淫を時間をかけゆっくりと行った。

 



 やがて日が昇る。




 そして僕は今、独房にいる。





 ドナルド・フェイゲンもビートルズも聴くことのできない生活だ。ワインを飲むこともシャンパンを飲むこともできない。天井には古びた蛍光灯。ところどころ黒ずんだコンクリート。そして鬱陶しく飛び回る蝿。

 しかし、僕は全く退屈などしていなかった。


 あのときの味を忘れられない僕は、理性が利かなくなっていた。


 左手の指は全てなくなっている。そして右耳があった部分には、黒ずんだ肉が見えている。こんな不清潔な場所だとあっという前に腐敗してしまうみたいだ。だが左耳しかなくても聴覚に不自由はないものだ。まあ、こんなとこだし聴覚が完全になくなったとしても不自由なんかないか......。ゴキブリが頰に飛びつき、素早い動きで右耳があった部分から肉の中へと器用に滑り込んでいく。やれやれ。不思議と不快感はない。むしろエクスタシーと悦楽で全身が満たされている。だがあのとき味わった感覚までは程遠い。もっと、もっとだ......。右手が眼球に伸びるとコンタクトを外すかのような手際で掴み、視神経を引き千切る。そして頬張る。至福の瞬間だ。全身にイナズマが走ったかのような痛みが走る。次の瞬間、僕はのたうちまわっていた。ついさっきまで感じていた悦楽は一瞬にして全て消えてしまっていた。床を転げ回る。身体と頭を何度も壁にぶつける。燃えるような痛みと体内の不快感。日が沈み、また昇ってもこれは止むことはなかった......。


 




そういえば車......どうやって誰にも見つからずに山の奥まで持って言ったんだっけ......。あと死体は本当に一人の力で運べたの......?うーん......俺の想像力もまだまだか。また物語を作り直さなくっちゃ......。でもたくさん苦しめてやることができたかな......?


 あの日、車に跳ね飛ばされてしまった俺はほとんど死に近い状態だった。だが紙一重のとこで一命をとりとめた。しかし意思表示は全くできない。いわゆる植物状態だ。自殺することすらままならない俺は妄想しかすることがない。こんな状態になったのも、全部あいつのせいだ。そこで俺は物語を作っていくようになった。俺の未来を奪った見ず知らずのアイツを苦しめる、復讐の物語を......。この物語も俺の自信作だったが、まだまだ苦しめ足りない。さあ、次はどうしてやろうか......。

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