第3話 お姉ちゃんママとほ乳瓶
ピピピピピピ――!
突如として鳴り響く、場違いな電子音。
そのとき凪は不意に理解した。
これは、十歳の頃の記憶――。
今、自分は何度となく見た『夢』の中にいる。
目の前にいたのは、ずっと会いたい人。捜している人。
けれど明晰夢を自覚した瞬間から、夢の時間は儚く崩れ、景色はぼやけていく。
凪の伸ばした手は、虚しく宙を掴んだ―――。
――気付いたとき、凪は現実の世界にいた。
障子から柔らかな朝日が照らす中、布団の中で目を覚ました凪の手は天井に向かって伸びている。その手は、夢の中のものよりずっと大きい。
あれから時間は流れ、凪はもう高校生になっていた。
「ああ……また名前訊けなかったぁ! いや夢だから訊いても意味はないだろうけどさ、それにしたっていつも良いタイミングで起こすよなぁ」
悔しげに身を起こした凪は、枕元で鳴っていたスマートフォンの目覚まし機能をストップさせる。近くには桜の刺繍のお守りと、一冊の御朱印帳も置いてある。これらを枕元に用意するとあの夢が見られる。なんとなくそんな気がしていたからだ。
今もまだ、彼女との『約束』は果たせていない。
「あの子が俺を励ますためにあんな約束をしてくれたのはわかってるし、もう忘れてるかもしれないけど……俺は忘れない。あの子と再会して、そして!」
立ち上がった凪は、拳をぐっと握りしめる。
「結婚の約束を果たす! そのために、絶対この御朱印巡りを成功させるんだッ!」
強い決意と共にそう宣言した次の瞬間、部屋の襖がサッと開いた。
「なーぎーちゃんっ、新妻のお姉ちゃんですよー。おっきしよーねー♥」
甘ったるい声を上げてノックも遠慮もなく凪の部屋に入ってきたのは、高校指定のセーラー服の上に可愛らしいフリルエプロンを着用した一人の女の子。
サラサラと揺れる美しい金髪に、宝石のような青い瞳、きらめく笑顔。
きめ細やかな肌は処女雪のようで、細身ながら大変豊かな胸元がエプロンを窮屈そうに押し上げる。一見日本人離れした美貌の彼女は、れっきとした日本人だ。
「うわっ月姉! お、おはよう。つーか毎朝いきなり入ってくるのはやめれ!」
毎朝のことなので慣れてはいるが、それでもやはり驚いてしまう凪。
『月姉』と呼ばれた少女はパタパタと地団駄を踏む。
「あ~ん今日も起きちゃってるよぅ。どうしてお姉ちゃんのお仕事取っちゃうの? 一緒にお布団に入って、添い寝を楽しんでから優しく起こしてあげて、それからお着替えを手伝ってあげられないよ~~~!」
「おかげで早起きの習慣が身についたんですがおわかりか!」
「凪ちゃんのしっかり者! 年頃の男の子ならもっとだらしなくていいんだよ! それでね、お姉ちゃんにもっと頼るべきなの。あれもこれもぜんぶお世話されるべきなのっ! 『お姉ちゃん特権』使わせてよ~!」
「しっかり者が叱られる我が家……ていうか月姉。そのほ乳瓶は、何?」
新妻ではなく従姉妹の少女――『
「うん、あのね! これで凪ちゃんに朝のミルクちゅーちゅーしてあげたいなぁって思って! ほら凪ちゃん、おいでおいで~? お姉ちゃんママとばぶばぶしよ~♥」
「お姉ちゃんママ!? 朝っぱらから何を仰ってんの!? ついに月姉の
「お姉ちゃんママのミルク要らないの? それじゃあお着替え手伝うねっ。はい、まずはパジャマをぬぎぬぎしましょうね~」
「俺は幼稚園児かい! だー自分でやるからいいって! ほらほら出て行って!」
「あ~ん凪ちゃんのいじわる~~~!」
なんとか月音を部屋の外まで追い出して一息つく凪。毎朝お馴染みの光景であった。
それから身支度を済ませた凪は、まず和室で家族の仏壇へと手を合わせる。
「父さん、母さん、
そんな毎朝の日課を済ませた後は、良い香りの漂う食卓へと向かった。そこで月音と彼女の両親との四人で新鮮な焼き魚の朝食をいただき、食器を洗って片付けようとしたところで、月音の母親から呼び止められる。
「いいよ~凪ちゃん。毎日ごはんもお弁当も月音ちゃんに頼っちゃってるから、片付けくらいはお母さんがするよ。ほらほら、もうすぐバスの時間だよ」
「うわホントだっ、いつもすみません
「いいんだよ。それよりも、そろそろお母さんって呼んでほしいんだけどな~」
「凪! ママがこう言ってるんだからオレたちのことは遠慮なく『パパ』『ママ』とハートマークを付けて呼んでくれといつも言ってるだろう! この照れ屋さんめ!」
「さ、
巫女装束を纏うのは、純日本人である黒髪美人の淑やかな初音。そして金髪でいつもサングラスをかけている、少々ファンキーな印象の神主である朔太郎。この二人が月音の両親であり、今は凪の義親でもある。
――凪が月乃宮家に引き取られてから早六年。
当時は小学四年生だった凪も、今や身長百七十センチと立派に成長し、この四月からは月音と同じ普通高校に通い始めている。
「んじゃあ先に出てるよ月姉。あ、弁当持っていくね!」
「はぁ~い。鳥居(いつも)のところで待っててね」
ほ乳瓶の牛乳を律儀に自分で飲んでいる月音は食事が遅く、凪はそのまま先にリビングを出て行く。そんな彼の背中を、月音の両親は笑顔で見送った。
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