✿ 第一印 桜の社(やしろ) ✿

第2話 出逢いと別れ


『凪ちゃん。〝神人和楽〟って言葉を知ってるかな?』


 十歳の少年――凪は、その質問に答えられなかった。


『これはね、人と神様とが仲良く一緒に暮らしていこうねっていう〝結び〟の言葉なの。うちの神社のお祭りもね、神様と一緒に楽しんで、結び合うための行事なんだよ』


 一つ年上の従姉妹の少女は優しく、そう教えてくれた。

 だが凪は、そんな従姉妹の手を振り払った。神様という存在を信じなかった。

 もし本当に神様なんてものがいるのなら、なぜ両親と妹を助けてくれなかったのか。なぜ自分は従姉妹の住む『天乃湯あまのゆ神社』に引き取られ、今、こうして拝殿のそばに座り込み、一人で夜祭りの境内を眺めているのだろうか。



『――凪にいちゃんのウソつきっ!』



 妹が遺した一冊の御朱印帳。そこから、妹の最後の言葉が凪の脳裏に蘇った。

 凪は、拳を握りしめながら吐き捨てる


『本当に神様がいるんなら……今すぐここにきてよ。汐(しほ)にあやまらせてくれよ!』


 たゆたう灰色の世界。

 凪が見るものはすべてが色を失い、夏祭りの喧騒も彼の耳には届かない。何を食べても味がしない。心を閉じていた凪には、ただ夏の蒸し暑さが鬱陶しかった。

 そんなとき――凪の視界に見知らぬ少女の顔が入り込んだ。


『うわっ!?』


『ひゃあ!』


 凪は思わず声を上げ、その声に驚いた少女も身をすくめた。

 高校生くらいの年齢だと思われる、長い髪の美しい少女だった。太股が露出するほど丈の短い、個性的な桜模様の浴衣を着ている。

 凪の世界で、その少女だけは鮮明に色を持っていた。


『ご、ごめんね驚かせちゃったねっ。それより一人でさみしくない? せっかくのお祭りだから遊ぼうよっ! あ、これいっぱいもらったから一緒に食べよっか! わたあめとベビーカステラとりんご飴と、名物の桜餅と温泉まんじゅうもあるよ~! どれもおいしいよねぇ! あ、それともお腹いっぱい? それじゃあお面あげる! ハイ!』


 両手に山ほどの屋台料理を抱えるその少女は、初対面にもかかわらずペラペラとマシンガントークを繰り広げて凪に考える暇を与えない。邪魔だと思っても、それを口にする前にまた新たな話題が切り出される。立ち去ろうとしても腕を引っ張られ、半ば無理矢理にわたあめを口に突っ込まれた。味はしなかった。


 それでもなお笑っている彼女に、凪は怒りのあまり口を開いた。


『やめろよ!』


 すると――少女は笑った。


『やっとしゃべってくれたっ!』


 そのとき少女が見せた輝くような笑顔を見て、凪の中で何かが変化した。

 少女が両手で凪の手を掴む。


『一緒にあそぼ! 二人なら、きっとすっごく楽しいよ!』


 おそらく何の根拠もない言葉だった。

 強引に手を引かれながら、凪は境内を駆ける。前に進む。少女はただ笑顔で凪をあちこち連れ回しただけだったが、それだけで、凪の世界は変化していった。

 繋がる手の温もり、高鳴る自らの心臓の音がわかった。わたあめがとびきり甘くなった。夏の暑さや匂いまでが心地良く感じられた。


 少女が夜空を指差す。

 凪がそちらを見上げると――打ち上げ花火が大きな音を立てて美しく夜空を彩った。

 凪の世界は、色を取り戻していた。彼女と一緒にいるだけで、今まで凪の中で鬱屈と溜まっていたものが、浄化されていくようだった。


 花火を眺めている最中に、少女が言った。


『別れをこわがらないでいいんだよ。そのあとには、必ず出逢いがあるから』

『……え?』

『ひとりじゃないよ。キミの心には、今も、たくさんの縁が繋がってるよ!』


 微笑む少女が示すのは、凪の持つ御朱印帳。妹が遺したもの。

 中を開くと、地元のいろいろな神社の御朱印が記されている。そのほとんどは、凪が妹と共に巡ったもの。一つ一つに、妹との確かな思い出が残っていた。


 凪の瞳から涙がこぼれる。しゃがみ込み、思いきり泣くことができていた。


 その間も、少女はそばで笑ってくれた。心に寄り添ってくれていた。家族を失ってから涙すらも忘れてしまい、絶望と喪失感しかなかった自分の心を理解してくれているように感じられて、凪は優しい安堵感に包まれていた。だからなのか、別れの時間がやってきたとき、凪はとっさに少女の腕を掴んでしまった。


 すると少女は目をパチパチさせて、くすっと笑う。


『まだこわいかな? あっ、それじゃあ約束しよっか。また会う約束! その印として、これをあげるね。はいっ!』

『……お守り?』


 そのとき凪が手渡されたのは、どこか知らない神社のお守りだった。

 桜の刺繍が入ったお守りは、なんだかとても温かいものに感じられた。


『これはね、特別な縁結びのお守り。それを持ってくれていたら、きっとまた会えるよ。だからこわがらないで。いつも、一緒にいるからね!』

『いつも一緒って……じゃあ、ケッコンするってこと?』

『えっ? う、うーんと、そうだよっ! また会えたときにケッコンしようね! だから約束だよ!』

『……約束』


 小指を差し向ける少女。二人は、その場で指切りをした。

 それから少女は、最後に凪の頬へとキスをしてから言う。



『縁は途切れないよ。勇気を出したら、どんな人とだって縁を結べるよ――!』



 少女の後ろで、ひときわ大きな打ち上げ花火が光る。

 気付けば――凪の周囲には多くの人が集まってきていた。

 自分を引き取ってくれた新しい家族。近所に住む老夫婦たち。神社の氏子、学校の同級生たち。多くの人が、しゃがみ込んでいた凪に声を掛けてくれた。いや、ずっと掛けてくれていた。そばにいてくれていた。今までは聞こえなかった声が、ようやく凪にも聞こえるようになった。それが少女のおかげであると凪にはわかった。


 少女の笑顔が好きだった。

 暗闇から自分を連れ出してくれた彼女の眩しさに惹きつけられた。

 言いそびれたお礼を言いたかった。


 しかし、目の前にいたはずの少女の姿が――蜃気楼のように輪郭を失っていく。


『約束だよ! きっとまた、二人で――――――』


 少女の声が聞こえなくなる。凪は必死に手を伸ばした。


『あ……待って、待ってっ! おねがい! 君の名前を――!』

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