第14話 立川悠人
「最近あの子は来ないね」
ベッドで横になっている悠人に問いかけたのは担当医である麻田耕太郎。それまで毎日のように悠人の病室を訪れていた瑠璃が訪れなくなってから既に一週間以上が経っていた。
瑠璃が病室を訪れることで悠人が前よりも前向きになっていると感じていた麻田は瑠璃が姿を見せなくなって少し残念そうである。
「三亀も忙しくなったんですよ」
「そうなのか。また来てくれるといいね」
「別に……」
悠人に優しく声をかけた麻田であったが、当の悠人はベッドに寝転がりながら麻田とは反対の方向を向いている。ずっと悠人のことを見てきた麻田にとっては悠人が落ち込んでいることを見抜くのは造作もないことであった。
枕元には丸つけまで済んだ春休みの宿題が置かれており、悠人は詰まらなそうに窓の外を見つめている。春休みの宿題を終わらせれば、もしかしたら瑠璃が姿を現してくれない。そんなことを思って予定よりも早く宿題を終わらせたのが五日前。けれども宿題を終わらせようとも瑠璃が悠人の前に姿を現すことはなかった。
「それじゃ、僕は戻るから。何かあったらすぐに呼んでね」
「はい」
仕事に戻るために悠人の病室から出ていく麻田は扉を閉める前にもう一度悠人の方を見ると声をかけようとした。しかしすぐに考え直して悠人の後姿を見据えながら最後に言い残す。
「今日は月曜日で僕は夜もいるから」
「わかってます」
「ならいいんだ。それじゃ、またあとで」
最後のそう言い残した麻田はそっと悠人の病室の扉を閉めると静かに職場へと戻る。麻田の気配が完全に消えたことを確認した悠人は反対側に寝返りをうつと、枕元に置いてあった宿題を手に取る。
既にすべてを終わらせている宿題であるが、すべてが丸という訳ではない。中には一定数間違えた問題が存在しているが、それは全てケアレスミスによるものだ。丸付けをしながらケアレスミスに気づくと瑠璃の怒る声が脳裏をよぎった。
そして宿題の進捗を見せた時に漠然とまた怒られるんだろうと考えていたが、その時はまだ訪れていない。あの日以来、瑠璃が忽然と姿を現さなくなったから。
なぜ姿を見せないのか悠人は理由を聞いていない。けれども理由を聞かずとも瑠璃が姿を見せない理由はわかっていた。瑠璃は突発的に人が嫌いになるような性格でもなければ、病気のクラスメイトを見捨てるほど冷酷な人間ではない。
むしろ彼女は誰かのために己を犠牲にできる人間だ。だから彼女は自分のために姿を現していないのだと悠人自身も強く認識している。
瑠璃は悠人が決断をするのを待っているのだ。ただ悠人がその決断を下すのに躊躇っており、足踏みしたまま時を無駄に過ごしてしまっている。
「わかってるんだ。わかってるんだ」
ベッドの上で自分を責めるようにつぶやく悠人の手は僅かに震えていた。悠人を襲うのは測り切れないほどの不安と恐怖。
自分がどうすればいいのか悠人は既にわかっている。けれどもその一歩を踏み出す決心だけがまだつかないのだ。
四月に突然彼の目の前に現れた少女は一人やさぐれていた少年の心をかき乱し、そして気が遠くなるほど迷わせた。けれども少年は一回も少女に出会わなければよかったなどと思ったことはない。もう答えは出ている。あとは重い一歩を踏み出すだけで悠人は自分の本当の思いを成就させることができるのだ。
ふと窓の外に目をやると、そこには満開に咲く桜の花が咲いていた。枯れることを知らないように咲き続ける桜が悠人はずっと嫌いだった。けれども瑠璃がこの桜の花が好きだと聞いてからは不思議と桜の花に対する嫌悪感は抱かなくなった。
悠人は起き上がると引き出しから一冊のノートを取り出す。それは瑠璃が持ってきてくれた授業の内容をまとめたノート。
そのノートのおかげで悠人の学力は平均的な小学四年生のレベルを超えている。悠人はパラパラとページをめくりながらノートに問いかける。
「もし僕が躓いたら、君は僕を助けてくれるか。もし僕が挫折したくなったら、君は僕を支えてくれるかな。もし僕が恐怖に負けそうになったら、君は一緒に戦ってくれるかな。君は僕のことをずっと見ててくれるかな」
身勝手な願いだを問いかけたところでノートが返事をしてくれる訳はない。けれども悠人はノートに刻まれた瑠璃の一文字一文字を瞳に焼き付けるように見つめると、不思議と自分が一人じゃないように感じられた。
悠人は立ち上がると、部屋を出て麻田のもとへ走った。走ることは身体に悪いからと麻田に止められていたのだが、そんなことはどうでもよかった。
今は一分一秒でも自分の決心を麻田に伝えたかったのだ。一度でもそれを口にしたら、もう後戻りできない。だからそのことを伝えることで、自分を追い込もうとしたのだ。もう弱い自分とは袂を分かつ。
「麻田先生!」
「悠人くん?」
強い思いを胸に麻田の前に立った悠人。麻田は悠人が走ってきたことに驚いた様子を見せるが、強い意志を感じさせるその瞳を見て咎めるのをやめた。そればかりか自分から話しかけるのではなく、悠人の口からその言葉が出るのを待つ。
「僕、僕……」
悠人は自分の決意を告げようと試みるが、途端に口が乾き、言葉がのどに詰まるような感覚に襲われる。今までの自分ならここで意思を曲げていたかもしれない。だが今の悠人は一人じゃなかった。
瑠璃のノートを胸に押し付けるように強く抱くと、悠人は自分の意思を麻田に伝える。
「僕、学校に行きたい」
思いを伝えた瞬間、悠人は不思議と自分の身体が軽くなったように感じられた。同時にもう戻れないというわずかな後悔と、それ以上の期待が胸を包み込む。
それは悠人が初めて明確に自分の意思を伝えた瞬間であった。
翌朝、悠人の姿は病室にはなかった。悠人の姿は病院から離れた路上、つまり病院の外にあった。悠人の背中には真新しい黒色のランドセルが背負われており、恐る恐るだが確実に一歩ずつ学校に向かって歩みを進めている。
悠人は四年生になって初めて学校に行こうとしていたのだ。学校に行きたい旨を両親に伝えた時、悠人の両親は嬉しさのあまり涙を見せていた。両親の涙にむず痒さを感じた悠人は付き添いはいらないといって両親や麻田を病院に残して一人で登校する。
初めて歩く道に悠人は困惑しながらも、病院に戻ろうとはしなかった。
学校に近づくにつれて悠人の周りには同じ小学校に通う生徒たちの姿が見受けられるが、悠人に話しかける者はいない。逆に話かけられた方が悠人にとっては気まずいため、誰も話しかけてこないこの状況は悠人にプラスに働いていた。
そもそもクラスメイトでさえ悠人のことを知っている者は皆無なのだから、他の学年の生徒が悠人のことを知る由もない。ただし通学路に見慣れない少年がいるということに気づいた生徒たちもおり、先ほどから悠人の方を珍しそうに見ている。
奇異の視線に晒されながらもやっとの思いで学校を視界にとらえた悠人。その瞬間、心臓の鼓動が早くなって猛烈な恐怖心に襲われてつい立ち止まってしまう。足が鉛のように重くなり、身体中を鎖で巻かれたような感覚に陥った悠人はその場で動けなくなってしまった。
学校を前にして突然立ち止まった悠人を周りの生徒たちは不思議そうに見つめながらも歩みを進めている。彼らは校門の前に立つ教師に挨拶をしながら校門をくぐると校舎の中へ姿を消した。
その光景はあまりに一般的過ぎて違和感を覚えないが、悠人にとっては久しぶりの感覚だった。恐怖に足が竦み、その場に座り込みそうになる悠人。しかしその直前、悠人の瞳が一人の少女を捉える。
その少女は教師に挨拶をしながら校門の中に入っていく他の生徒とは違い、校門の傍の壁に背中を預けながらぼんやりと空を眺めている。両手でランドセルを持ったまま空を見つめる少女はまるで誰かを待っているようだ。
その不思議な光景に普通なら気になるところだが、校門の前に立つ教師も他の生徒たちも特に気にした様子はない。まるでその光景が見慣れた日常のように過ごしている。
けれどもその中で悠人だけは違った。その少女を視界にとらえた刹那、全身を包み込むような温もりを感じ、先ほどまで感じていた恐怖が嘘のように霧散する。
鉛のように重かった足は自然と前に歩きだし、そのペースは徐々に早くなり、身体を縛っていた鎖は嘘のように消えていた。
校門に向かって歩みを進める悠人は気づけば走り出していた。遅刻間際でもないのに走り出す悠人の姿は登校する生徒の中でも目立っており注目を集めるが、悠人にとっては些細な事である。彼は校門前に立つ一人の少女を求めて足を回転させる。
少女も走ってくる悠人に気づいたのか、最初は驚いた表情を見せるも、すぐに嬉しそうな表情を浮かべる。そして自分の前に悠人が辿り着くと、息を整え始める悠人に向かって優しく言葉をかける。
「おはよう、悠人くん」
その言葉を聞いた瞬間、悠人の中で何かが瓦解するような音がした。それはそれまで抱いていた不安や恐怖が崩れ去る音。
悠人は顔を上げて少女の瞳を見つめると、大きく深呼吸をして応える。
「おはよう、三亀さん。僕、学校に来れたよ」
普通の人にしてみれば学校に来ることなど容易で自慢するような事でもないだろう。しかし悠人にとっては大きな大きな一歩に間違いなかった。
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