第10話 才門幸子

「やっほー、立川くん」

「今日も来たんだ」

「言ったじゃん、いつも来るって」


 桜の花が満開に咲く四月の土曜日。いつもと同じように自分の病室で過ごしていた悠人の前には手提げバッグとコンビニ袋を片手にした瑠璃の姿があった。


 瑠璃は部屋に入るなり慣れた手つきで冷蔵庫を開けると持参したコンビニ袋を入れてる。そしてベッドの横に置かれた椅子に腰掛けると悠人の手元を見た。


「ふーん、ちゃんとやってんだ」

「どこかのお節介な委員長が毎日確認しに来るからね」

「それはよかった」


 ニコッと笑みを浮かべた瑠璃は手提げバッグから数枚のプリントを取り出すと悠人に差し出す。


「はい、これが今日の分」

「別に大丈夫だよ。昨日だってほとんどできたし」

「でも五問くらい間違えてたじゃん」

「あれはケアレスミスだよ」

「じゃあ今日は注意したから満点なんだよね?」

「それは……」


 誤魔化すようにテーブルに置かれたプリントにせっせと取り組む悠人。その姿を瑠璃は嬉しそうに見つめる。


 悠人が今やっているのは春休みの宿題である。本当ならもう期限を過ぎているのだが、元々春休みの宿題を受け取っていなかった悠人は特例で提出期限を設けられていない。けれども毎日のように宿題に取り組む悠人のペースなら数日中に宿題は終わるだろう。


「どう、わからない所はない?」

「三亀さんの持ってきてくれたノートのおかげでばっちりだよ」

「そう言われると頑張った甲斐があるな」


 悠人の枕元に置かれている瑠璃の名前が入った一冊のノート。それは瑠璃が授業で習ったことをまとめたものであり、悠人は毎晩そのノートに目を通すことでみるみる学力を付けている。


 瑠璃が病室を訪ねてから立った数分で今日の分の宿題を終えたのだから悠人の学力は平均的な小学四年生を上回っているに違いない。その正答率は相変わらず十割とはいかないが。


「ねえ、三亀さんはお腹空いてる?」

「うーん、まあまあかな。どうして?」

「今から病院のカフェテリアに行こうよ。今日は僕が御馳走するよ」

「いいよ、無理しなくて」

「これは僕なりの感謝の印だから」

「でも……」


 ベッドから立ち上がり、引き出しから自分の財布を取り出して部屋の外に歩みを進める悠人に対し、瑠璃は戸惑いながらもカフェテリアに向かう悠人についていく。


 病室からエレベーターを使ってカフェテリアを訪れた瑠璃は自分が予想していたカフェテリアよりも賑わっていることに驚きを見せる。普段は悠人の病室しか訪れない瑠璃には初めてのカフェテリアだ。


 カフェテリアに入るなり悠人が券売機の前にある人物を見つける。


「あ、サーモンだ」

「誰がサーモンだ」


 サーモンと呼ばれた女医は自分をサーモンと呼称した悠人に対して軽いチョップで挨拶をする。悠人はチョップを華麗に回避すると、瑠璃に女医のことを紹介する。


「この人は才門幸子。みんなからはサーモンって呼ばれてるんだ」

「私はサーモンじゃなくて才門。いい加減覚えなさい。それで、そっちは悠人の彼女?」

「こっちは三亀瑠璃。僕のクラスのお節介なクラス委員長」

「へぇー、よかったじゃん」


 悠人の紹介にニヤニヤと笑みを浮かべるサーモンに対して瑠璃はペコリと一礼をする。


「よろしくお願いします、サーモン先生」

「だから才門だっつーの」

「それでサーモンは何してたの?」

「見ての通り、これからお昼よ」


 そう言って自分の背後に置かれた券売機を指さすサーモン。券売機にはカレーや牛丼をはじめとした定番メニューからシチューやオムライスなどといった普通のカフェテリアではあまり見かけないメニュー、さらにはパエリアやフォッカチオなどと多種多様なメニューが並んでいた。


 すべて読むだけで疲れそうにあるくらいのメニューの数に瑠璃は改めて驚いた様子を見せる。


「どう、驚いた?」

「凄い量……」

「ここって日本でも有数のカフェテリアらしいよ。ね、サーモン」

「まあね。あと悠人、塩分には気をつけなさいよ」

「わかってるって」

「ならいいけど」

「でも、これだけあると迷っちゃいますよね」


 瑠璃がふと口にした言葉にニヤリと笑みを浮かべる悠人。直後サーモンが瑠璃の方を見つめながら力強く答える。


「私、迷わないので」


 サーモンは宣言通りお金を投入すると数あるメニューの中から迷うことなく鮭定食を選ぶと足早にカウンターの方へ歩いて行ってしまう。


 その様子を見た悠人が面白おかしく瑠璃に言った。


「ね、川に帰るサーモンみたいでしょ」

「確かに」


 見つめ合った二人は自然と笑みをこぼしながら、それぞれの昼を券売機で購入して窓際の席についた。




「三亀さんって変人?」

「いきなり失礼だね、立川くんは」

「だって初めて見たもん」

「そう? うちではこれが主流だよ」


 それぞれの昼食をお盆にのせて席に着いた悠人は開口一番で瑠璃の注文した一品に驚愕のまなざしを向ける。豊富なメニューで知られるカフェテリアだが、瑠璃は頼んだ品はそんなカフェテリアでも驚かれるような一品であった。


「カレー蕎麦なんて初めて聞いたよ」

「確かに券売機になかったもんね」

「それでまさか作ってもらうなんて……」


 悠人は戦慄したように瑠璃のことを見据えるが、瑠璃は全く気にした様子はない。券売機にカレー蕎麦がないことに気づいた瑠璃はカレーうどんの券を購入して、店員に渡すときにうどんを蕎麦に変えてほしいと注文した。


 突然のことに驚いた様子を見せた店員だったが、瑠璃による熱のこもった説明と、日本でも有数というプライドが合わさったことで瑠璃の希望の品を作り上げてしまったのだ。


 そうして瑠璃の前には世にも奇妙なカレー蕎麦が置かれていた。


「そんなに気になるなら一口食べてみる?」

「え、いいよ……」

「食わず嫌いはいけないと思うなー」

「だって絶対うどんの方がおいしいから」

「まあ四の五の言う前に食べてみなって」


 瑠璃に押し切られるようにしてカレー蕎麦を勧められた悠人は恐る恐る箸を器の中に挿し込む。そして数本の蕎麦を箸で挟み、ゆっくりと口に近づけていく。


 一割の興味と六割の不安、三割の嫌悪感が混じり合う中カレー蕎麦を口の中へ含んだ悠人はゆっくりと咀嚼を始める。しっかいと味わった悠人は無言で瑠璃に器を返すと、すぐに自分の頼んだ親子丼に手を付けた。


 期待のまなざしで悠人を見つめる瑠璃は美味しいという言葉が出てくると信じて疑わないようでソワソワしている。


「どうだった?」

「僕はカレーうどんの方がいいかな」


 だが悠人の答えはカレーうどんだった。


「なんでよ」

「だって僕、そもそも蕎麦があまり好きじゃないし」

「何よそれ、つまんない。悠人くんのばーか」

「悠人くん?」

「カレー蕎麦の素晴らしが分からない人間なんて名前呼びで十分ですー」


 瑠璃のよくわからない理論に首をかしげる悠人だが、普段から名前で呼ばれている悠人は特に違和感を覚えなかったのでそのままスルーする。




 なんだかんだで食事を終えた二人は窓の外に広がる桜の花を見ながら他愛のない会話を続けていた。


「ここの桜ってやっぱりきれいだよね」

「そう? 毎日見てるから何とも思わないかな」

「これだから贅沢者は。学校には桜の木が一本しか生えてないから全開しても心躍らないんだよ。でもここは桜の木がいっぱいあるから心が躍るんだ」

「学校なんて久しく行ってないから覚えてないや」


 特に寂しい様子も見せずに淡々とつぶやいた悠人を見て、瑠璃が真剣な眼差しを向ける。


「ねえ、悠人くんはいつになったら学校に来るの?」

「どうしたの、三亀さん。急に改まって」

「いいから答えて」


 いつにも増して真剣な表情の瑠璃に思わず面食らってしまう悠人。普段なら適当なことを言って誤魔化せそうなのに、今日ばかりはそうもいかない雰囲気だ。


 だから悠人もポツリとだが自分の考えを口にする。


「僕の場合は行く行かないの問題じゃないから。病気が原因で行けないだけだから」

「本当に?」

「本当だよ」

「でも今は元気じゃん。なら学校行けてもおかしくなよね」

「それは……」


 悠人の心の中で何かが引っかかる。


「私の目から見たら悠人くんは病気を理由にして学校から逃げているみたいだよ」

「なっ……」


 初めて面と向かって言われた言葉に悠人は言葉が詰まる。これまで周りの大人は良く言えば悠人のことを尊重し、悪く言えば悠人に強制をしてこなかった。


 だから初めて面と向かって本当のことを言われた悠人は言葉に詰まってしまったのだ。


「ぼ、僕は三亀さんと違って元気じゃない……それに僕の気持ちなんてわからないくせに……」

「確かに私には悠人くんの気持ちはわからない。でも悠人くんに伝えたいことはある」

「なんだよ……」

「昨日よりもほんのちょっといい日を今日過ごして、今日よりもほんのちょっといい一日を明日過ごせば毎日が最高なんだよ」

「意味わかんない……」


 顔を背けながらいじけるように答える悠人だが、心のどこかでは瑠璃の言葉を自覚していたのだ。自分が病気を理由に逃げていることを。


 でもそれでも周りの大人は悠人のことを怒らなかった。だから悠人は現実から逃げ続けてきた。しかし春になって悠人の前に現れた一人の少女は悠人の心の中にずけずけと踏み込んで、それまで抑えつけていた何かを踏み荒らしてくれた。


 不思議と悠人は瑠璃の存在が心地よかった。それまで自分のモノクロだった世界をカラフルにしてくれた一人の少女。


 その少女は悠人の中になかった選択肢を提示する。


「毎日病室で過ごすのもいいけど、たまには学校に来てくれたっていいんじゃないかな」


 瑠璃は立ち上がって自分のお盆を手にすると、もう一度悠人の方をしっかりとした眼差しで見つめる。


「私、悠人くんが来るのを学校で待ってるから」


 その言葉を最後に、瑠璃はカフェテリアを後にした。それどころか、それ以来、ぱたりと悠人の病室を訪れるのをやめてしまったのだった。

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