第7話 麻田耕太郎

 新たな季節の到来を告げる温かな春風が木々の葉を揺らし、桜の花が一面に咲き誇る四月。新生活を始める者にとっては新しい環境の象徴といっても過言ではない桜の花はその少年にとっては心を憂鬱にさせるものだった。


「はぁ……」

「どうかしたかい、悠人くん?」

「いえ。ただ今年も四月になったなって」

「そうだね」


 少年の言葉に応えるように窓の外に視線を移したのは白衣を着た男の胸元には麻田耕太郎と書かれた名札がつけられている。


 麻田は手に持っていたカルテに何かを書き込むと、ベッドの上で物寂しそうに窓の外の桜の花に目をやる少年に優しく話しかける。


「外に出てみるかい?」

「やめておきます。外に出たところで余計に落ち込むだけですから」

「悠人くん……」


 窓の外に咲く桜の花は無数の人の心を躍らせることはできても、麻田の目の前にいる立川悠人の心を躍らせることはできない。しかし今の麻田には悠人に何と話しかけていいのか分からず、彼はただ黙ってペンを走らせることしかできなかった。


 気の利く大人なら悠人を元気づけるような言葉でも掛けられたのだろうが、職業的に無責任なことを口にできない麻田は自分の貧相な語彙力を恨みたくなる。


 それに適当なことを言って元気づけたところで気を利かせた悠人が元気そうに振舞う姿はこれまでに何回も見てきた麻田にとって痛ましいものだった。両親にも元気な振りをする悠人が唯一本当の自分を見せるのは担当医である麻田だけ。


 本当の悠人の気持ちを知っている麻田は口が裂けても悠人に適当なことを言って元気づけることはできなかった。だから麻田は自分の仕事が終わるといつものように足早に悠人の病室を後にする。これ以上居座ったところで、互いにすり減ることがわかっていたから。


 しかしこの日はいつもと違っていた。部屋を出た麻田と入れ替わるようににして悠人の病室に入ってきたのは真っ赤なランドセルを背負った少女。その手には小さなコンビニ袋が握られている。


「やっほー!」


 病室に入るなり大きな声で悠人に挨拶を少女は遠慮する様子も見せずにベッドの隣に置かれていた椅子に腰を下ろす。


「君が立川悠人くんだよね?」

「そうだけど。君は?」

「私は三亀瑠璃。君と同じ四年三組でクラス委員長をやることになった。よろしくね!」


 元気な声で自己紹介をした瑠璃は近くにあった冷蔵庫を勝手に開けると持っていたコンビニ袋をそのまま入れて扉を閉める。そして背負っていたランドセルを降ろすと、中からプリントを数枚取り出して悠人に差し出す。


「ん!」

「これは?」

「ん!」


 困惑の色を見せる悠人にお構いなしにプリントを押し付ける瑠璃。ほぼ無理やりにプリントを渡された悠人は困りながらも内容に目を通すと、そっとベッドの上に置いた。


「これは何かの答え?」

「春休みの宿題。もしかして立川くんはまだやってないの?」

「やってないもなにも、まず貰ってない」

「ほんと?」

「うん」


 悠人が春休みの宿題を受け取っていないことに驚いた様子を見せた瑠璃は慌てて悠人のベッドからプリントを回収する。そしてそれをランドセルの中にしまうと無垢な笑みで悠人を見た。


「今のはなし!」

「どういう意味?」

「明日春休みの宿題貰ってくるから、それが終わった答えを渡すね!」

「別にいいよ」


 無垢な笑みを見せる瑠璃とは対照的に夢も希望も失ったような瞳をした悠人はベッドの上を見ながらポツリとつぶやく。


「どうせ学校行かないから」

「え?」

「三亀さんは担任の先生に言われて来たんだろうけど、明日からは来なくていいよ。それと担任の先生にも無理して僕のことは気にしなくていいって伝えておいてよ」


 その言葉は小学生が口にするにはあまりにも悲しく、あまりにも可哀そうな言葉だ。しかし当の悠人はそれが当然とばかりに口にする。


「なら明日も来るね」

「僕の話聞いてた?」

「もちろん。でも来なくていい理由にはならないじゃん」

「先生に怒られることを恐れてるなら気にしなくていいよ。今日にも母さんに頼んで先生に伝えてもらうから」

「別に先生に怒られるのが怖いって訳じゃないよ。それに今日ここに来たのは先生に頼まれたからじゃない」


 瑠璃はそう言って悠人の瞳を真っ直ぐ見つめる。その瞳は彼女の言葉に嘘偽りがないことをひしひしと感じさせるほど強い意志が感じられる。


 初めて向けられる眼差しに悠人はつい目を背けてしまう。


「三亀さんはどうして僕なんかを気に掛けるの」

「私がクラス委員長だから」

「クラス委員長だからクラスの全員を気に掛けなきゃと思ってるなら、それは偽善だよ。クラス委員長だからといってクラス全員を気に掛ける必要はない」


 悠人が冷たく突き放すように語るが、瑠璃は特に気にした様子を見せずに自分の話を続ける。


「それは立川くんの考えでしょ。私はそう思わないな」

「そうかな。クラス委員長でも学校に通えない一人よりクラスの友達十人と遊んだ方がいいと思うけど」


 言葉を投げつけるように口にした悠人。しかしその右手はベッドのシーツを強く握りしめている。


「クラスの子とも遊んでるよ。今日の休み時間だってドッジボールしたもん」

「なら放課後もこんなところ来るより遊べばいいじゃん」

「なんで。そんなの私の勝手じゃん」

「僕が迷惑だから」


 再び突き放すように言葉を投げつける悠人。けれども瑠璃はまったく引き下がる様子はない。


「やだ!」

「どうしてだよ! いつ死ぬかわからない僕なんかに時間を使うくらいなら友達と遊んだ方がいいに決まってるだろ!」


 先ほどと同じように瑠璃のことを突き離すように放たれた言葉であるが、震える声で紡がれたその言葉は瑠璃にというよりは悠人自身に向けられた言葉のようであった。


 気づけば悠人は瞼に涙をにじませて俯いており、ベッドのシーツを握る両手には玻璃のように光る涙がポロポロと落ちている。


「立川くん……」

「もう……帰れよ……」

「やだよ」

「なんでだよ、なんでそこまで僕にこだわるんだよ……」

「私にとってみれば立川くんも大切な友達の一人だから」

「なんだよ、なんだよそれ……」


 堰を切ったように泣き始めた悠人は自分のズボンを握りしめて必死に溢れ出る涙を抑え込もうとしたが、悠人の意志とは反対に涙は止まらない。


「僕は、僕はいつ死ぬのかわからないんだぞ...…」

「そんなの関係ない。私にとっては友達に一人だから」

「僕なんかの相手をしてたらクラスの友達ともっと仲良くなれないぞ……」

「それは大変かもね」

「なら……」


 涙を浮かべながらも計り知れない不安と僅かな期待を含めた眼差しを瑠璃に向けた悠人。そんな悠人に対して瑠璃は天使のような笑顔で応える。


「でも立川くんといっぱい仲良くなれるならいいんじゃないかな?」

「変な奴……」


 目を腫らしながらも、どこか嬉しそうに瑠璃のことを見つめる悠人。汲んでも枯れない井戸のように溢れていた涙はいつの間にか止まっており、その瞳には光が差し込んでいた。


「もし私がクラスで孤立したらその時は立川くんが責任をとって私と仲良くするんだよ!」

「ふん、僕は変な委員長のいるクラスになっちゃったみたいだな」

「そうかもね」


 悠人と瑠璃は互いに見つめ合うと、吹き出すように笑う。それは悠人が初めて見せる心の底からの笑顔だった。






「あれ、俺……」


 俺は目を覚ますと自分の胸が締め付けられるような感覚に陥っていることに気づく。時刻を確認しようと枕元に置いていたスマホを手に取ると、電源の入っていない黒い画面には頬と目の縁には先ほどまで泣いていたような痕跡が残されている。


 なんだろう、とても懐かしい夢を見た気がする。けれどもその内容が思い出せない。ただ悲しかったことは確かだ。


 俺はスマホに電源を入れると昨日送られてきたメッセージを開く。まだ返信していないメッセージを視界に収めながら夢の内容を思い出そうとするも、やっぱり思い出せない。


 だがその夢を見たきっかけがこのメッセージだということは心のどこかで確信している。


 俺はメッセージを閉じると、起き上がって大学に行くことにした。この時はまだ、そのメッセージの重要性に気づいていなかったから。


 

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