第6話 俺に天使が舞い降りた!

 その日、俺の通う大学には天使が舞い降りた。これは比喩でもなければ俺の妄想でもないありのままの事実だ。


 天使が舞い降りると辺り一帯の空気は一変する。様々な人々の声が入り混じっていたはずの空間が一瞬にして静寂に包まれ、まるで時の流れが止まったのかのように人々の動きが止まる。彼らは男女関係なく一様にこの世に舞い降りたばかりの天使に目を奪われていたのだ。


 絹のように滑らかな白い肌、翡翠を連想させるような透き通った双眸、見る者を魅了する鮮やかでいて派手さを感じさせない金色の髪、スラリとしながらも服の上からでも確かにわかる存在感のある双丘をはじめとした柔らかそうな肢体。


 俺の持つ語彙力を総動員して最大限に表現したその天使の名前は女神リルカルデリア。魔王軍の侵攻によって危機に瀕している世界を救うために単身この世界にやってきて出会い系アプリを使って勇者を探していた女神であり、先日マッチングした俺と実際に対面してくれた天使である。


「ユトさん!」


 リルさんはもう一度だけ俺の名前を呼ぶと手を振りながら俺の方に向かって駆け出す。リルさんが通りすぎた地面には花が咲いていたのではないか錯覚させるほど甘い匂いが漂い、周囲にいた者たちを虜にしていく。それどころかリルさんの目当ての人間が一体どのような奴なのかと睨みつけるようなまなざしを俺に向けていた。


 普段の俺ならまず浴びないような嫉妬のまなざしが一斉に俺に向かって飛ばされるが、俺はまるで気づいていないかの態度を取る。いや、途中から本当に忘れていた。


「来ちゃいました!」


 だって俺の目の前まで来てそこら辺の天使が霞むほどの笑顔でそんなことを言われちゃったら周りの目なんてどうでもよくなるでしょ。アニメの世界だったら主人公は優越感凄いんだろうなーなんて思ってたけど、実際に体験してみると予想していた優越感なんて微塵も湧いてこない。


 俺に余裕がないだけかもしれないが、今の俺の心を包み込む感情は比類なき幸福ただ一つであった。


「お、お、お、お、お知り合いなのか? 悠人の?」


 リルさんの美貌を前にして人類の進化が嘘のように退化してしまった俊樹は俺のことを震える手で指さす。まだ言語を話す俊樹の反応はむしろ軽傷な部類であり、向こうの側ではゴリラのように雄たけびを上げている男が見える。


 ここは動物園か?なんて思いたくなるような輩が数名目についたが、俺は敢えて気にしないように心掛けた。


「私はユトさんの……あれ、ユトさん、私ってユトさんの何なんでしょう?」

「うーん、大切なパートナーですかね」

「あ、そうですね! 私はユトさんのパートナーでリルって言います」


 リルさんの俊樹に対する自己紹介を聞いて俺は勝った!と内心で叫んだ。おそらくリルさんは俺が異世界を救うための大切なパートナーという意味で口にしたのだろうが、異世界のことを知らない俊樹からしてみれば恋愛的なパートナーと誤解したに違いない。いやー日本語ってムズカシイなー。


「お、俺は悠人の友達で、この大学に通っている、えっと西尾俊樹って言います!」

「いや、お前の名前は東尾だろ。なに星座早見表を使う小学生みたいな間違いしているんだよ」

「そうだった! 俺は北尾ヨシキです!」

「お前わざとだろ? それわざとだろ?」


 リルさんのあまりの美貌に自分の名前が分からなくなってしまった俊樹は何を血迷ってか何も持っていないはずの手であたかもハンカチを持っているかのようにゴシゴシと顔中の汗をぬぐい始める。


 あ、こいつはもうだめだ。俊樹が故障したことに気づいた俺はリルさんだけに集中する。


「それにしてもよく俺の居場所が分かりましたね」

「実は結構大変だったんですよ。ほら!」


 そういってリルさんが俺に見せてきたのは出会い系アプリの俺のプロフィール。しかしそこには通っている大学などは記載されておらず、ただ職業欄に学生だけが記入されていた。


「これでどうやって?」

「ここにあるお互いの距離を見ながら来ました」

「それってすごい大変なことじゃ!?」

「はい、でもユトさんに会いたかったから頑張りました」


 リルさん使ったのはアプリを利用している相手同士の互いの実距離が分かる機能。本来は自分の近くにいる人とマッチングしやすくするための機能なんだが、リルさんはこの実距離を頼りに俺を探し当てたことになる。これは写真の中の事物の瞳に反射する風景から自宅を特定する以上に高度な技術だと思うのだが、リルさんは出来て当然という感じだ。恐るべき異世界の女神。


「でもごめんなさい。俺、午後も授業で」

「それなら大丈夫です。特にこれといった用事があったわけじゃないですから」

「ならどうして俺に会いに?」

「だから言ったじゃないですか。ユトさんに会いたかったからって」

「それだけの理由でですか?」

「はい。それにこの前ホテルで頭を打った後、ユトさんは大丈夫か心配になって」

「リルさん……」


 なんだろう、俺の心がブワッと温かい何かに包み込まれるような感覚だ。これは恋なのか、恋なのか、いや恋に間違いない。


 俺の身を案じてくれただけでなく、気が遠くなるほどの労力を使ってわざわざ俺に会いに来てくれたリルさん。マジで女神様だ。いやまあ本物の女神様なんだけど。


「おい、今あの子ホテルって言わなかったか?」

「え、あんな冴えない奴と?」

「釣り合わなすぎでしょ」

「うわー絶対金だよ。金に間違いない」

「いやいやあれは弱みだって。見るからに陰湿そうなナメクジだもん」

「さいてー」

「弱みを握ってあんな可愛い女の子を脅すなんて」


 なぜだろう。とてもいいはずの話だというのに、周りから向けられるのは蔑視の視線。それも犯罪者を見るかのようなその視線は容赦なく俺の心を突き刺す。


 心を包み込んでくれていた温かい何かがなかった今頃俺の心はヒビの入った壊れかけのガラスの心ではなく、ボロボロのスポンジみたいになっていただろう。


 俺はそっと自分の胸を撫でた。


「もしかしてまだ痛みますか?」

「いえ、ちょっと心にヒビが……」

「大変です! すぐに病院に行きましょう。私も付き添いますから、ね!」

「お気になさらず。リルさんを見ていたら治ってきました」

「え?」


 俺の言葉にキョトンとするリルさんだが、周囲にいた人々(特に男ども)が俺に嫉妬のまなざしを向けてくる。ふん、ざまあみろ! 俺のことを変に言うからだ!


 心に余裕のできた俺は遅れて優越感に浸ることでヒビの入ったガラスの心を修理する。だがこのまま留まっても精神衛生上よくないので俺たちはさっさと食堂にいどうすることにした。もちろん食堂までの道中でもリルさん周囲の注目を集めすぎたのだが、それはまた今度語るとしよう。


 それぞれ自分が食べる昼食を手にした俺たちは食堂の中にたまたま空いていた四人席に腰を下ろす。席順は俺の隣にはリルさんが座って、俺の正面には俊樹が座っている。正面から今まで以上に嫉妬のまなざしを感じたが俺は気にしないことにした。


「いっつも思うけど、悠人の好みってちょっと変わってるよな」

「そうか?」

「ああ。だってカレーうどんじゃなくてカレー蕎麦なんて邪道だろ」

「そんなことないだろ。リルさんだって俺と同じカレー蕎麦なんだし」


 俺は隣に座っているリルさんの目の前に視線を移す。その際リルさんの豊満な母性を感じさせる二つの山脈が視界に入ってしまい、視線を十五秒ほど奪われてしまったがリルさんには気づかれていないはずだ。なぜならリルさんは目の前にある器の中身を物珍しそうに見ていたから。


「これがカレー蕎麦って言うんですね」

「もしかしてリルさん初めて食べる?」

「はい! カレーうどんなら知っていたんですが、カレー蕎麦は初めてです!」

「ならどうしてカレー蕎麦を?」

「ユトさんの好きなものを私も知りたいからです!」

「リルさん……」


 なんだろう、また心が暖かい何かに包まれた気がした。鼻腔をくすぐるまろやかなカレーの風味とはまた別の温かさだ。


 それに俺はカレー蕎麦の素晴らしさをリルさんに体感してもらえることにワクワクしていた。もしリルさんがカレー蕎麦を気に入ったなら異世界にもこのカレー蕎麦を流布してカレー蕎麦で一儲けしよう。リバーシ作る程度で儲けられるならカレー蕎麦なんか一瞬にして億万長者だ。


 もし事業が成功したら今度はカレー蕎麦が主人公の物語でも作っちゃおう。そうだな、タイトルは『カレー蕎麦(かっこいい)』とかでどうだろう。脳内で次々に湧き上がるアイディアに俺は微笑みが止まらない。まさにこのすばらしいカレー蕎麦にご祝儀を!


「俺にはカレー蕎麦の魅力がまったくわからないぜ」


 俺がカレー蕎麦妄想を続けていると、正面に座る俊樹が肩をすくめるように言う。


「まったく、これだから素人は」

「素人ってお前……」

「いいか? そもそも蕎麦って言うのはうどんよりも細い分、咀嚼回数が大幅に少なくて済むから時間がないときには時間短縮につながる。でも咀嚼回数を増やせば増やすほど、蕎麦は新しい一面を口の中に広げてくれる」

「別にうどんも変わらないだろ」

「確かに。けどな、熱い上に普通の汁よりも粘性が高くて熱がこもりやすいカレーにおいてはうどんよりも蕎麦の方が食べやすいのは事実だ。それに蕎麦の方が体感的に多く感じられるから同じ価格でも満腹感が違うんだよ」


 俺の説明に呆れた俊樹は俺のことを無視して先に食事をはじめ、リルさんもリルさんで蕎麦をフーフーしながら口にしている


「どう、リルさん。初めてのカレー蕎麦は?」

「はい、とてもおいしいです。それにどこか懐かしい感じがします」

「それはよかったよ」


 リルさんの感想に満足した俺は二人と同じように食事を始める。俺は久しぶりに食べるカレー蕎麦に夢中になっていたため、テーブルの上に置いてあったスマホにメッセージが届いていたことに気づかなかった。


 結局そのメッセージに気づいたのは大学からの帰り道。リルさんはなし崩し的に俺と一緒に午後の授業を受けてから家に帰った。とても優越感が半端なくて、とても幸せでした。そう言えばリルさんってどこに住んでいるのだろう、などと考えながら俺はロック画面に表示されていたメッセージに目を向ける。


 表示されていた内容は以下の通りだ。



 三亀瑠璃『やっほー、久しぶり! 今度会えないかな?』



 なんとも胡散臭いメッセージだが、その名前を見た瞬間、俺は吐き気にも似た激しい動悸に襲われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る