第5話 平日だって会いたいんです!

「よっ、悠人!」


 軽い挨拶とともに俺の背後から突然背中を思いっきり叩いてきたのは黒縁眼鏡をかけた冴えない成人男性、ではなく俺の友人の東尾俊樹。彼は俺と同じ大学に通う友人であり、時刻はちょうど正午になろうとしていた。


 互いに異なる授業を受けていた俺たちは授業が終わると連絡を取り合って待ち合わせをしていた。目的は昼食を一緒に食べるためであるが、午後の授業は同じ授業を受講していることも理由の一つである。先に断っておくが、別に俊樹以外の友達がいないという訳ではない。断じて違う。


「俊樹、いきなり背中を叩くのはやめろって言っているだろ。もしびっくりして俺の心臓が止まったらどうしてくれるんだよ」

「何言ってるんだ。人間がそんな脆い構造だったら今頃世界中の人口は急激な減少の一途をたどっているに違いない」

「だからといって叩いていい理由にはならないだろ」

「それもそうだな。次から気を付けるよ」


 俺は知っている。俊樹が言う次というのは次回ではなく次の人生だということを。なぜなら俺はその言葉を数えるのが億劫になるほど聞いているが、一向に直そうという努力が見られないから。


「それより大丈夫か?」

「何がだ?」

「その手に持っているのだよ」

「ああ、これか」


 俊樹が指摘したのは俺が持っていた一冊の本。大抵の大学生なら空き時間に特に意味がないのにスマホを弄るのがデフォルトだが、意識高い系の大学生は空き時間にも本を読んでいる。そして今日から俺も意識高い系大学生の仲間入りを果たしていたのだ。


 ※これはすべての大学生に当てはまるわけではなく、試験や課題に追われているパターンもあるので街中で見かけても生暖かい視線で見てあげてください。


「その本はどう見ても課題っていう感じじゃないよな」

「まあな」


 俊樹が訝しげに見つめる先にある本には『これで君も今日から交渉人! 絶対に相手を堕とす十の交渉術』と銘打たれた本があった。


 真新しいこの本は昨日俺が本屋で五時間かけて悩んだ末に購入したものである。リルさんと実際に出会った日曜日に予想外の異世界行きが決まってしまった俺であるが、魔力の関係上すぐに異世界行きとはならなかった。


 そこで俺は来たるべきその日に備えて少しでも自分のスキルアップをしようと昨日の一日を潰して本屋を巡ったのだ。ちなみに俺は時間割をうまく組み上げたために月曜日を全休にすることができ、毎週のように三連休の恩恵を享受している。


 さて、なぜ俺がこんな本を読んでいるのかというと、もちろん異世界生活に役立てるためだ。異世界に行くといっても俺には超人的な能力があるわけでも、専門家並みの知識があるわけでも、優れた技術を有しているわけでもない。


 確かにパッとしない人間が異世界に行っても活躍できるかもしれないが、やはり事前に準備ができるなら準備することに越したことはないだろう。そこでどんな世界でもすぐに使えそうな交渉術から手を出してみたのだ。交渉術があれば商人と対等に渡り合えたり、恰幅の良い貴族の懐に上手く潜り込めたり、はたまた美少女を騙して仲間にできるかもしれない。


「ま、俺には崇高な信念があるんだよ」

「なるほど。頭を打って病院に担ぎ込まれたらしいが、相当打ちどころが悪かったみたいだな」

「はは、言ってくれるじゃな……今なんて言った?」


 今のは俺の空耳だろうか。もしかして俊樹は俺が病院に担ぎ込まれたと言わなかっただろうか? いや、でもいくら友人だからといってそこまで把握しているわけはないだろう。


「いや、だから悠人が日曜日にラブホテルで頭を打って病院に救急搬送されたって話だよ」

「なんで知ってるんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 驚きのあまり大声で叫んでしまった俺は一瞬にして周囲にいた人々の視線を集めてしまうが、今はそれどころではなかった。


 あの日、俺の身に起きたことは当事者である俺と、一緒にいたリルさんと、病院にいた麻田先生しか知らないはずだ。なのにどうして俊樹がそのことを知っている。まさかリルさんが俊樹とつながっていて、実は異世界行きもドッキリか何かの一種だとでもいうのか。


「俺のサークルの後輩が友達の見舞いに行ったら、たまたま担ぎ込まれる悠人を目撃したそうだ。その時に救急隊の人がラブホテルで頭を打って意識を失った男性って説明してるのを聞いたらしくてな、すぐ俺に連絡してきた」

「まじかよ……」

「まあ同じ男として気持ちはわかる」


 俺の肩に手をのせながら生暖かい視線を向ける俊樹だが、その口角はプルプルと震えており、今にも吹き出しそうなのを無理やり抑えつけているようだ。


「それで、前か、後か?」

「何がだよ?」

「そりゃお前、ラブホテルなんだからやることは一つしかないだろ」


 あーはいはい、そうですね。ラブホテルなんか行ってやることといったら異世界に行くことしかないよね。俺は不貞腐れ気味に答える。


「前だよ」

「プハッ、もったいねー。せっかく卒業するチャンスだったのに張り切りすぎて頭打って気絶とか可哀そうすぎるわ」

「悪かったな。お前だってまだなくせに」

「俺は敢えて守ってるんだよ」

「はいはい」

「もし後だったら卒業祝いに今日の昼飯奢ってやったのに、残念だなー」


 まったくもって残念な様子ではない俊樹はバシバシと俺の肩を叩いた。それどころか隠す気がないほど嬉しそうに俺の肩を叩いている当たり、俺が卒業できなかったことが相当嬉しいのだろう。


 俺だって卒業出来るもんなら卒業したかったけど、気づいたら世界の命運がかかっていたんだから卒業云々じゃないって。それに異世界に行って大活躍すれば簡単に卒業できるだろうから、今は目先の利益よりも少しでも自分のスキルアップする方が大事って訳よ。先人だって「急がば回れ」って言葉を残しているくらいだから間違ってない。


 とまあ、そんな感じで俺は自分を納得させた。


「奢りはないけど、とりあえず昼飯食いに行こうぜ」

「そうだな。早くいかないと混むし」


 俺らが昼食を食べるのは基本的にキャンパスに内設されている三つある食堂の内の一つだ。キャンパスというのは言ってしまえば一つの独立国家のようなものであり、学生はその独立国家の中で日々を過ごしている。


 その独立国家の中で食事をとれる場所は大小含めて五ヶ所あるが、昼食をがっつりととれる場所は三ヶ所だ。うちの大学はキャンパス内に食堂がいくつもある珍しい作りみたいだが、俺からすれば学生数に対してキャパが十分でない席数の食堂が一つしかないのはいかがなものかと思う。


 昼休みというには短い時間のため、効率的な昼食が求められる大学生にとって並んだり待ったり時間は本当に無駄な時間だ。ましてや価格の安い大学の食堂は一般開放されているために利用者の数は計り知れない。だから少しでも出遅れると座ることさえままならない食堂も多いらしい。


「悪い、ちょっと待ってくれ」


 いつも利用している食堂に向かおうとした俺であったが、ポケットにしまっていたスマホがメッセージの受信を知らせる。


「リルさん?」


 誰からのメッセージかと思えば、そこにはリルさんの名前が表示されていた。リルさんから送られてきたメッセージの内容は今から会えないかという旨のものだ。お誘いは嬉しいが、俺は午後も授業があるために断りの連絡を返す。




ユト「ごめんなさい。今は大学なので厳しいです」

リル「知ってます。だから来ちゃいました!」




 すぐに返ってきたメッセージに書かれていたのは目を疑うような内容だ。確かに大学は一般開放されているが、だからといって異世界の女神がそう簡単に来れるだろうか。


 なんて事を考えていると。俺を呼ぶ声がした。


「ユトさん!」


 俺のモノクロな大学生活に天使が舞い降りました。

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