第265話 大輪の花
「なんだって?」
アレサンドロは両手を広げて叫んだ。
「本当はなにも覚えちゃいない?」
「ええ」
カラスは申し訳なさそうにうつむいた。
「アーレサンドロー、彼女を責めるな。私が言ったのだ。針を抜く瞬間、あれは間違いなく愛の言葉を叫んだはずだと」
「ハサン、やっぱりあんたが糸を引いてやがったのか!」
「だが叫んだのだろう?」
「う、うるせえ!」
「そのときと同じ言葉をもう一度くり返してみろ、アレサンドロ。カラスにではない、自分自身の魂にだ」
「う……」
「そして、よくよく話し合うのだな」
「おい、どこへ……」
「来賓の方々のお相手をしてくる。カジャディール猊下のお言葉を借りるならば、接待は外交の基本のキだ」
水源地広場の一角には、全面ガラス張りの鳥カゴのような、非常に美しい建築物が建っている。たとえば、ちょっとした趣味の集まりをしたり、子どもたちのために学習塾を開いたり、夜は男たちが交歓会を開いたり、と、様々な機能で自由に使うことのできる、公民館のようなものだ。
いま三人がいるのはその一室で、グライセンからの客人たちが、控え室として使用しているのもここであった。
ハサンは、水滴をそのまま大きくしたようなクッションチェアから腰を伸ばして立ち上がると、
「では、陛下」
と、大仰に頭を下げて退場していった。
「くそ……あの野郎」
ウインクしていきやがった。
アレサンドロが歯噛みしていると、その手をそっと、カラスが包みこんだ。
「まずは座りましょう。ね」
「……いや」
「ごめんなさい。私がもっと、時間をかけるべきだったのね」
「そうじゃねえ。きっと、そういうことじゃねえんだ。ただ……」
先ほどと同じような昼花火が、もう一、二発、窓の外で鳴った。
カラスは口をはさまずに、アレサンドロが考えをまとめるのを待った。
「戦がはじまる前に、ブルーノ……ブルーノ・ボンバルディと話したんだ。すぐ目の前に自分の畑があるってのに、またなくすのが怖くて種を植えられねえ。そんな話だ」
「ええ」
カラスが上手く合いの手を入れてくれたので、アレサンドロの心は少し落ち着いた。
「それと同じなんじゃねえか、と思う。俺はもう幸せすぎたんだ。あんたがコルベルカウダにいることが。そもそも、生きていてくれたことが。まるで夢を見てるみてえに。まるで……全部がそろっちまったみてえに」
「それを壊したくなかったのね?」
「あんたを愛してるんだ」
「ああ……アレサンドロ……」
「でもあんたは、俺をそうは思ってくれねえと思ってた」
「混乱したでしょうね、いきなり、結婚なんて」
「ハサンに丸めこまれたか、オオカミのたくらみに違いねえ」
「そう思ったの?」
快活な笑い声がアレサンドロを驚かせた。
こんな、ララみてえな顔もするのか。
「アレサンドロ。結婚は私の意思なのよ。本当に」
「それが、まだ、信じられねえよ」
「ね、いつかあなたは、私にバラの花をくれたわ。一本だけの赤いバラ。それがすべてのはじまりだった」
「あ……」
「信じられないならそれでもいい。これから、しっかりと信じさせてあげるわ。いまはこうして、手をつなぐところからはじめましょう」
「……ああ。本当に、夢みてえだ」
「夢だったらどうだというの、アレサンドロ。もし目が覚めてしまったら、よくまわりを見てごらんなさい。現実のあなたの隣にもきっと、白いドレスの私がいるはずよ」
アレサンドロは感動を抱きしめた。
ぐらぐらする細い枝の上から、やっと、地面に降りられたような心地がした。
「アレサンドロ」
昔は少し上にあった黒い瞳が、ずっと下から、なにか言いたげに自分を見上げている。
アレサンドロは、いままで押さえつけてきた心の声に、ようやっと従った。
探るようにふれ合った唇は、いつしか離れがたくからみ合い、恍惚とうめいたカラスの指先が、しびれたようにわなないた。
「……失礼。いいかな」
はっと、身を離したふたりは、反射的にドアを見た。それはノックされただけで、まだ遠慮深く閉じられたままである。
「ハサンか?」
「ええ……そのようね」
「聞かれちまったかな」
「別にやましいことはしていないでしょう?」
「……まあ」
夫婦なのだから。
夫婦なのだから。
「けれど、邪魔をしたのが彼でなかったら、切り刻んでいたところよ」
口端のあたりをちょいとぬぐったカラスは威厳を持ってドレスをさばき、ハサンを迎え入れるために、颯爽とドアへと向かっていった。
「なにかしら」
「おお、よかった。抜き身をぶら下げていたらどうしようかと思った」
「オズワルド」
「これからは、ハサンと呼んでもらえるとありがたい。なにしろ本名を知られたくない男が、すぐそこまで来ているのだ」
「なんですって?」
「アレサンドロ、まったくこの幸せ者め、早くそのゆるみきった顔に大公の仮面をかぶらんか。四世陛下がおまえに会いたいとお越しになっておられるぞ」
アレサンドロと皇帝ユルブレヒト四世は、もちろん今日が初対面というわけではない。
アレサンドロには所信を表明する機会が必要であったし、四世には王となる男を見極める機会が必要であった。
そこで数ヶ月前。夏のよき日に、ふたりは、帝都で顔を合わせたのである。
ここで大人の対応を見せたのは、むしろ十三歳のユルブレヒト四世であった。
自分の立ち位置が上手くつかめず、まごまごとしていたアレサンドロに、
「余は構わぬ。好きに話すがよい」
と、敬語を使わず対等の口をきくことを許し、まず懐の深いところを見せた。
そして、アレサンドロの夢と理想を、大きくうなずきながら、感銘を受けた様子で聞き終えると、
「もっと話をしてみたい。もう少しこの城にとどまるように」
と、自らその長逗留を要望したのである。
互いの陣営が警戒しながらのその一週間の滞在の間に、ふたりはすっかり気の置けない間柄となったのであった。
「さ、お入りください陛下」
ハサンにうながされて入室したユルブレヒト四世は、供をひとりだけ連れていた。
長身のアレサンドロが見上げるほどの偉丈夫、ジークベルト・ラッツィンガー筆頭将軍だ。ハサンが本名を知られたくない相手というのはこちらのことだが、アレサンドロはそのことを知らない。
このラッツィンガーは晴れの日にふさわしい笑顔をさすがに動かしたりはしなかったが、四世皇帝はカラスに目をとめると、
「あ……」
と、若い頬を桃色に染めた。
こんな美しい人が世の中にいるなんて。という顔であった。
「あ、こ、このたびは……およろこびを……」
「まあ、ありがとうございます、陛下」
カラスはこのかわいらしい少年皇帝が、いっぺんに気に入ってしまった。
「そ、そうだ」
ユルブレヒト四世は、アレサンドロにも丁寧に祝辞を述べた。
そして、もてなしへの感謝や、コルベルカウダの素晴らしさを讃えたりなどして、
「実は……」
と、ひざを寄せて切り出した。
「実は、アレサンドロ……いや、獅子大公殿、と、お呼びしたほうがよろしいですね」
「別に、アレサンドロで構わねえよ」
「いえ、とんでもない」
四世皇帝は太い眉を下げて、驚いたように目をくりくりとさせた。
こうした顔は、叔父にあたるクローゼとよく似ている。
「あなたが私の国民であれば強い言葉も使いますが、いまはもう、そうではありません。いまは歳の差のある、その、友だちですから」
対等だからこその敬語なのです、と、三世に乗っ取られていたころとは大違いの大輪の笑顔であった。
「それでその、実は、デルカストロのことなのです」
「デルカストロ?」
「ご存知ありませんか」
「いや、知ってる。知ってるぜ」
元老院議長にして皇位継承権所有者。
そして、
「アレサンドロの父親だ」
ハサンがカラスの耳に吹きこんだ。
「失礼しました。そうですね。大公殿は、デルカストロも今日の式に招いておられるのですから」
「ああ、まさか、来るとは思ってなかったんだがな……」
「大公殿が帝都へ来られているときも、ハサン大臣が話し合いに来られているときも、かたくなに顔を見せようとしなかったと聞いています。お気を悪くされませんでしたか」
「いや、まさか」
むしろそれが当然だ。アレサンドロは心の中でつぶやいた。
おそらくどこかで、父は自分に気づいたのに違いない。
十七、八年会わなかった息子をどう査定したか知らないが、とにかく、今日の建国に否を突きつけずにいてくれた。それだけでありがたいというのが、アレサンドロの正直なところだった。向こうから距離を取ってくれるのはなお大歓迎であった。
今日の招待にしても、なにか深い意味があったわけではなく、ただ『グライセンの元老院議長』に対する礼儀、という程度のつもりだったのだが、
「まさか、本当に来るとはな……」
アレサンドロのひとりごとを、四世皇帝は不思議そうな顔で聞き流した。
「そのデルカストロが、大公殿にお会いしたいと申しているのです」
「……え」
「おそらく、その先日までの非礼をおわびしたいということではないかと思うのですが、もし大公殿がお気を悪くされているようならば、遠慮するように申しつけるつもりでした。しかし、そうでないとおっしゃるのならば、いかがでしょう、会ってやっていただけませんか」
デルカストロは立派な男なのです。
デルカストロは忠義の士なのです。
デルカストロは幼い私のために、常に悪役を買って出てくれているのです。
デルカストロは……。
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