第266話 獅子の血
アレサンドロの祖父である。ユルブレヒト二世と盟友関係にあったのは。
当時は、辺境の一国王にすぎなかったユルブレヒト二世が、これも当時は一王国の皇太子であった祖父とともに、半島同一教圏統一に立ち上がったのだ。
カリスマ性の高いユルブレヒト二世に、祖父は心酔しきっていたと聞いている。
だから南部制圧の際、血を流すことなくデルカストロの国土もグライセンの一部となり、祖父はそのまま南部領の領主、七将軍の祖となった。
うるわしきグロリア……祖父の姉、アレサンドロの大伯母は、あの、ユルブレヒト三世の母となった。
とにかく、そのような家柄であったから、嫡男アレサンドロへのしつけも、使用人ぐるみで当然のごとく厳しくおこなわれたのである。
アレサンドロは、父の笑った顔など見たことがない。
母も、あたりに人のいないときだけ息子を手早く抱き寄せて、なにかにおびえながら、小さな頭をくしゃくしゃとかきまわした。そして、乱れた髪を整えるようなふりをして、今度はゆっくりと、味わうように息子の頭をなでたのだった。
いい子ね、アドルフ。
アドルフは、本当にいい子……。
「アドルフ」
アレサンドロは、この本名もあまり好きではない。
見た目も中身も南部人であるのに、『中部人』のシールを貼られてしまったように感じるからだ。
あまつさえこれは、ユルブレヒト三世の幼名であったらしい。
父は、家庭では見せたことのない笑顔を、たとえ貼りつけたものであったとしても皇帝の前では浮かべ、息子の名前をご機嫌取りとして使っていたのだ!
「アドルフ」
妻子を所領に置き去りにして、年に二、三度しか帰ってこなかった父は、いったいこの名を何度口にしたことがあるだろうか。
「アドルフ」
顔を合わせた瞬間に、そう呼びかけるつもりだろうか。
「……チ、冗談じゃねえ」
俺のことより、母さんのほうを思い出してやるべきじゃねえのか。
あんなにあんたを待ってた母さんを、なんでもっと、愛してやらなかったんだ。
「……チ」
アレサンドロは、目頭をぬぐって歩みを止めた。
波のような取っ手のついた銀色の扉。
大公爵にあてがわれた控え室。
すでにしっかりと人払いがしてあったので、アレサンドロは自分でノックする必要があった。
さっそく、試されているような心地がした。
「失礼、デルカストロ公」
躊躇が出る前にドアを叩くと、それは待ち構えていたように、さっと開かれた。
「あ」
ドアの向こうにいたのは、神経質な顔をした若い男だった。
とにかく目が、アレサンドロにそう感じさせた。
この透明度の高いグレーの瞳は、本人がどれほど笑っていようと決して心から楽しんでいるようには見せないだろう。ちょっとしたくだらない物思いを、国家存亡に関わる深刻な沈思黙考に見せるだろう。そういうたぐいの力を持っていた。
青年は口の中で、おそらく新大公に対する辛辣な感想をつぶやいて、
「どうぞ……」
と、身を引いた。
ひとつに結わえた、くせの強いこげ茶の髪をひと払いして、青年は入れかわりに退室していった。
「ジュリオ」
あれは、ジュリオだ。
ジュリオ・デルカストロ。
流行り病で母が死んだのち、一年とたたずにできた後妻の子。
継母とアレサンドロの関係については、言うまでもない、いいわけがなかった。
だからあの義弟が生まれたとき、アレサンドロはほっとしたものだ。
これでもう、このさびしい家にいなくてもいいのだ、と。
自分の旅路の出発点をひとつあげろと言われたら、それは間違いなく、あの義弟であった。
俺も、ああいう男になっていたかもしれねえ。
アレサンドロは先ほどの目を思い返しながら、『もしもの世界の自分』を考えずにはいられなかった。
「獅子大公陛下」
……あ。
「獅子大公陛下」
アレサンドロは深く息を吸った。
そして、顔を上げた。
父だ。
元老院議長、フェデリコ・デルカストロ。
アレサンドロはこの父親から、長身の遺伝子をもらった。そして、髪の色と目の色と。
五十の坂を越えて、やはり多少は老いたようであったが、死神と恐れられるその威厳は、いまだにアレサンドロの足を震えさせた。
デルカストロは直立した姿勢を崩さず、しばしアレサンドロを凝視していたが、おもむろに、すう、と、頭を下げると、抑揚のない声でこう言った。
「まずは、建国のおよろこびを申し上げます」
このときである。アレサンドロが確信を持ったのは。
やっぱり、俺に気づいてやがる。
俺が……自分の息子だと。
「こいつは、ご丁寧に……」
と、返しながら、無視、無関心、不干渉、これがやはり自分たち親子の形なのだろうと、アレサンドロは哀しくため息をついた。
「陛下、よろしければ、お椅子のほうへ」
と言うので、そのとおりにしたが、空気の上に座っているように寄る辺がなかった。
さあ、では、これから、なにを聞かされるのだろうか……。
「……先ほどの男」
「あ、ああ、なんです?」
「いま、陛下をお迎えした男です。いかが思われましたでしょうか」
アレサンドロは父の顔を見た。
座ったひざの上で指を組み合わせて、目を青白く光らせている。
「いかが……さあ、大きくなった……というか」
「大きくなった、ごもっともですな」
「……」
「あれに家督を譲り、隠居いたします」
……なに?
「したがいまして……」
私自身はもう二度と、お目にかかることもなかろうかと存じます。
陛下におかれましては、いくひさしくグライセンとの縁をお結びいただき、また……。
儀礼的な別れの言葉は、右から左へと流れていった。
……隠居?
なぜ、いや、その理由はわかっている。国家に反抗した入れ墨の息子のせいだ。
皇帝がその事実を知っていようがいなかろうが、けじめはつける。そんな人だ。
ではいつ……いや、どこへ……いや、やはり、どうして……。
アレサンドロが、はっと気づいたとき、デルカストロは言いたいことを言い終わり、半分腰を上げかけていた。
そして最後に、
「ご結婚、おめでとう存じます」
と、石のように硬い、祝いの言葉であった。
アレサンドロはドアへと向かう父の背を追った。
その骨ばった肩をつかむのは、あっけないほど簡単であった。
つかまえて、
「あ……」
なにを言うつもりだったのか。
父の目は、いぶかしげににらみこんでくる。
そうだ。
もう二度と会えないというのならば、これだけは聞きたい。
「なんで母さんを、一緒に帝都に連れていかなかったんだ……!」
デルカストロは視線をはずして、
「ご容赦ください」
と、小さく言った。
フェデリコ・デルカストロには秘密が多い。
プライベートに関することは、ほとんどである。
たとえば、数十年前の聖アレサンドロ祭。
大花火の下で出会った女性に一生分の恋をした。そのようなことは誰も知らない。
その女性が身分の低い家の生まれだったので、遠縁の貴族に頼みこんで養女にしてもらったことも、そこから嫁にもらったなどということも誰も知らない。
そしてすべての交換条件に、『デルカストロらしい男』になるよう、父から強要されたことも誰も知らない。
そんなデルカストロの、
『妻を帝都に連れていかない』
という選択。
これは言ってみれば、精一杯の反抗であった。
連れてこいと言った先帝三世。連れていけと言った先代デルカストロ。
フェデリコ・デルカストロにはその要求の意味が、十分に理解できていたのである。
……言い訳はすまい。
この息子との会談を前に、デルカストロは心に決めていた。
だいたいにして、自分はグライセンの臣下であり、全貴族の模範となるべき元老院の議長なのだ。
「先帝は女と見れば手を出す好色漢で」
などと、どうして口にできようか。
それにそもそも、中風をわずらいながらもジュリオが誕生するまで生きていた先代デルカストロ、その影におびえ続けていた自分自身が、いまのこの状況を作り上げたのではないか。
いまさらだ……すべて、いまさらなのだ。
肩の上に置かれていた息子の手のひらのぬくみが、そのとき、ふ、と、遠ざかった。
軽くなったはずであったのに、デルカストロが感じたのは、まるで鉄球をぶら下げられたような罪の重さであった。
「あんたが嫌いだった」
と、息子は言った。
デルカストロも、そうだろうと思った。
でも……。
「あんたのことを悪く言うやつは、もっと嫌いだった」
……ほんの少し間をおいて、コク、と、あご先だけでうなずいた父を見て、アレサンドロはなつかしい気持ちになった。
そうだ、本当にまだ幼いころ、ひとつの文字が書けたとき、自信の絵が描けたとき、よく在邸中の父の前にそれらを持っていった。
そうすると父は周囲の目をはばかり気味に、コク、と、いまのようにあごひげを上下させたのだ。
優しい、謝るような目をして。
「大人の事情、ってやつか。そう考えてみりゃあ、隠居ってのは好都合かもしれねえな。時間ができる。また、はじめられる」
コク、と、あごが動いたかどうかはわからなかったが、父の背中の多弁さに気づける男になれたことを、アレサンドロは自ら誇らしく思ったのだった。
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