第264話 喜びの歌
厳密に言えば、戦はまだ終わってはいないのだろう。
戦場に姿を見せなかった残りのエディン。
結局、死体の見つからなかったオオカミ。
ユルブレヒト三世の不吉な予言。
これらの事実は、次のような解釈を生んだ。
『また、戦がはじまるのだ』
『ここから、またはじまるのだ』
まさに、ハサンが言ったとおりに……。
「フフン」
と、コルベルカウダのハサンはしかし、平然としていた。
「構うことはありますまい」
と、帝都のエルンスト・コッセルも重要視していないという噂であった。
「いいか、アレサンドロ。満腹の獣は狩りにはいかん。我々はとりあえず満足したのだ」
ハサンは長椅子で長くなりながら、一服吹かしてそう言った。
「これも言ってみれば優先順位の話なのだろうな。では、その観点で考えてみよう。まず、我々の最低目標はなんであったか。そう、それは『建国』だったな。それに必要な要素は、まず守り通すことができた。次に帝国と鉄機兵団だが、今回の戦における彼らの最低目標は、ひとことで言えば『安定』だった。クラウディウスの排除と皇帝救出。これも上手くいった。そして、オオカミとユルブレヒト三世。彼らの最低目標は『コルベルカウダの出現』だったが、知ってのとおり、これもまた上手くいった。だから我々は皆、とりあえず満足をしたのだ。こうして煙草をやって、さあこれからどうしようか、と、考える程度にはな」
ぷかり、と、煙が輪を描いた。
「要するに、いまではないのだ。いまではない」
ハサンは、自信たっぷりに言った。
「私がユルブレヒト三世ならば、むしろここはじっくりと時間をかけて、コルベルカウダと世界が固まるのを待つ。立場が確立し、ある程度成熟するのを待つ。なぜと言うことはない。そのころには間違いなく、警戒心が薄れているからだ」
それに、
「ゆるんだ泥水をかきまわすよりも、盤石とされるものを叩き壊すほうが面白いとは思わんか?」
この話は数人の前で披露されたのだが、聞いていた者は皆、愕然となって顔を見合わせた。
「ンッフフフ。まあ、気にかけなくてもいいというわけではないが、我々としてはまず、建国のことを考えようか。こちらはもう、問題が山積みだ!」
正気を取り戻した少年皇帝、ユルブレヒト四世は、奴隷解放には積極的であった。
しかし、そうは言っても独立国家とは大ごとである。
人、物、金。制限と自由と権利。
魔人の技術の結晶、コルベルカウダというカードのみで、よくこれだけのことをまとめ上げたと帝国側からも賞賛の声が上がるほど、ハサンはよく立ち働いた。八面六臂の大奔走であった。
暑さの厳しい夏が過ぎ、深呼吸したくなる秋が来た。
そうして、ついに。
その日を迎えたのである。
アレサンドロは、王冠をいただくのをよしとしなかった。
三角形の頂点に立つのではなく、逆三角形の底にいたい。それが、この新君主の意向であった。
ハサンはその考えに眉をしかめたが、
「まぁ、唯一無二には変わりない」
ということで、結局、用意されたのは幅広の指輪である。
それは言うまでもなくN・S獅子王の器で、鈍色に輝くその表面には、翼のある獅子と三日月とが彫刻された。
メイサ神殿、カジャディール大祭主の手から授けられたそれを、『獅子大公』となったアレサンドロが高々と掲げてみせたとき、会場となったコルベルカウダ居住区の水源地広場は、わあ、と、大歓声に包まれたのであった。
「なァんだ、泣いてやがんのかよ」
賓客として招かれた四世皇帝その他の警護、という名目で臨席していたギュンター・ヴァイゲルは、隣に立ったカール・クローゼ・ハイゼンベルグがそで口で目をぬぐっているのを目撃して、あきれかえってそう言った。
ちなみに、会場には他にも、すべての将軍、紋章官が顔を並べているが、その中に、ちゃっかり紋章官復帰したテリーもまぎれこんでいる。実は、その人事を一番喜んだのもハサンであった。
一時捕虜となっていたララを引き取りに行ってそれを聞き、
「やったなぁ!」
と、人目もはばからず、うれしがったものだから、
「なぁんか、気まずさも吹き飛んじゃってね。ああ、大将には長生きしてもらいたいなぁ、とか思っちゃったよ」
と、テリーはのちに、大照れしながらアレサンドロへ語った。
「で、そんな泣くほどうれしいってのかよ」
肩で小突くようにしてギュンターが聞くと、クローゼは首を振って答えた。
「うれしいのとは、少し違うな」
「あぁ?」
「いや、うれしいことはうれしい。それは、もちろん」
「テメェは、いつまでも面倒くせぇなぁ」
その言いかたがなんとなく面白かったので、クローゼは、つい笑ってしまった。
「逆に君は、この光景を見てなにも思わないのか、ギュンター」
「だから、なにを思えってんだよ」
「歓喜だよ。この、エネルギーだ」
「はぁ」
「私は、今日この場に立ち会えたことを心から幸せに思う。彼らの邪魔ばかりしてきた身分でこのように言うのも、申し訳ないのだが……」
するとギュンターは肩をすくめて、
「まぁ、これから上手くやってきゃいいんじゃねぇの」
と、からかうように言った。
単純で、しかも、明るい言葉。いい意味で、前しか見えていない言葉。
「そうだ……うむ、そのとおりだ!」
たまにはいいことを言う、と、クローゼは人好きのする笑顔を見せた。
そのときである。
大音量に当てられたせいで耳が遠くなってしまったのでは、と、勘違いしてしまうほど唐突に、会場内の音が消えた。まさに、水を打ったような静けさとなった。
なんだ、どうした、と、参列者が見ると、帽子を投げ上げた人々は粛々とそれを拾い上げ、女たちはスカートと髪の乱れを正している。
そして皆で、しゃんと背筋を伸ばしたかと思うと、誰かの合図で、ひとつの神歌が歌われはじめたのだ。
この縁に感謝を、この縁に祝福を……。
それは結婚式でよく聞く、なじみのある歌だった。
それを、男たち、女たちが歌っている。子どもも、年寄りも歌っている。
ユウも、ララも、セレンも、メイも、大きく身体を揺さぶりながらモチも、それを抱いた魔人のクジャクさえも歌っている。
そうして人垣はふたつに分かれて、その人を迎え入れるための、花道を作り上げたのである。
「カ……カラス?」
どよめきが起こったが、その誰よりもびっくり仰天したのはアレサンドロだ。
純白のドレスに身を包んだカラスと、それを、うやうやしくエスコートするハサン。
まさか……まさか……!
笑えねえ冗談だ!
「う!」
あとずさった背中が硬いものに押し当たり、白衣の肩を、ぐわしとつかまれた。
「これこれ、獅子大公陛下ともあろうおかたが、背を向けられてはいけませぬ」
「あんた……!」
この大祭主も、ぐるだったのか。
「ふむ、その白衣、今日の式には実にふさわしい」
などと、そういえば式がはじまる前、ひどくしかつめらしい顔で言われたのであった。
「まずはなにより話を聞かれること。これ、まつりごとの基本のキ」
アレサンドロは、水の膜のような屋根のかかったステージから、どん、と、突き落とされてしまった。
「カ、カラス……」
「アレサンドロ。やっと、話ができるわね」
「う……」
カラスは声を荒らげたわけではない。皮肉も嫌味も言っていない。
ただひとつ、悲しげな様子を見せたので、アレサンドロは少なからずうしろめたさを感じた。
それは実際、本当のことなのである。
戦のあの日から、今日の今日まで、アレサンドロはカラスから逃げ続けてきたのである。
今度は恥ずかしさからではない。
「カラス、俺は」
アレサンドロは顔を上げて、また口をつぐんでしまった。
「アレサンドロ?」
「あ……いや」
まったく、どういう顔をすればいいのだろう。
カラスのドレスは決して上等なものではない。おそらく女たちの手縫いの品だ。
かぎ針編みのベールだって目を見張る力作だが、こったテーブルクロスを編ませれば右に出るものはいないという、名人ベルギッタばあさんの手によるものに違いない。
首を飾るネックレスも、確か仲間内に職人がいたはずだ。そういえば、髪結いの一家もいた。
そうした役割分担を皆で話し合い、こっそり準備をして、歌の練習までして……。
「ああ、ちくしょう」
アレサンドロは鼻をこすり上げた。
「カラス、あんたの話は聞く。でもよ、こういうやりかたはよくねえよ」
「なぜ」
「なぜって」
「私を見て、アレサンドロ。私を見て」
「……」
ああ……本当にきれいだ。
「アレサンドロ、このやりかたが駄目だなんてもう言わせない。みんな、私の気持ちを理解した上で協力してくれたのよ。それに……」
カラスは少しばかり、口ごもって言った。
「私は覚えているわ。私を助けてくれたあのとき、あなたがなんと言ってくれたのか」
「待ってくれ!」
アレサンドロは、カラスの口を手でふさいだ。
そしてすぐに、ぱっと離したところは、まるで熱いものにでもさわってしまったかのようであった。
「あ、あんなのは、本当のことじゃねえ。いや、本当のことだとしても、あんたが気にするようなことじゃねえんだ。助けられたことを恩義に感じて、こんな、こんなことをする必要はねえんだ」
「……」
「恩返しなんていらねえよ。そんな、昔話みてえなこと……」
「……そう」
カラスは小さくため息をついて、
「なら、勝手になさい」
「!」
頬をはさまれたアレサンドロの唇が、あっという間に奪われた、その瞬間。
「よろしい、ふたりを夫婦と認める!」
わあ、と、幾百もの帽子が再び宙を舞った。
秋晴れの空に、昼花火が打ち上がった。
へなへな、と、アレサンドロの腰が抜け、
「万歳!」
「新しい国、万歳!」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
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