第261話 さらば、ジョーブレイカー(3)

 結論から言うならば、確かにシュナイデはそこにいた。

 そして、生きていた。

 大人ひとりには十分なサイズの円筒水槽の中で、ぼんやり光る薄青い液体にひたされて、シュナイデの脳は、ひとりのんびりと浮遊している。

 超小型光炉と脊柱、コード類をぶら下げたその姿はおぞましいものであったが、ジョーブレイカーの口からもれたのは、安堵のため息であった。

「……シュナイデ」

 迎えにきたぞ。

 水槽のガラス面に手を伸ばす。

 む……と、その指を止めたのは、自身の怪力によって、このようなガラスなど一瞬で粉々になると気づいたからだ。

 ふと、ジョーブレイカーは、このままふたりで姿をくらましてしまおうかという気分になった。

 世を捨てて、ふたりきりで生きるのだ。

 スダレフが死んだいま、シュナイデに肉の身体を与えることができるのは魔人だけかもしれないが……そうだ、エド・ジャハンに父の研究施設がまだ残っている。

 そこでゆっくりと再建をはかるのも悪くない。

 とにかくもう、なにものにも左右されず思いきり生きたいという想いが、自身の力に対する倦怠感をきっかけにして、ジョーブレイカーの胸に強烈に、逃避欲のようなものを産み落としたのだった。

「まるで人間……人間か……」

 ジョーブレイカーはしわの寄った眉間に指をやり、思わず、長く息をはいた。

 と……。

 そのときである。

 水槽のかたわらに設置された管理用端末。そのうちひとつのディスプレイに、ぽ、と、光がともったのだ。

 近づいて見ると、白い画面の中には、いくつかのバイタルデータが表示されている。

 かと思うと、そのグラフ類を押しのけるようにして現れたのは、テキストの入力画面か。

 カーソルがまたたき、おずおずと文字が打ち出された。

 

『そこに いますか』

 

「シュナイデ……!」

 ジョーブレイカーはキーボードに飛びついた。この作業ならば、力加減を間違えることもない。

『私だ。迎えにきた』

『はい』

 胸の光炉が、ちりちりと震えた。

 さらに続けて、

『そこに エディン ナイデルが いませんでしたか』

『死んだ』

『ハカセは どうしましたか』

『死んだ』

 さすがにシュナイデは、そこでどう答えるべきか悩むような間を取った。

 心なしか、水槽の中のシュナイデもうなだれているように見える。

『シュナイデ』

『はい』

『悲しいか?』

 カーソルは、またしても沈黙した。

 ジョーブレイカーにはこうして、シュナイデの眠った感情を揺さぶろうとする癖がついていた。

 それにしても、このような状況で……とも思ったが、

『おまえの口から、スダレフについて聞いたことはなかった。おまえにとってあの男は、どのような存在だった』

 主人か、それとも父親か。

 それとも……。

『ジョーブレイカー ワタシには わかりません』

『なにがわからない』

『ココロは ムネにあるのでしょう』

 心!

 シュナイデの口からはじめて飛び出したこの言葉に驚倒し、ジョーブレイカーは続きを聞くために前のめりになった。

『心がどうした』

『ムネにあるはずです みなさん そのコトバをつかうとき ムネをおさえます』

『そうだな』

『いまのワタシには ムネがありません ゲンドウキである コウロしかありません それなのに』

 カーソルが次の行へ移動する程度の時間にさえ、ジョーブレイカーは、もどかしさを感じずにはいられなかった。

 それで、それがどうしたのだ、シュナイデ。

『ふしぎです このすがたのほうが ココロをみせられるきがする』

「……」

『ジョーブレイカー ワタシは たしかに かなしいのでしょう ハカセをうしなったことよりも もう カラダをもてなくなってしまったことが かなしい』

 シュナイデはそこで、顔色をうかがうように言葉を切った。

『かなしい』

 と、自分の導き出した答えを確認するように、もう一度同じ言葉を書きこんだ。

『ジョーブレイカー そこに いますか』

『ああいるとも。聞いている』

『ワタシを みてくれていますか』

『ああ、もちろんだ』

『アナタは やさしい』

『そうだろうか』

『アナタは たのしい』

『そうとは思わない』

『ワタシは たのしい たのしい です』

 ぽん、と、小気味よく改行がおこなわれた。

『いっしょにいたら たのしくて いつも いっしょにいたくって なにをかんがえているのか ワタシをおもってくれているのか とても きになるひと アナタ』

 ここで、シュナイデは考えた。

 そう、間違ってはいないはず。これはララが教えてくれた、あの言葉。

 理解したつもりでいただけでは理解できるはずもなかった、あの言葉。

 ああ、光炉が温かい。

 まるで……お湯につかっているみたい。

『アナタが すきです』

『私もだ』

『ずるい』

『おまえが好きだよ、シュナイデ』


 そのジョーブレイカーの長い置き手紙を、一番に見つけたのはクジャクであった。

 結局、またしてもバイパーたちに逃げられてしまったこの男は、まあいいか、と、その結末については特にこだわらず、人間の流れを追って、玉座の間へと到達したのだ。そしてその場をのぞき見て、ジャッカルたちの任務も無事完了したことを知るや、シュナイデ救出のほうはどうなったかと、スダレフ研究所へやってきたのである。

 はじめ、クジャクは当惑した。

 駆けつけたとき、スダレフの研究所はすでに、もぬけのからになっていた。

 研究所にありそうなものは紙片一枚も見つけられず、もちろんスダレフの姿も、ジョーブレイカーの姿も、シュナイデの姿もない。

 これは、遅かったか……。

 と、それでも建物内を探し歩いて、あの水槽の部屋へとたどり着いた。

 そこはすでに水槽からなにから根こそぎ持ち去られたあとだったので、クジャクがやってきたときにはもう『なにか大きなものが置かれていたらしい空っぽの部屋』であった。

 そこに、ジョーブレイカーの手紙は残されていたのである。

『申し訳ない』

 手紙は謝罪からはじまっていた。

『私はシュナイデと、エド・ジャハンへ行く』

 と、この文言には、クジャクも驚かずにはいられなかった。

 スダレフの死。

 エディン・ナイデルの登場と、恐るべき実験。

 シュナイデの状態。シュナイデの心。

 自身の抑えきれなかった逃避欲、あるいは独占欲。

 そして、

『カジャディール様を頼む。アレサンドロ・バッジョを頼む』

 と、見届けることなく離脱する不義理を深く恥じ入るように筆致は乱れ、

『申し訳ない』

 と、再びの謝罪の言葉で手紙は締めくくられている。

 クジャクはそれを二度三度と読み返して、懐の深いところへ押しこんだ。

「フ、フ……そうか、女と逃げたか」

 クジャクは笑った。

 それは、賞賛の笑いだった。

 最もやりそうにない男がやってのけたのだ。

 いいではないか。世界よりも女を選ぶ、そんなときがあってもいい。

 理屈を超えた人間くささ。それはクジャクが、最もいとおしいと感じるものであった。

 手紙には、

『幸い、シュナイデの身体組成データは廃棄されておらず……』

 とも記されている。

『復元は自分ひとりでもできるだろう』

 と。

 だが、いつでも頼れよ。

 俺たちは仲間だ。

「幸せになれよ!」

 クジャクは鉄棍をひとまわしして、スダレフ研究所をあとにした。

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