第242話 不信渦

 以前、アレサンドロとジャッカルが歩いた枯れ草の野は、一時は間違いなく、若々しい緑に覆われたのである。

 霊廟の群れのようであった廃屋の連なりにも鮮やかな春の色が映り、そこを吹く風は洗いたてのシーツのような心地よさで、するり、するりと、頬をなでていった。そのすがすがしさの中では、あのジョーブレイカーでさえも斥候の足を止めて、うっとりと目を閉じることがあったのだ。

 地上に置き去りにされてしまったマンムート二号も、まるで日光浴中の猫さながらに、幸せそうに丸まって見えたものだった。

 ……そう。

 鋼の騎士たちが大挙して押し寄せた、あの日、あの時までは。

 ……軍旗をかかげよ!

 ……これは訓練ではないぞ!

 あちらこちらで怒号の響く現在のこの野に、以前の面影を見つけることはできない。

 踏み荒らされた大地に、それでもなにか、かつての名残りと言えるものを探し出そうとするならば、かろうじて大気のにおいのみが青々としたものを保ってはいたが……いまそれを渦巻かせて、三機の空戦用L・J、一二〇三式が、ジーナス山の山すそへ向けて飛行していった。

『紋章官様。本当に、よろしいのでしょうか』

 その中の一機が不安げに問うた。

『クラウディウス閣下がよろしいとおっしゃるのだ。なにか思い当たることがおありなのだろう』

『それはそうですが、しかし』

 と、まだまだ若い騎士の声は晴れない。

『もう本陣に着いてしまいます。『それ』を持ちこむのは、やはり……』

『大丈夫だ。それよりも、着地点には気をつけるように。まかり間違っても軍旗を倒すことだけはないようにな』

『……は』

 憮然となった騎士だったが、それでも、眼下の景色に目をやった。

 広がった樹海の一部を切り開いて、その中心に鎮座ましましているのは将軍機、超光砲のメラク。

 さらに。

 黒。

 茶と黄のベンド。

 桃。

 ラベンダー。

 黄。

 橙と白のベンド。

 計六種の大軍旗が取りかこむ中央に、無骨な円卓が置かれている。

 メラクの鼻先がこうして本陣として選ばれたのは、無論、車椅子の将軍オットー・ケンベルに配慮してのことであった。

『続け』

 先頭を飛ぶハイゼンベルグ軍、アルバート・バレンタイン紋章官は、言うだけあって、借り物の一二〇三式を、難なく指定の位置に着地させた。


『ただいま戻りました』

 ばらばらと駆け集まってくる部下や整備士たちを巨大な手のひらで押しとどめ、バレンタインはまず、

『クラウディウス閣下、どちらです!』

 声を張り上げた。

 かたわらの大型装甲車の開いたままのハッチから、一番にカール・クローゼ・ハイゼンベルグ、そして悠々と、セロ・クラウディウスが現れる。

「ご苦労だったな、バレンタイン」

『クラウディウス閣下』

 まったく、太陽のような男だと、バレンタインは悪い意味でそう思った。

 視界の端に映る樹海の緑も、戦場の空気も、弟クローゼの影も、その存在感の前に一気にかすんでしまった。その小さなくやしさが、バレンタインにそう思わせたのであった。

「まずは物を見よう」

『……は』

「どうした、その手の中にあるのだろう。見せたまえ」

『は、しかし……』

 どうしたものか。

 先ほど部下に問題ないと言ったばかりのバレンタインだが、やはりここにきて躊躇は出た。

 一二〇三式の手中に握られているものの正体が、事実、一切明らかにされていない、というのがひとつ。

 それを渡そうという相手が、クラウディウス、魔人オオカミである、というのがひとつ。

『お言葉ですが、閣下。せめて場所をあらためさせていただくわけには……』

 バレンタインは助け舟を求めてクローゼを見た。

 だが動きが起こったのは、別の場所からであった。

「バレンタイン、戻ったか!」

 手を振りながら、スピードスター・ホークが装甲車から降りてきた。

 続いて、ジークベルト・ラッツィンガー。ケンベルの車椅子を押して、ヴィットリオ・サリエリ。ギュンター・ヴァイゲル。

 エルンスト・コッセル。ヨーゼフ・グレゴリオ。最後に鉄仮面。

 クラウディウスは、だからどうした、という顔をした。

 ラッツィンガーが、一同を代表して進み出た。

「ご苦労だったな、バレンタイン」

『は』

「だが、クラウディウス。まずは報告が先だと思うが」

「報告?」

 クラウディウスは、形のよい唇を、かすかにゆがめて薄笑いした。

「なにがおかしい。バレンタインは国家を代表して降伏勧告をおこなったのだ。まさか、それを忘れたわけではあるまい」

「……確かに」

「彼からはその報告を受けたい。そして、おまえからは」

「総大将閣下のご意向もうかがわず、魔人城からの『贈り物』に対して、勝手に本陣持ちこみの許可を与えた。それについての報告を受けたい……だろうか」

「軍規というものがある」

「それは失礼した。だがこうしてお集まりのところを見ると、すでにあの場にいた通信士の誰かが、なんらかの報告をしてくれたようだ」

「クラウディウス」

 叱責を受けてなお挑戦的な青灰色の目が、やはりどうということはない、と言うように目礼した。

 わずかに顔をしかめて、ラッツィンガーは、

「バレンタイン。まずは降りて報告を」

『は』

 バレンタインは、密閉性の高い一二〇三式のコクピットハッチが開くまでの間に、安堵のため息をひとつ、ついた。


「報告いたします」

 と、左右のかかとを、ぱんと合わせたバレンタインの受けていた任務は、まさにレッドアンバーへの降伏勧告である。

 投降する意志がないとわかりきっている者たちに対する、完全に形式的なもの。戦力的優位にある者の作法としてのもの。

 多くの騎士たちの認識はそれだったが、シャー・ハサン・アル・ファルドとの最終的な打ち合わせの場、というのが、この勧告の正体であった。

「それで」

「魔人城からの反応は、ありませんでした」

「ふむ……つまり」

 ラッツィンガーはコッセルと視線をかわし、どちらからともなく、うなずき合った。

 コルベルカウダ側の準備は整っているということだ。

「私は、魔人城の周囲を三度まわり、帰投を決めました。そのとき……」

 コルベルカウダの底、つまり港から投下されたのが、いま話題になっている、例の『贈り物』であったのだ。

 バレンタインはそれを回収すると同時に、もちろん、本陣にも連絡をした。

「その通信を受けたのが、偶然、通信室に立ち寄ったというおまえだったわけだな、クラウディウスよ」

「ハ、ハ。また棘のある言いかたをされる」

「この続きは自らの口で語るべきだろう」

「よろしい。私はバレンタインに、その品物を持ち帰るよう指示をした。それはおそらく危険なものではない。なんなら私が一番に確認してもいい、と、言って」

「ラッツィンガーには自分から報告しておくと?」

「それも言った。だがどうやら、うっかりしていたようだ。ハ、ハ」

 お追従をする者は、もちろんいなかった。

「バレンタイン。とにかくその品物を見せてもらおうか」

「いえ、しかし……ラッツィンガー閣下」

「いいのだ。クラウディウスの言うとおり危険物ではないだろう」

「は。では、すぐに。お待ちください」

 バレンタインの操作によってL・Jの右手が開かれたとき、そうは言っても、その場にいた者たちはさすがに身構えた。

 アレサンドロ・バッジョが、クラウディウスに怒りを覚えているだろうことは容易に想像がつく。致死的なものでないにせよ、悪意のある贈り物でないとどうして言いきれようか。

 一二〇三式の手中にあったのは、影を固めたような、十センチ角の黒色キューブであったが、それもまた得体の知れぬ物であることにかわりはなく、場を安堵させるには至らなかった。

「クラウディウス」

「もちろん、これがなにであるかは承知している」

「では、それを明かしてもらおうか」

 一礼したクラウディウスはキューブを取り、それを、ざっとながめまわしたかと思うと、ある一辺に指をかけ、ひと呼吸も置かずに開けてしまった。

 中から、ころりと転がり出たのは、

「指輪……!」

 鈍色の、なんの飾り気もない指輪である。レッドアンバーを捕縛した際に没収し、再び奪い去られてしまったものに間違いない。

 用途もわかっている。

 N・Sをおさめる器だ。

「私の半身だ」

 クラウディウスは環を指先でこねまわし、空に跳ね上げて、はっしとつかんだ。

「総大将閣下にお預けしようか?」

「……いや。好きにするがいい」

 なあんだ、という、落胆にも似た感情を皆の胸に残して、この小さな揉め事は、こうして決着したのだった。

「……コッセル紋章官」

 サリエリが耳打ちした。

「ええ、わかっていますよ」

 コッセルは微笑んだ。

 なぜあのN・S、オオカミだけが、このタイミングで返されたのか。

「彼らは、新しいN・Sを手に入れたのでは……?」

「そう考えるのが妥当でしょうね」


 戦の開始を告げる角笛の音とともに、それは誰もが納得する形で示されることとなった。

 雄々しい響きが輪唱となって戦場のすみずみにまで行き渡り、

「閣下!」

「魔人城が……!」

 と、早朝の空の中、万の瞳が見上げる中で、コルベルカウダを取りかこむ環が崩壊をはじめる。

 その金のかけらは蒼天をはらはらと散りながらまた集まり、球体の底から地上へと続く、巨大な螺旋階段となった。

 ずん……ず、ずん。

 大気が震え、

 ずん……ずん。

 全L・Jのモニターに、おびえたようなノイズが走る。

 ガアァアン……。

 と、耳をつんざく大咆哮。

 金色のたてがみを逆立たせた獅子王の英姿は、見る者を圧倒し、ごくり、と、つばを飲みこませた。

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