第226話 大天球コルベルカウダ

「なんだ、あれはまだ戻らんのか」

 N・Sクジャクの手からひょいと飛び降りて、開口一番、ハサンが言ったのがこの台詞であった。

 不満げで、あきれた様子で、わずかに焦燥も感じられる。それが少々、この男にしては大げさなように見えたので、出迎えたセレンとテリーは、はてな、となった。

 もちろん『あれ』、つまりユウはハサンにとって弟子であり、おまけにその遠征の目的、性質はいままでのものとは明らかに違う。それに加えて心配する気持ちは誰もが同じであったので、そのうちハサンがにっと口端を引き上げ、

「いやはや、それにしてもまったく手間がかかった。ソブリンのもとへ行ったはいいが、なにしろ魔人の遺物かもしれん鍵というので、あっちへ売られ、こっちへ売られ。やっとの思いで見つけたのが、さる貴族様の金庫の中だ」

 などとやりはじめたことで、すぐに、うやむやになってしまった。

「それはそうと、リーダー君はどうした」

 ハサンはわざとらしくあたりを見まわした。

 散歩だよ、と誰かが告げる前に、おうい、おういと声がした。

「おはよう、リーダー君。おはよう、ジャッカル先生」

「おう。上手くいったみてえだな」

「上々だ。そら、これで間違いないだろうな、先生?」

 ハサンの手から放られた見事なウォード錠をキャッチして、ジャッカルはすぐにうなずいた。

「確かにこれだ。間違いない」

「ンンン、それは結構」

「いつやる?」

「いまだ。時間をおく意味はない。またどこぞの蛇が、そのあたりをちょろちょろしていないとも限らんしな」

 そこでまずアレサンドロとハサンはマンムートを遠ざけ、とりあえずは主要なメンバーのみでコルベルカウダに当たることにした。いま野原の真ん中で車座になったのは、そのふたりとジャッカル、ヤマカガシ、セレン、マンタ。クジャク、ジョーブレイカー、テリーの三人はマンムート待機組だ。

 月神殿の大祭主ディアナが皇帝のもとから拝借してきた岩。

 女海賊ソブリンが、とあるサルベージ船から奪い取ったという鍵。

 魔人ジャッカル。

 いざそろったものを並べてみると、魔人王の城を復活させる品物としてはいかにも無芸平凡で、

「これでセキュリティは大丈夫?」

 セレンの言葉に皆、うなずかざるを得なかった。

 少なくとも二千年は大丈夫だった、と、ジャッカルは笑った。

「さて、やろうか。場所はここでいいのかな」

「ああ」

「ではヤマカガシ、やってくれ。鍵をまわしてくれ」


 鍵穴にウォード錠が差しこまれた。

 かちん。

 聞く者をわくわくとさせる金属音が響く。

 車座は、ぐっと息を詰め、どんな変化も見逃すまいと五感を研ぎ澄ませた。

 ある者は、どこか遠いところで甲高い音が鳴ったような気がした。

 ある者は、足の下に地響きを感じたような気がした。

 ある者は、空の雲の形、風の音が変わったような気がした。

 だが実際のところは、なにも起こってはいなかった。

「先生……」

 はじめアレサンドロは、なにかトラブルが起こったのだろうと思った。

 なにしろこれはジャッカルの言うように、二千年も前のからくりなのである。いかに魔人の技術と言えど、多少の劣化はあるに違いないのだ。

 しかし……。

「あ……!」

 それが間違いであったことに気づいたのは、その直後であった。

 なんだろう。

 晴れ晴れと蒼空を見やるジャッカルの横顔に、なにか、不思議な模様が浮かび上がりはじめている。

 いや。これは模様ではなく血管だ。血管が浮き上がってきているのだ。それも、気味の悪い青色に。

「せ、先生!」

 ジャッカルは、いよいよ濃くなった網目模様の顔をアレサンドロに向け、なんとも恐ろしく、なんともおだやかに笑って見せた。

「さて……上手くいくといいが」

「え?」

「ここは頼むぞ、ヤマカガシ」

「あ、うん。うん、うんうん……」

 そうして、ふ、と、ジャッカルは消えた。

 N・Sに乗りこむように、光を放って消えたのだった。

 ただその状況と大きく違うのは、それまで着ていた衣服のすべてが残されたということだろう。しかもそれは灰色の液体で、したたるほどにぬれている。

「ヤマカガシ!」

 説明を求められた八賢人の片割れは、

「コ、コルベルカウダに行った」

 とだけ言って、ジャッカルの衣服の上にかがみこんだ。無責任にもこちらは、結果の検証だけがしたいらしい。

 いつの間にそうなったのかはわからないが、鍵と岩は粉々に砕け散っていた。

「ふむ……まあ、ここは待つしかあるまい。それほど時間はかからんのだろうしな」

 いささか拍子抜けした調子で、ハサンは言った。

 そして、それから実に三十分ののち。これは……という変化を真っ先に感知したのも、当然といえば当然だがこの男であった。

「……来たな」

「来た? なにが来た?」

「上だ」

 アレサンドロのみならず、その場にいる全員が、まるで釣り針にかかったかのようにあごを持ち上げた。

 いまは、まだなにもない。

 なにもないが、ハサンの千里眼には、きっとなにかが映っている。もしくは、その地獄耳には、きっとなにかが聞こえている。それを疑う者はいない。

 いつ来るか、いつ来るか。

 目をこらして見ていると、小さな雲の流ればかりが気になった。

 風は線ではなく面で吹いているのだろうに、それらは山の上のただ一点目がけて、ぐんぐん収束するように遠ざかっていくのだった。

「ううむ、飛びたい!」

 マンタの発した、感にたえないといったこのつぶやきは、そのままアレサンドロの気持ちにも当てはまった。

「来た、あれか!」

 マンタのひげが、ぴんと立ち上がった。


 ……おお。

 と、そのときうなったのは、オオカミの放った諜報員。蛇の魔人、バイパーたちである。

 この男たちはジーナス山に連なる、小山と言うには小さい丘のようなものの頂きに陣取って、天幕の下から、広大な扇状地をながめ下ろしていたのであった。

 ハサンは先ほど、この男たちがなにかちょっかいを出してくるようなことを言っていたが、実のところバイパーは、

『状況を逐一報告せよ』

 という以上の命令は受けていない。

 であるから、黒い敷布のように長々と寝そべったN・Sマンタ、マンムートから、首領格、アレサンドロ・バッジョが魔人を引き連れて現れたとしても、この忠実な蛇たちは動くものではなかった。もちろん、その首領の影にひっそりと付き従っているだろう黒装束の姿をも想像してだ。

 そのバイパーたちが、監視対象の視線に導かれるようにして見たもの。

 それは、天から下りてくる球であった。

 金色に輝く真球であった。

 さらに驚くべきはその大きさで、直径は、N・Sマンタを二十匹も並べたほどもあったのであった。

 地上のはるか上空で静止した球は、しばし自転も微動もせずそのままであったが、ぱらぱらと、まるでゆで卵でもそうするように金色の殻を落としはじめた。

 中身はどうだろう、いくらかは小さい。中心に浮いていたのは球は球だが、もとの直径の半分程度だろうか。つやのない灰色で、一面に六角模様が浮かび上がっている。

「これが、コルベルカウダ……」

「いや待て、まだだ」

 蛇たちは、再び双眼鏡を目に押し当てた。

 はがれ落ちた金のかけらが、風に乗って渦を巻きはじめている。そして、球のまわりをめぐるように。

 かけらは隣り合う同士とまた結合し、点となり、線となり、面となり、縦横様々に走る幾重ものリングとなった。

 これが完成形だと、そのとき、誰もが感じ取った。

「ジロニッタの天球儀だ……!」

「ハサン?」

「ジロニッタの天球儀、知らんか、アレサンドロ。南部ジロニッタ地方の古い地層から出土した代物だ。大公爵の手をへて皇帝へと献上された。長く魔人の使用した天体観測の道具だろうと言われてきたが、なるほど、これの建築模型だったか。いや、なるほど」

 このとき、うんうんと大仰にうなずいたハサンの視線がふと北へ動き、またまばたきの一瞬でコルベルカウダへと戻ったことに、いったい誰が気づけただろう。

 いわく、きらりと光るものが見えたような気がしたが、なにかの反射光かな。

 ハサンはそれを監視者たちの存在証明と見たが、まあいいかと鼻で笑った。

 そう、そんなことはどうでもよかったのだ。

 見ろ、なんと素晴らしい光景か!

 なんと素晴らしい城か!

 ハサンは中身のない右そでをきつく握りしめた。

 穴あきだった自分の世界に、満遍なく充填材がそそぎこまれていく気分だった。

 もう少し、もう少しで手に入る……!

 新しい国が!

 ……ん?

 そこで気づいた。

 コルベルカウダ本体のそばに、ごくごく小さな、なにかが浮いている。

 徐々に近づいてくるそれは、どうも、箱のようである。床面以外は透明な、飛行能力のある箱だ。

 それが風の抵抗など物ともせずに降下して、その中のジャッカルの姿がアレサンドロの目にも見えるようになると、互いの間で手が振りかわされた。

 それは着地も、実にスマートなものだった。

「やあ、待たせたかな。服を探すのに手間取ってしまって」

 ガラス様の扉が音もなく開き、ジャッカルが言った。

 そういえば、脱いでいったはずの服を、いまは着ている。先のものとたいして変わらない、二千年のほころびのまったく見えないローブを。

「中はどうだった、ジャッカル先生?」

 ハサンが聞くと、ジャッカルは、うふ、と、唇をほころばせ、

「なにも変わっていなかった。ああ、すべてがしっかりと残っていたぞ、ヤマカガシ。水は枯れていたがすぐに流れはじめるだろう。木々もまた生える。皆がここにいないのが本当に残念だ」

 と、いくつかの名を、ひとつひとつ、口の中で数えるようにしてとなえ上げた。

 ヒヒ。トキ。ミミズ。スイギュウ。クジラ。オウム。

「ミミズには会ったのだろう? なら、いつか来てくれるかもしれないな。百年後か、二百年後か」

 キ、シシシ、と、ヤマカガシが笑った。

「……おっと」

 突然、強い風が吹いて、枯れ草の上を大きな波が渡っていった。暖かいが、じゃりじゃりとした春の風である。

 目を閉じ、口をつぐんでそれをやりすごすと、今度は皆が、世界を一枚の風景画のように見ることができるようになっていた。空には自然物とはとても言いがたいコルベルカウダがあり、視界のすみにはマンタとマンムートが映りこんでいたが、全体的に見れば、それらはすべて過不足なく、ぴったりと収まっているのであった。

 誰も、言葉を発さなかった。

 各々が、各々の目で世界をながめ、勝手に感慨にひたり、それを口にすることもなく消化する。

 それは、そんな時間になった。

 今日のこの日、あのコルベルカウダのように、この先もすべてが順調に上手くいくのではないか。

 そんな予感が自分の胸をじんわりと温めていくのを、アレサンドロは感じていた。

 空の天球儀、コルベルカウダ。

 アレサンドロが見上げているそれはもう畏怖すべき魔人王の城ではなく、愛すべき新しい住処だった。

「さて……行こうか」

 沈黙を破って言い出したのはセレンだ。

「おお!」

 と、同意して走り出したのはマンタ。

 飛びつくように箱へと乗りこみ、

「おお、さっぱりわからん!」

 と、中を駆けまわる。

 二十人は入れそうな箱である。その壁にも、床にも、操作盤がない。

「ひらめいた、念じるのだな! むむむむ……せえい!」

 マンタは、ぱっと一瞬の閃光をほとばしらせて消えてしまった。

「ああ、なるほど」

 これは乗り物ではなく、転移装置だったのだ。

「珍しいな。マンタの勘が当たったぜ」

 セレン、ハサン、アレサンドロは、顔を見合わせて大笑いした。

「さあて……と。やれやれ」

 壊されてはたまらんと、ハサンが先に立って歩き出す。

 アレサンドロに深い微笑みを送って、ジャッカル、そしてヤマカガシが続く。

 セレンは、通信機をかつぎなおして小走りに向かう。

 皆が手招きして待つ箱の中へ、俺も、と、一歩踏み出したアレサンドロの足を引き止めたのは……突如起こった轟音と振動であった。

「なんだ?」

「アレサンドロ、あれだ!」

 北へ向かって、赤い彗星が尾を引きながら飛んでいく。

「サンセット……!」

「あの子が呼んだな。なにかあったらしい」

 ハサンは露骨に舌打ちをして、

「落ち着け」

 と、言った。

 目を見て言われたのはアレサンドロだが、当のアレサンドロは自分が言われたというよりも、ハサンがハサン自身のために言ったような気がしてならなかった。

「このままコルベルカウダへ行こう」

「おい、ハサン」

「黙れ。どこで待っても同じことだ。それよりもまず我々は準備を整えねばならん。あの城へはじめの一歩を刻み、旗を立てる。それをするのはおまえでなければならんのだ」

「……」

「サンセットが行ったならば向こうは安心だ。連絡を待つ。セレン博士、マンムートにもそのように伝えてくれ。心配いらんとな」

「……了解」

「よし、行こう」


 アレサンドロはコルベルカウダの中で見るもの、ひとつひとつに感動をした。感動をしながら、次の瞬間にはもう、まったくおかしなところへ焦点を向けている自分に気がついていた。

 サンセットが呼ばれたということは、戦闘が起こったのに違いない。

 確かにハサンの言うとおり、サンセットとカラスがそろえば、そうそう敗れることはないだろうが……。

 なんだろうな、この感じは。

 もやもやとする。

 生死や勝ち負けとは別の、なにかが起きてしまったような気がする。

 アレサンドロは落ち着かない、漠然とした不安をかかえたまま、ふわふわと歩いた。

 ハサンがぱきりと、爪を噛み切った。

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