第191話 ユウの息
『……ララ』
「……ん……」
『ララ……』
「う……ん……」
『これから戻る。すぐに、戻るから……』
「……ん」
『きっと、戻るから……』
……さて、マンタである。
マンタはボンメルの情報どおり、トレーニ高原の只中にあった。
標高は高いが目立った起伏がないため、レンズ雲のようなその姿はどこからでもよく見える。ただ視界のよさは奇襲を防ぐことにもつながるため、一概に不利とは言えない、というのがアレサンドロたちの考えであった。
しかしそれにしても、天使は襲ってこない。
今日も今日とて、どこかのなんとかいう町が襲われた、という噂を耳の端に聞く程度の『第三者』である。
ブリッジに詰めていたララたちは、許可を取ればどこに行ってもいいというあつかいになり、アレサンドロやハサンさえも、ブリッジを離れることがしばしばあった。
「おい、ハサン。俺たちは本当にこれでいいのか?」
あるとき、アレサンドロが言い出した。
食堂での朝食中であった。
「なあ、そろそろ、行動を起こしてもいいんじゃねえか?」
「というと?」
「エディンを探したほうがいいんじゃねえかって言ってんだ」
「フフン、どうした、待ちくたびれたか」
「いやそうじゃねえが、あいつは俺たちを無視して好き勝手やってやがる」
「ンン、いまのところはな」
「あいつの興味がこっちに向くまで待つってのは……少し、消極的すぎやしねえか?」
するとハサンは、ぷかり、煙草の煙をはき出して、
「いや、まったくそのとおり」
「……なに?」
「だからそのとおりだと言っている」
……実のところアレサンドロは、この魔術師がまた煙に巻く言いかたをして、辛抱のない自分を適当に笑い飛ばしてくれることを期待していたりしたのである。
それがどうだ。なんとも、予想外の答えが返ってきた。
そのとおりだ、とはつまり、ハサンも消極的だと感じている、ということなのだろうか。
ハサンは、にやりとして見せて、テーブル上のトレーをわきへ押しやった。
「さて、そのアレサンドロ君に、実は朗報がある」
「朗報?」
「ユウから手紙が来た」
「なんだと? いつ!」
「デンティッソが帰り際に渡してくれた。まぁ正確に言えばあれの書いたものではないが、複写だと思えばいいだろう」
「そりゃどこにある。見せてくれ」
「おおいいとも、これだ」
アレサンドロは奪い取るようにしてその二つ折りの便箋を取り、開いた。手紙とはいえ、ユウの生の声を聞くのはひさしぶりだ。
裏社会へ手をまわしておいて本当によかった。
……が。
「なんだこりゃ」
そこにはなにやら糸くずを散らかしたような、文字ともいえない短い線が、びっしりと書きこまれている。
透かしてみたり、折りたたんで線同士を重ねてみたりしても、それはやはり、ただの糸くずにしか見えない。
「……なんだこりゃ」
「さて、なんだと思う?」
「……暗、号?」
「おお賢いな、そのとおりだ」
アレサンドロは再び紙面に目を落としたが、これが表音文字なのか表意文字なのか、そもそもどこからどこまでが文字なのか、それさえもわからなかった。
「翻訳をいたしましょうか? 我が君」
「チッ、おふざけじゃねえぜ、ハサン」
アレサンドロは便箋を突き返した。
「さ、て……」
「ユウはなんて言ってきた?」
「まぁ待て待て、そう急くな」
ハサンはたっぷりもったいつけてから、パイプの灰を落として新しい草を詰め、
「順を追って話してやる」
と、言った。
ユウが知らせてよこしたのは、無論、それまでの一連の出来事である。
太刀を打ち上げる前に宣戦布告の放送を目撃し、取って返したこと。その途中、三日月の入れ墨をした一団と出会い、現在もまだ行動をともにしていること。食料を得るために立ち寄ったフェローの町で、バングからの手紙を受け取ったこと。
その直後、自律兵器だという天使が現れ、これを撃破したこと。
特にこの天使との戦いについては極力感情的な言葉を抑え、たとえば天使のどこに砲弾が当たったか、それがどのような砲弾で、どのような作用をおよぼしたか、などというようなことを事細かに書き送ってきていた。
あれにしてはなかなか気がきいた、と、ハサンはほめた。
「エディンは、またねと言ったそうだ。あれの耳には、まるでマンタを狙うぞと言っているように聞こえたと」
「あいつは来るか?」
「さて、来るとも言えるが来ないとも言える。だが今回の一件で、確実に、鉄機兵団は動く」
これまで目に見える成果は出ていないまでも大小様々な討伐作戦を決行してきた鉄機兵団が、将軍機と戦艦を前線に置いた、本格的な軍事行動に出ることはほぼ間違いないだろう。
アレサンドロは、ハサンがその手助けを提案するものと思ったが、これは違った。
鉄機兵団とは、つかず離れず。どこまでも三つ巴の関係であるべきだと、この紋章官は主張した。
「大人の世界は単純ではない」
「う、うん?」
「近づくばかりが融和への道ではないということだ。貸し借りはときに、しわを残す」
「だったら俺たちはどうする?」
「フフン」
ハサンは再び、ぷかりとやって、
「おまえの言うとおりだ、エディンを探す」
アレサンドロは自分で言い出したことながら、わずかに怖気づいた。
覚悟が足りないのではない。エディンに対する生理的な嫌悪感と、マンムート二号車に対する気づかいとが、一気に胸にわいたのだ。
「できるか?」
「まぁ、できんこともないだろう。天使が向こうからやってきてくれるならばよし。よしんば襲撃がなかったとしても、その死体がフェローにある」
「そいつを利用して、居場所を突き止めようってのか」
「無論、鉄機兵団も解析に乗り出しているだろうがな。これもまた大人の駆け引きというやつだ、アレサンドロ。我々がエディンを探していると知れば、鉄機兵団は少なからず安心をする。顔出しをしておいて損はあるまい」
……とんでもない世界もあったもんだ。
アレサンドロは心底真面目に、そう思った。
「さて、そこで目下の行動だが、セレン博士に天使の内部構造を読み解いてもらい、その上で通信の封鎖を解除する」
「ああ」
「天使の襲撃がもしなければ、ユウとの合流が完了したのちにフェローへ向かう」
「もし、あれば……」
「破壊する」
「……上等だ」
「ただし無茶はしてくれるなよ、アレサンドロ。先頭に立つ者がリーダーなのではない、すべての責任を背負い、最後に死ぬ者がリーダーなのだ」
と……。
そこへララが、
「アーレサンドロ」
と、おぶさってきたために、アレサンドロは次の言葉を続けることができなくなってしまった。
机の上に放り出されていた例の暗号文を回収する手ぎわのよさは、さすがのハサンであった。
「おっはよ」
「おう、おはようさん。どうした、今日は随分ご機嫌じゃねえか」
「え? そう? そんなことないよぅ」
言いながらもララは、うれしさを隠せない様子でクスクスと笑う。よほどいいことがあったようだ。
「ね、聞きたい?」
「なにをだ?」
「いいから、聞きたいって言うの」
「ああ、まあ、聞きてえな」
「ハサンは?」
「聞きたい」
ララは、だよね、と、足踏みするような仕草を見せて、背に抱きついたまま話しはじめた。
「あのね、ユウ、帰ってくるかも」
「なに?」
まさに、タイムリーな話題である。
「だからぁ、ユウが帰ってくるかもっての!」
「……どうしてそう思うんだ?」
「夢で見たの」
「夢?」
アレサンドロは拍子抜けした。
「今日、ユウが出てきてね。これから戻るからって」
「はぁ」
「ホントにホント! はっきりそう言ってたし、息だって、その、かかったり、したし……」
「息……?」
「う、うん」
ララは頬を赤らめつつ、アレサンドロに接しているのとは反対側の、右の耳にふれた。あろうことかユウの息が、そこに吹きこまれたということだろうか。
するとハサンも、クックと喉を鳴らし、
「あれも小癪な真似をする」
などと、余計ララを調子づかせるようなことを言った。
「想い人が夢に現れるのは、相手も自分を想っているからだという。さらに素晴らしいのは、ララ、まさしくその夢が的中しているということだ」
「え?」
「やつから先ほど連絡があってな、近々戻るそうだ」
「う、うっそ!」
「私が嘘を言ってどうなる。そうだろう、アレサンドロ?」
「あ、ああ、そうだな。帰ってくるって言ってたぜ」
……と、ととと、と。
足をもつれさせて離れたララの目は、輝いていた。
それは、らんらんというものではなく、感動に打ち震えた光だった。
「あ、あの、あたし……い、行くね!」
「セレン博士によろしく。あとで行くと伝えてくれ」
「え!」
「彼女に幸せを分けに行くのだろう?」
「う……あの、じゃあね!」
喉まで出かかった歓喜の叫びを、いますぐにでもはき出したい。
ララはその衝動を満面の笑みに変え、駆け出した。
「セーレンー!」
通路のはるか彼方からも、その声は聞こえた。
「……どうした、アレサンドロ。浮かん顔だな」
「まあな。俺もいま、ちょいと気になってることがある」
「ほう?」
「聞きてえか?」
「聞きたい」
アレサンドロは、もうなにを言われるかわかっているのだろうから、単刀直入に言うぜと前置きし、ずばり切り出した。
「あんたがやったんじゃねえのか」
「なにを」
「ユウのふりをだ」
フフン、と、これは思ったとおりの反応である。
「私もおまえに同じ言葉を返そう。なぜそう思う?」
「さあな。こいつは、あんたがやったってより、あんたならできるって話だ。物音ひとつさせねえで人の部屋に入る、ユウの声を使って話しかける」
「それについては認めよう」
「ただ、タイミングがよすぎる。もし本当に、ユウが夢を使って話しかけてきたってんなら……まあ、医者の端くれとしちゃあ認められねえが、仮にそういうことができたとしてだ、どうして、天使を落とした夜にやってこなかった?」
「まだ弱いな」
「じゃあこいつならどうだ? ユウは、女の耳に息を吹っかけるような男じゃねえ」
「ンッフフフフ、これはまいった。まったく、そのとおり」
「……認めるんだな?」
「まぁいいだろう。確かに私がやった。私が彼女に、戻ってくるとささやいた」
それはなぜか。
「私の仕事だからだ」
「……なに?」
ハサンは紋章官である。
紋章官とはつまり、軍師・参謀である。
ここではアレサンドロの意志に従い、知恵を働かせ、マンムートを勝利へ導くのが第一義だ。
そのハサンが、これも仕事だと言う。
それも思いのほか鋭い眼光で。
「つまり……?」
「期待を持たせ、士気を上げる」
「あんたはそれをしたってのか。からかい半分じゃなく、この、マンムートのために」
「そうだ」
「……だとしたら」
随分と残酷だ。アレサンドロは恋心をもてあそばれたララの気持ちを思った。
確かに嘘はついていないのだろう。ユウはいまこの瞬間にも、マンタに近づいている。
しかし、やはり、
「そういうやりかたは、好きじゃねえな」
アレサンドロはむしろ、からかったと言ってもらいたかった。
そうであれば自分も、あまり感心はできないながら、ただひとこと、しょうがねえオッサンだな、で終わらせることができたのだ。
「我々には砲弾がない。いよいよという段になれば、頼みの綱は彼女と、サンセットⅡだ」
「かも、しれねえが……」
「ララはいい子だ。『きっと戻るから』、そう言われたからには、マンタを死に物狂いで守ってくれることだろう。それが帰還するユウの、期待する形であるからだ」
「ッ……!」
「そして、『きっと戻るから』、そう言われたからには、彼女は死に物狂いで生き延びようとしてくれることだろう。ユウと再会すること、それが彼女自身の望みであるからだ」
ハサンは、ふ、と、快晴の窓の外へ目をそらし、
「おまえに足りんのはそれだな」
と、軽く眉間を押さえた。
「おまえは自身を露払いのように思っている。自分が倒れようと次の者が現れ、いずれ望むような形に仕上げてくれるだろうとな。しかしそれは、一方では正しく、一方ではあやまりだ。もうそろそろ……」
「……なに? なんだって?」
泣き虫で有名な少年が、そのとき、わぁっと泣き出したため、その言葉の結びはアレサンドロの耳へ届かなかった。
……もうそろそろ、この戦が、おまえのものになってもいいころだ。
ハサンはこの台詞をくり返そうとはせず、にやりと笑ってごまかした。
「もうそろそろ立場を自覚して、このマンムートのために生きて欲しいものだ」
「……チッ」
「それでもまだ前線に出ると言うか?」
「ああ、出るぜ」
ならば仕方がない、と、ハサンはパイプの灰を落とした。
「さて、では、セレン博士に会ってこようか」
「おい待て」
「おまえはマンタ君に伝えてくれ。しばらくは、この高原から出んようにとな」
アレサンドロは、まだ聞きたいことがあったものの、口をつぐんでうなずいた。
俺が出れば、足手まといになるか?
私にまかせておけ。ハサンの目は、そう語っていた。
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